妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象












十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、多数の
子から殴ったり蹴られたりして亡くなるという
痛ましい事件が起きました。


それを知った時、私は障がい児を持った親として、
また一人の教員として伝えていかなくてはならない
ことがあると強く感じました。


そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で
初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」
という授業です。


梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。
梓が生まれたのは平成八年のことです。


私たち夫婦はもともと障がい児施設でボランティア
をしていたことから、我が子がダウン症であるという
現実も割に早く受け止めることができました。


迷ったのは上の二人の子たちにどう知らせるかという
ことです。私は梓と息子、娘と四人でお風呂に
入りながら「梓はダウン症で、これから先もずっと
自分の名前も書けないかもしれない」と伝えました。


息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。


さあ、なんと言ったでしょう?という私の質問に、
子供たちは


「僕が代わりに書いてあげる」
「私が教えてあげるから大丈夫」
と口々に答えます。


この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
引き出されるように感じます。


実際に息子が言ったのは次の言葉でした。


「こんなに可愛いっちゃもん。
いてくれるだけでいいやん。なんもできんでいい」。


この言葉を紹介した瞬間、子供たちの障がいに対する
認識が少し変化するように思いました。


自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、
いやここにいてくれるだけでいいのだと価値観が
揺さぶられるのでしょう。


さて次は上の娘の話です。


彼女が「将来はたくさんの子供が欲しい。もしかする
と私も障がいのある子を産むかもしれないね」と言って
きたことがありました。


私は「もしそうだとしたらどうする?」と尋ねました。


ここで再び子供たちに質問です。
さて娘はなんと答えたでしょう?


子供たちの不安はどれも深刻です。しかし当の娘が
言ったのは思いも掛けない言葉でした。


「そうだとしたら面白いね。だっていろいろな子が
いたほうが楽しいから」。


子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような表情
を見せます。そうか、障がい児って面白いんだ──。


いままでマイナスにばかり捉えていたものを
プラスの存在として見られるようになるのです。


逆に私自身が子供たちから教わることもたくさん
あります。


授業の中で、梓が成長していくことに伴う
「親としての喜びと不安」にはどんなものがあるか
を挙げてもらいました。


黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、
下半分に不安に思われることを書き出していきます。


中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。
将来に対する不安が次々と挙げられる中、こんなこと
を口にした子がいました。


「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。
理由を尋ねると


「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、
分かるようになればそれが喜びになる。


意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば
喜びに変わるから」。


これまで二つの感情を分けて考えていたことは
果たしてよかったのだろうかと自分自身の教育観
を大きく揺さぶられた出来事でした。


子供たちのほうでも授業を通して、それぞれに何か
を感じてくれているようです。


「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、きょうの
授業を思い出してしっかり育てていきます」と言った子。


「町で障がいのある人に出会ったら自分にできること
はないか考えてみたい」と言う子。


「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」
と打ち明けてくれた子。


その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。


「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と私は
いつも責められてばかりでした。でもきょう、
“梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、
ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、あの子が
言ってくれたんです……」。


涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら
私も思わず胸がいっぱいになりました。


授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。


「あなたの息子は あなたの娘は、
あなたの子どもになりたくて生まれてきました。
生意気な僕を しっかり叱ってくれるから
無視した私を 諭してくれるから
泣いている僕を じっと待っていてくれるから
怒っている私の話を 最後まで聞いてくれるから
失敗したって 平気、平気と笑ってくれるから
そして一緒に泣いてくれるから
一緒に笑ってくれるから


おかあさん ぼくのおかあさんになる準備をして
くれていたんだね 私のおかあさんになることが
きまっていたんだね


だから、ぼくは、私は、あなたの子どもに
なりたくて生まれてきました。」


上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、お互いに
学生時代、障がい児施設でボランティアをして
いたからと答えたところ


「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる
準備をしていたんだね」と言ってくれたことが
きっかけで生まれた詩でした。


「お母さん、準備をしていたんだね」
という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。


author:是松いづみ
(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)











中学校の特別支援学級を担任する男性教員。


命じられた当初は、思ってもいなかったことに気が
動転したというが、その任命で人生が大きく変わる
ことになった。


「特別支援学級をお願いしたい」


山本大輔(仮名) 年齢:33歳 居住地:地方都市
専門:数学 勤務先:中学校 担任:特別支援学級


私は、特別支援学級の担任をするようになってもう
9年になります。


希望していたわけではありませんし、教員を目指して
いた頃には考えてもいませんでした。


最初の連絡は電話だったんですけど、電話口で
「特別支援学級をお願いしたい」と。そのときは、
やっぱりあまりうれしくはなかったですし、
動揺しました。


「何で俺なんだ」って。思春期ど真ん中の生意気な
中学生たちと、どうやり合おうかとワクワクしていた
ところでしたから。


実際に勤務が始まっても負の感情は拭えず、しばらく
すると「何で俺がこのクラスの担任をしているんだろう」
と思うようになり、早く一般のクラスを持ちたいと
感じるようになりました。


特別支援学級の子どもたちは、周りの子どもから疎外
されていますし、担任である私もほかの職員から疎外
されているように感じていました。


指導の悩みに関しても一般のクラスとは少し違うことも
あって、ほかの先生の話題についていけないんですよ。


学級通信とかの配布物が私のところにだけ回ってこな
かったこともあります。それも複数回。徐々に、
ほかの先生から仲間外れにされているような気分に
なっていました。


でも、ほかの先生たちと個別に話すと、至って普通。
冗談も言い合いますし、飲みにも行く。


そこで気づいたのは、特別支援学級も私も、ただただ
存在が薄かったということなんです。


じゃあ、自分から発信すればいいんだと。
「配布物ちゃんとこっちにもくださいよー」
「忘れないでくださいよー」って。


そうやってアピールするうちに疎外感もなくなり、
自分の居心地もよくなっていきました。


最初の卒業生を送り出して、その子たちが高校に行った
わけですけど、しばらくして私のところに遊びに来て
くれたんです。近況報告ですね。


そこで、伸びているのが如実にわかったんです。
これはうれしかったですね。 とはいっても、一般の
クラスの担任を持ちたいという気持ちはその後の
数年は変わらずあって、しばらくは校長に希望を
伝えていました。


それでも願いはかなわず、そうこうしているうちに
5年が経とうとしていました。


初任の学校は最長で5年なんですが、その時期が
近づいてきていろいろと考えるようになりました。
本当にいろんなことです。


自ら特別支援学級を希望


特別支援学級って、いろんな子がいるのでひとくくりに
できませんが、例えばハサミを上手に使えない子が
真っすぐきれいに紙を切れるようになるとか、
できなかった掛け算ができるようになるとか、
そういう子もいます。


それだけで子どもたちの世界って変わるんです。
それを喜々として語るんです。そこに立ち会える
のって幸せなんですよ。


中学生の本分って生意気なところかもしれないですけど、
特別支援学級ではそういう生意気さというのはないん
ですね。むしろ、取り組んでいるレベルとしては小学生
の延長線上かもしれません。


それでも目の前でそういう出来事があると、うれしく
なってしまうんですよね。


私の今の学校では、特別支援学級の子は週に2、3時間は
一般のクラスに交じって同じ授業を受けることがあって、
イベントでは一般のクラスと一緒になるんです。


でも、そうなるとやっぱりうまくいかないことが多い。
体育祭で大縄跳びが跳べない、
合唱コンクールで音程が合わない。
そういうことがあると、冷たい視線が飛んでくるし、
実際に嫌なことを言われたりするんです。


クラスのみんなで一つのものをつくり上げようと
して、うまくいかない原因が明らかであれば、
そりゃそうですよね。冷たい視線を飛ばす子の気持ち
もすごくよくわかる。


でも、その一方で、障がいを理解して、助けてくれる
子も出てくる。肩を持つような発言をしてくれたり、
大縄跳びのコツを説明しようとしてくれたり。それで
またクラスの雰囲気が変わったりする。


それはそのクラスの成長のタイミングだったり
するんです。 それと、実際的な考え方の変化
もありました。


各教科ごとに研究会というものがあって、近くの学校
から同じ専門を持つ先生が参加するんですけど、
特別支援学級もあるんですね。


その研究会も新任の頃、すぐに誘われましたが、
しばらく断っていました。


正直なことを言うと、一度入ったら抜けられなくなる
と思っていたんですね。そのときはすぐにでも一般の
クラスを担当したいと考えていましたから。


でも断り続けるのも難しくて、研究会にも参加する
ようになったんですけど、やはり参加した分だけ
少しずつ知識が深くなっていくんです。


数年経つと新しい先生たちからの相談にも乗れるよう
になってきました。そうやって少しずつやりがいを
感じるようになったんです。


そんなことがあって、次の学校に行くときには、
自分から特別支援学級を希望しました。
新しい学校に来て、もう4年が経ちます。


障がいの度合いで親の考えが変わる


経験が増えて思うのは、親御さんへの対応の難しさですね。
親御さんはざっくりいうと子どもたちと同様、素直な
方が多い。


しっかりやっていると、それは見ていてくれて信頼関係
ができますが、こちらが手を抜くとガンガン詰めてくる。


難しいのは子どもの障がいの度合いによって、親御さん
の意識が違うということです。


障がいがはっきりしている子の親御さんほど学力の
支援より「生活の支援」を期待するんですね。


それが、障がいが軽度の子の親御さんになると、
「学力の支援」を求めてくる。


学力を何とかつけてもらって、ゆくゆくは普通の生活が
できるようにという希望を持っているんです。


それぞれの事情があるので、それらの個別の要求は
問題ないんです。ただ、その微妙な違いを理解して
いない先生が対応してしまうと、親御さんから不信を
買ってしまうことになります。


特別支援学級には経験のある先生だけではなく、
新任の先生や再任用という形で入る年配の人もいて、
そういう人は、伝え方が上手ではなくてトラブルに
なるケースもあります。


例えば、できないことがあってパニックに陥ってしまった
子がいたとして、その事実をそのまま伝えてしまうとか。


親御さんからしてみれば、できないことがあるのも
パニックになるのも、許容範囲内なんです。
それを先生たちがどう指導してくれたのかが聞きたい。
そういう細かいところは気を使いますね。


今では、当初から比べたらだいぶ余裕が出てきました。
それで、今考えているのは「特別支援学校」という
選択肢です。


一般の中学校にある特別支援学級ではなく、支援が
必要な子だけが通う専門的な学校です。


というのは、一般校の中の特別支援学級ってつらい
こともやっぱり多いんですよ。


障がいを持っている子が、友達の輪の中に加わりたい
けど加われないとか、それどころか嫌がらせを受けるって
いうのはしょっちゅうで、間近で見ているとつらいし、
今の私ではその場しのぎの指導しかできないんです。


専門的な支援や指導の方法を学べば、嫌がらせを受けた
障がいのある子だけでなく、周囲の子に対してもできる
ことが増えるんじゃないかと思っています。


先を見据えて指導ができますから。中学校を出て高校に
行ってその後どうするのか、そういうところを考えて
指導していきたいです。


やっぱり経験が増えると、見えてくるものが変わって
くるんですよね。もうここまで来たら、今の道を突き
進もうと考えています。 ・・・・







子供は小学校2年生の女の子。農村に住んでいます。


この子は、学校から一目散に家に帰ってきます。
家に帰ったらお母さんが待っていてくれる。
やさしい顔で、自分を迎えてくれる。


そして「お腹すいたやろ、お食べ」といって
手づくりのおやつを出してくれる。それが楽しくて、
この女の子は家に帰ってくるのです。


しかし農業という仕事は、母親も貴重な労働力です。
たいていは夫、義父、義母などとともに、田畑に行って
農作業に従事しているのが、日本の農家の母親の姿です。
女の子の母親も例外ではありません。


一目散で家に帰ってみたら、案の定家の木戸は閉まって
いました。これは、お母さんが留守という証拠です。


女の子は、ちょっぴりがっかりしました。そして、
「よいしょ!!」と声をかけて戸を開き、家のなかに
入りました。


家のなかに入って、びっくりしました。
土間いっぱいに何か描かれています。


お母さんの顔だ。
消し炭でお母さんが書いてくれたんだ。
その隣には字が書いてある。


「お帰り。お母さんは焼畑に出かけています。
戸棚のなかにおやつが入っているから、
それを食べて待っててね」


女の子は嬉しくなりました。
そして自分も消し炭をもってきて、
お母さんの顔のよこに、ちいちゃく自分の顔を
描きました。リボンをつけた女の子です。


その子に手を描き加えました。
手はお母さんの肩のところまでいき、
肩たたきをしています。


書き終えた女の子は満足でした。
お母さんがいなくても、ちっとも寂しく
ありませんでした。


手を洗い、戸棚からおやつをとりだし、食べながら
ずっと土間に描かれたお母さんと、リボンをつけた
自分の絵を見て、 お母さんが帰ってくるのを
待っていました。


この女の子の母親は、どんな気持ちで学校から
自分の子供が帰ってくるかを知っています。


また、子供も、そんな母親の気持ちを十分理解
しています。


この母親もまた無名です。
しかし、なんとすばらしいお母さんでありましょう。


夕方になって、焼畑から帰ってきた母親は、
土間に描き加えられたもう1つの小さな顔をみて、
きっと嬉しくなったことでしょう。


その晩の食事は、消し炭の母子像の話題で、きっと
賑やかになったであろうことが想像できます。


そこには家庭があります。
子供を育む母の愛があふれています。


私はこの話を、その女の子の作文から知りました。
いい話だなァ、と胸のなかがじわじわと
暖かくなっていく気がしました。
一昔前の話です。


このように愛情を注ぎ合いながら育った子供には
今の世の親殺し子殺しなど無縁のことでしょう。


この子供が親になった時、自分が与えられたのと
同様に愛情を注ぐでしょうから。・・・






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