妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・妄想物語







歌:桂銀淑
作詞:里村 龍一:作曲:浜圭介


一幕芝居の 人生を
飾れる夢さえ 今はなく
倖せ失した 手のひらに
今夜もグラスが 揺れている










風のせいでそんな音がでているのか、誰かが本当に叩いて
いるのかは判断がつかなかったが、必死に風のせいだ、
と思い込もうとした。


落ち着こうとお茶を一口飲んだが、やっぱり怖くて、
テレビの音を大きくして無理やりテレビを見ていた。


そんなとき、じいちゃんの声が聞こえた。


「おーい、大丈夫か。怖けりゃ無理せんでいいぞ」
思わずドアに近づいたが、じいちゃんの言葉をすぐに
思い出した。


また声がする。「どうした、こっちに来てもええぞ」
じいちゃんの声に限りなく似ているけど、あれはじいちゃん
の声じゃない。


どうしてか分からんけど、そんな気がして、そしてそう思った
と同時に全身に鳥肌が立った。


ふと隅の盛り塩を見ると、それは上のほうが黒く変色していた。


一目散に仏像の前に座ると、お札を握り締め「助けてください」
と必死にお祈りをはじめた。そのとき「ぽぽっぽ、ぽ、ぽぽ…」
あの声が聞こえ、


窓ガラスがトントン、トントンと鳴り出した。そこまで背が高くない
ことは分かっていたが、アレが下から手を伸ばして窓ガラス
を叩いている光景が浮かんで仕方が無かった。


もうできることは、仏像に祈ることだけだった。


とてつもなく長い一夜に感じたが、それでも朝は来るもので、
つけっぱなしのテレビがいつの間にか朝のニュースをやっていた。


画面隅に表示される時間は確か七時十三分となっていた。
ガラスを叩く音も、あの声も気づかないうちに止んでいた。
どうやら眠ってしまったか気を失ってしまったかしたらしい。


盛り塩はさらに黒く変色していた。


念のため、自分の時計を見たところはぼ同じ時刻だったので、
恐る恐るドアを開けると、そこには心配そうな顔をした
ばあちゃんとKさんがいた。


ばあちゃんが、よかった、よかったと涙を流してくれた。
下に降りると、親父も来ていた。


じいちゃんが外から顔を出して「早く車に乗れ」と促し、
庭に出てみると、どこから持ってきたのかワンボックスの
バンが一台あった。


そして、庭に何人かの男たちがいた。


ワンボックスは九人乗りで、中列の真ん中に座らされ、
助手席にKさんが座り、庭にいた男たちもすべて
乗り込んだ。


全部で九人が乗り込んでおり、八方すべてを囲まれた
形になった。


「大変なことになったな。気になるかもしれないが、
これからは目を閉じて下を向いていろ。


俺たちには何も見えんが、お前には見えてしまうだろう
からな。いいと言うまで我慢して目を開けるなよ」
右隣に座った五十歳くらいのオジさんがそう言った。


そして、じいちゃんの運転する軽トラが先頭、


次が自分が乗っているバン、後に親父が運転する乗用車
という車列で走り出した。


車列はかなりゆっくりとしたスピードで進んだ。
おそらく二十キロも出ていなかったんじゃあるまいか。


間もなくKさんが、「ここがふんばりどころだ」と呟くと、
何やら念仏のようなものを唱え始めた。


「ぽっぽぽ、ぽ、ぽっ、ぽぽぽ…」またあの声が聞こえてきた。
Kさんからもらったお札を握り締め、言われたとおりに目を
閉じ、下を向いていたが、


なぜか薄目をあけて外を少しだけ見てしまった。


目に入ったのは白っぽいワンピース。それが車に合わせ
移動していた。あの大股で付いてきているのか。頭は
ウインドウの外にあって見えない。


しかし、車内を覗き込もうとしたのか、頭を下げる仕草を
始めた。無意識に「ヒッ」と声を出す。


「見るな」と隣が声を荒げる。


慌てて目をぎゅっとつぶり、さらに強くお札を握り締めた。
コツ、コツ、コツ ガラスを叩く音が始まる。


周りに乗っている人も短く「エッ」とか「ンン」とか声を出す。
アレは見えなくても、声は聞こえなくても、音は聞こえて
しまうようだ。


Kさんの念仏に力が入る。


やがて、声と音が途切れたと思ったとき、Kさんが
「うまく抜けた」と声をあげた。


それまで黙っていた周りを囲む男たちも「よかったなあ」
と安堵の声を出した。やがて車は道の広い所で止り、
親父の車に移された。


親父とじいちゃんが他の男たちに頭を下げているとき、
Kさんが「お札を見せてみろ」と近寄ってきた。


無意識にまだ握り締めていたお札を見ると、全体が
黒っぽくなっていた。


Kさんは「もう大丈夫だと思うがな、念のためしばらくの
間はこれを持っていなさい」と新しいお札をくれた。


その後は親父と二人で自宅へ戻った。


バイクは後日じいちゃんと近所の人が届けてくれた。
親父も八尺様のことは知っていたようで、子供の頃、
友達のひとりが魅入られて命を落としたということ
を話してくれた。


魅入られたため、他の土地に移った人も知っているという。
バンに乗った男たちは、すべてじいちゃんの一族に関係が
ある人で、


つまりは極々薄いながらも自分と血縁関係にある人たちだ
そうだ。前を走ったじいちゃん、後ろを走った親父も当然
血のつながりはあるわけで、


少しでも八尺様の目をごまかそうと、あのようなことをした
という。親父の兄弟(伯父)は一晩でこちらに来られなかった
ため、血縁は薄くてもすぐに集まる人に来てもらったようだ。


それでも流石に七人もの男が今の今、というわけにはいかなく、
また夜より昼のほうが安全と思われたため、一晩部屋に
閉じ込められたのである。


道中、最悪ならじいちゃんか親父が身代わりになる
覚悟だったとか。


そして、もうあそこには行かないようにと念を押された。


家に戻ってから、じいちゃんと電話で話したとき、
あの夜に声をかけたかと聞いたが、そんなことは
していないと断言された。


・・・やっぱりあれは…と思ったら、改めて背筋が寒くなった。
八尺様の被害には成人前の若い人間、それも子供が遭う
ことが多いということだ。


まだ子供や若年の人間が極度の不安な状態にあるとき、
身内の声であのようなことを言われれば、つい心を許して
しまうのだろう。


それから十年経って、あのことも忘れがちになったとき、
洒落にならない後日談ができてしまった。


「八尺様を封じている地蔵様が誰かに壊されてしまった。


それもお前の家に通じる道のものがな」と、
ばあちゃんから電話があった。


じいちゃんは二年前に亡くなっていて、当然ながら
葬式にも行かせてもらえなかった。


じいちゃんも起き上がれなくなってからは絶対来させるな
と言っていたという


今となっては迷信だろうと自分に言い聞かせつつも、
かなり心配な自分がいる。


「ぽぽぽ…」という、あの声が聞こえてきたらと思うと…












ある日の診察で、父親がA子さんの家での様子を次のよう
に話しました。  


A子さんは、時々、父親にアイスクリームやゼリーを手作り
しているそうです。


そして、それはマッサージをしてもらっていることへの
「お礼」だというのです。  


以前に父親がマッサージをしてあげたら、A子さんは
非常に喜んだそうで、


以降、いつもそれを楽しみにしており、逆にA子さんが
父親にマッサージをしてあげることもあるそうです。


お互いをマッサージし合うというのは、中学生の女の子
と父親の関係としては、あまりにも濃密な行動です。  


しかし、母親はそこではない部分を懸念していたようです。  


父親が「A子は料理が得意だから、私のためにお菓子
を作ってくれている」と言ったときには、たまりかねたよう
に母親が口を開きました。  


「私は料理があまりうまくなくて。


A子は時々、私の代わりに夕飯を作りたいと言うんです。
夫もA子の気持ちを大切にしてあげたいというのですが……」
と表情を曇らせました。


さらに、こうも付け加えました。  


「娘が料理をするときには、娘と夫が2人で買い物
に行くんです」  


夕食づくりを娘がやることや、買い物までも娘と一緒に
出かける自分の夫と娘の密着ぶりへの疑問や不満が
伝わってきました。  


しかし、心の中の疑問や不満については、直接、父親には
伝えていないことがわかりました。  


父親と娘は、夜中に2人でウォーキングに出ることも
あるそうで、「まだA子は中学生なので、夜は早く寝かせた
ほうがいいと思っているんですが、


それを止めるわけにもいかず……」
と口ごもりながら言いました。


女性としての成熟に自らストップを  


表面上、母親とA子さんの関係は決して悪くはなく、
けんかやもめごともありません。


ただし、母親の側は夫だけではなく、娘に対しても心中に
強い違和感を抱えているようなのです。


父親は、それにまったく気づいていないようでした。  


A子さん本人はどうでしょうか。 敬愛し、尊敬する父親からは、
自分の姉、それに母親以上に愛情を受けているとの自覚が
あるのは間違いありません。


マッサージ、早朝テニスや深夜のウォーキングなど、
父親離れが始まる中学生の女の子としては考えられないほど、
A子さんと父親の関係は濃密なものです。


姉が留学した後は、その傾向にさらに拍車がかかっています。  


とはいえ、いつまでもそんな自分をめぐる環境に、葛藤なく
居続けることができるでしょうか? 


児童期とは異なり、思春期はさまざまな理由から、
不安が高まりやすい、難しい時期なのです。  


ピーター・ブロスは、思春期を初期思春期(中学生前後)、
中期思春期(高校生前後)、後期思春期(大学生前後)
に分類しました。


とくに、中期思春期は、心の問題が起こりやすい時期です。  


精神分析の専門用語で「エディプス葛藤」と呼ばれますが、
幼児期には異性の親への愛着、それと同時に同性の親
への嫉妬や敵意が芽生えます。


小学生の時代には、父親との関係はA子さんにとって問題
になっていませんでした。


しかし、思春期を迎えてエディプス葛藤が再燃したA子さんが、
母親よりも自分のほうが父親と近しい関係にあることで、
母親への潜在的な恐怖感を抱くようになったと考えることが
できるのです。  


同様に、自分が女性として成熟していく不安が、
A子さんにとって「食事への恐怖感」として表れたと
考えることもできました。


父親との関係が母親に対する恐怖に  


これらのことを伝えると、A子さんの両親もすんなりと理解
してくれました。2人とも、内心思うところがあったの
かもしれません。  


私の勧めに従って、以降、父親がA子さんにお菓子や
夕食を作らせることはなくなりました。


もちろん、マッサージや夜の散歩もやめました。


学校の勉強では、過剰に父親が介入せずに、自分で計画
して勉強する習慣をつけるように促しました。  


家庭内において、父親、母親、そして子どもの位置づけや
役割、それに親離れの行動などは「本来あるべきもの」に
修正されていきました。  


しばらくして、A子さんの姉が留学から帰国すると、
家族の関係は、さらにA子さんの発達を妨げない健康な
ものへと改善していきました。  


それと共に、A子さんが抱えていた「食べることが怖い」
という症状は、徐々に治まっていきました。  


A子さんの両親がクリニックに来た理由も、
「問題はなさそうだが、念のため」だったのです。  


A子さんの内面には、思春期ならではの葛藤が存在し、
それが「食べることが怖い」という症状で顕在化して
いたわけです。  


特に中期思春期は発達が滞りやすく、難しい時期です。
身体的にも子どもから大人の体へと大きく変化し、
それを受け入れていかなければなりません。


親として子どもを発達方向に導くのが難しいと感じたら、
症状や病名にかかわらず、専門医へのご相談を
お勧めします。 ・・・








朝、目が覚めたら隣で寝ていたお母さんが死んでいたからだ。


心筋梗塞だった。
父親はというと、 別の女性の家で寝泊まりしていて
留守だった。  


お母さんの葬式の日に新しいお母さんはやってきた。
そしてその日は、言われなき暴力の始まりの日でもあった。


来る日も来る日も信じられない虐待が続いた。


当時の火傷の跡は三十数年経った今でも体に残って
いるそうだ。  


2年後、貿易商だった父親は5歳の娘を東南アジアに
養女に出そうと言い出した。


そんな話を聞きつけて、東京に住む亡き母方の祖父母が
孫娘を引き取ることになった。  


実は、森野さんのお母さんが急死した時、
おばあちゃんは末期の子宮がんで入院中だった。


子宮、卵巣、卵管、膀胱が摘出され、大腸、小腸、腎臓の
一部も切り取られた。  


夫であるおじいちゃんには「手術は成功しましたが、
生存率は1%もありません」と告げられた。  


それから2年。瀕死の状況でありながらおばあちゃんは
何とか生き抜いた。


そして3歳だった少女もまた虐待の日々を生き抜き、
5歳になっていた。  


少女は虐待から解放された。


しかし、祖父母の家に引き取られる日、新幹線に乗り込む
少女の気持ちは悲しみでいっぱいだった。


「私は悪い子だから家を追い出されるんだ」、
東京駅に着いてからも祖父母の家までメソメソ泣いていた。  


祖父母の家は貧しいアパートの一室だった。


中に入って少女は戸惑った。
テンションの高いおばちゃんが大勢いたのだ。


「○○さんの家に小さな子がもらわれてくる」というので、
近所のおばちゃんたちが歓迎会を開いてくれたのだった。


おばちゃんたちは口々に「よく来たね」「いい子だね」と言った。
少女には何が起こっているのか分からなかった。


「誰が新しいお母さんなの?」と思った。  


「あのおじいちゃんおばあちゃん2人に子育ては大変」と、
その日から5歳の少女はたくさんの大人たちに温かく、
大切に育てられることになる。  


小学生になる日がやってきた。


文房具一つひとつに名前を書く、上履き入れの袋、
体操着入れの袋、雑巾等々、


準備しなければならないことがたくさんあった。
おばちゃんたちは分担を決めて家に持ち帰り、
入学式までには全部揃った。  


参観日や学芸会の日、おばあちゃんの体調が悪い時は、
必ず誰かが代わりに来てくれた。


遠足の日にはたくさんのおかずが集まり、誰よりも大きな
お弁当になった。


極めつけは運動会。運動場に一箇所だけ異常にテンション
の高い集団があった。


自分の名前が書かれた垂れ幕が出た年もあった。
学年が上がる度に恥ずかしくて仕方がなかった。
でも嬉しかった。  


森野さんは言う、「どのおばちゃんもみんな輝いていた。
いつも笑顔だった。


喜んでいるのはお世話になっている私だけじゃない。
手を差し伸べているおばちゃんたちも喜んでいると思った。
私もいつかあんな大人になりたいと思った。


私が絵本作家になった動機もそれでした」  


「国境の向こうで地雷撤去をしている人たちや、
難民キャンプでワクチン投与をしている人たちだけが、
世界平和に貢献しているんじゃない。


子どもに120%の愛情を注いで育てることも世界平和に
繋がっていると思う。


立場を入れ替えることができないということは
同じ価値があるということだと思う」


たくさんの人の愛情をもらって育った森野さかなさん。


彼女の『こどもの人権を買わないで』という作品は
日本ユネスコ協会の「2000年平和の文化国際年」
記念出版作品となった。


また日本ユニセフ協会の推薦図書として、世界各国の
子どもに関するイベントで展示された。  


「足元にある、自分にしかできないことをやることが
本当の世界平和なんじゃないかな」と
森野さかなさんは言う。…






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