妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・歌物語







歌:純烈
作詞:渡辺なつみ・作曲:大谷明裕


抱いて抱いて 抱きしめ合い
燃えて燃えて 燃え上がって
今夜はドラマチック フォー・ユー


熱い視線は 真冬のテキーラ
みつめられたら 帰れなくなる
冷えた唇 重ね合うふたり
愛に抱かれた夜








「東京お台場 大江戸温泉物語」の閉館が報じられたのは、
6月23日のことだった。


同施設は2003年3月に開業以来18年間に渡り営業を続けて
きたが、東京都との事業用定期借地権設定契約が
今年12月に満期となり、


契約最長期間が20年で再契約も認められなかったため、
建物を解体撤去し更地とした上で土地を返還する。  


解体工事を年内に終わらせる必要があるため、
9月5日をもって閉館。


多くの利用客に愛される施設だけに、大江戸温泉としても
苦渋の決断だった。


デビュー記念日に……


東のホームグラウンド突然の閉館発表  
同地は純烈にとって東のホームグラウンドと、ファンの
間でも認知されていた。


紅白歌合戦初出場を果たす前の2018年7月より定期的
にコンサートを開催し、2度目の大晦日から年が明けた
深夜に凱旋ライブをおこない、


メンバーとファンがともに喜びを分かち合った。  


コロナの影響により全国のスーパー銭湯を回れなくなった中、
10周年記念ライブを無観客でおこなったのも大江戸温泉の
ステージだったし、


今年4月12日には有観客でも再開。


ラウンドや声出しはできずとも、また地べた座りの距離感で
ハッピーを共有できる空間が味わえると喜んだ矢先の
ニュースだった。


「私が知ったのは、今年の5月後半ぐらいでした。
ギリギリまで話し合いをしているという報告は受けていた
のですが、それぐらいの段階でもしかすると閉館する
かもしれないと聞いて、


6月に入ってから確定したという話を聞きました」  


純烈ライブ起ち上げ当初から携わってきた企画販促
マネジャー・平澤誠さんがそう明かす。


スタッフ的にも閉館に関しては実質上、寝耳に水の話
だったことがうかがえる。  


有観客ライブを再開させ、さあこれからというタイミングで
平澤さんは決定事項を純烈の山本浩光マネジャーに
伝えなければならなかった。


その心中は察するにあまりある。  


閉館が発表された6月23日は、奇しくも純烈にとって
12回目のデビュー記念日だった。


その日は、ファンによる惜しむ声がツイッター上にあふれた。
「純烈~温泉ライブinお台場」は全19回開催された。


一日昼夜の2ステージだから、計38公演となる。


閉館発表後は7月26日、8月20日と9月2日の6公演が
大江戸温泉で見られる残されたチャンスだった。


プラチナ化した公演は「館内パブリックビューイング」を実施  


8月20日昼の部、ライブ会場である中村座に足を運んだ。
4月の再開以来、ソーシャルディスタンスを取った座席数は
半数に押さえられており、


そこへ閉館の報が出たことでプラチナペーパー化に
拍車がかかっていた。  





それもあって、大江戸温泉は中村座を出た一般の利用客
が行き来するところへモニターを設置し、館内パブリック
ビューイングを実施。


チケットが買えずとも、これならリアルタイムでライブが
見られる。 こうしたところにも、大江戸温泉のファンに
対する姿勢が見受けられた。


最初のMCコーナーで酒井一圭は「残すところあと何公演
と数えると、僕らもだんだん寂しさを感じるようになって
きました」と口にした。  


だが、そこはあくまでも普段通りの純烈として楽しむ方向
に振り切り、寂しさを感じさせぬ内容で見せた。


外の気温は35℃。セミの鳴き声が室内まで届く中、
それがMCにおけるBGMとなっていた。  


この日の目的は、ファンの皆さんに大江戸温泉での思い出
を聞かせていただくことだった。


ファンそれぞれの”大江戸温泉物語”  


ライブ後のCD購入特典撮影会を終えた方々に声をかけると、
世に伝わっていないそれぞれの大江戸温泉物語が人数分
だけあった。


2人組の純子さんは、初めて純烈が紅白へ出た時、
一緒にステージを経験したというツワモノだった。


「ファンクラブで募集がかかって、応募したら当たったんです。


ステージ上でウチワを持って応援して、紙テープを投げる
役だったんですけど、それも純烈を好きになったことで
体験できたことじゃないですか。


ガオレンジャーの頃からリーダーのファンで、脚を折った時に
『俺は絶対紅白に出るからな。


その時は、NHKホールに来るやろ』と言われて、面白いこと
を言っているから応援しようとなったら、本当に連れて
いってくれたんです。  


そういうことがあっての、2度目の紅白後の凱旋ライブ
だったから、あれが大江戸温泉での一番の思い出ですね。


1度目はステージ上から、2度目はNHKホールの客席から
見てここに移動して、みんなで祝うことができた。


それも大江戸温泉があったからできたことだと思うんです。


それまで健康センターでやっていて、ファンが増える中で
誰もが参加できる。私たちにとってもプラットホームでした」  


紅白初出場を果たした2018年の11月に、純烈は日本
レコード大賞日本作曲家協会奨励を受賞した。


歌に関しゼロからスタートしたグループが、実力を評価
されて選ばれた初めての賞だった。  


ヘタだヘタだと言いながらも、作曲家協会に認められた
のだからそれは嬉しい。


12月30日のレコード大賞で記念の盾を授賞されると、
酒井は大江戸温泉にそれを持ってきた。


「これがみんなの応援によって受賞した盾です。


この喜びを分かち合いたいので、今からこれを客席に
回します!」  デビュー8年で歌謡グループとして認められた
証しを、酒井はファンにも開放した


。もしかすると回しているうちに壊してしまう可能性も
ゼロではない。


「俺らの間でも回したけど、その次はってなったら応援して
くれたからもらえたわけで。みんなもどんどんさわって!ですよ。


あの盾、重かったからその重みを感じることで喜びを分かち
合えるなと、自然とそうなりましたよね。


あれを思い出にしてくれているお客さんがいたの? 


それは嬉しいですね。そういうのって、健康センターだから
できることだし」(酒井)  


確かに、これが通常のコンサートホールでステージと客席
に距離があったらできなかった。


靴を脱ぎ、畳に座ってリラックスしているシチュエーション
だから盾に殺到することもないし、観客も大江戸温泉に
集まる気心の知れた者同士だから成立する空間だった。  


純烈とファンと大江戸温泉の3つが揃ってこその“
しあわせお裾分け”の場。


紅白の常連となるまでは「あのグループが賞をもらうこと
なんてない」というように見られていた。


「だからこそ、初めて認めてもらえたというのがファンに
とっても嬉しかったんです。


自分たちが応援してきた純烈の魅力が、やっと世間に届いた
という喜びを大江戸温泉に来ていたファンも味わえた。


じっさい、あの受賞をきっかけにCDもどんどん売れるよう
になっていった。


京都から来られたというマダムは、6月公演で初めて大江戸
温泉ライブを体感した。  


それまでは同じ大江戸温泉物語ホテルズ&リゾーツ株式会社
グループの箕面温泉スパーガーデンに4年近く通っていたが、
ようやく東の方にも足を伸ばせた。


ところが、その直後に閉館の報を聞きこの日、2度目の遠征
となった。 「箕面もそうなんですけど、ステージと近いことで
の一体感がコンサートホールとは違って、


楽しく温かいこの雰囲気が好きでした。


なのでニュースを知った時は残念な気持ちでいっぱいでした。
でも私よりも純烈の皆さんの方が何倍も寂しいはずです。


ファンの一人として、お礼を言わせていただきたいです。
ありがとうございます。


今はコロナの影響でライブはおこなわれていませんが、
箕面が再開したら必ずうかがいます」  


純烈とそのファンはじっさいの距離よりも“距離感”
でつながっている。その象徴が、ここ東京お台場


大江戸温泉物語だったのだ。 …


author:二木紘三










2021年に生誕500年を迎えた戦国武将・武田信玄。
戦国最強の騎馬軍団を率い、“甲斐の虎”と恐れられた


武田信玄のエピソード





信玄は当年49歳、百戦錬磨の功を積んで思慮も
最も円熟していた。


信玄の考えでは、南に下って駿河に出ようとすると
小田原の北条氏政がこれを妨げるから、逆に駿河
に出ないで、啄木(たくぼく)の戦法によって


小田原城を叩こうという計画だった。


家来たちはみんな一生懸命に、進軍の道筋と
日程を論じている。


信玄は一人黙然として考えていた。
家来の一人が「殿様がいかがお考えか、
お伺い申し上げます」というと、


信玄は
「お前たちがいいように計らえばよい」と答えた。


そういう信玄が手元に広げている地図を見ると、
赤い線があちこちに引かれている。


それを見て家来は訪ねた。


「その道から討って出る思し召しですか」
すると信玄は、頭を振ってこう答えた。


「いや、これは引き揚げる道だ」
それを聞いて大将たちは仰天した。


勇ましい進軍の門出に、退却の道を考えるのは
なんたる不吉なことであろうか。


我々は勝って北条氏をほうむる覚悟である。
破れて引き揚げようとは思っていない。


そこで、大将たちは口々にいった。


「それはご無用のことです。
凱旋(がいせん)するときはどの道でも自由に
通行できますから、今そのようなご検討をする
必要はありません」


信玄は笑った。


「そうかも知れぬ。そうでないかも知れぬ。
お前たちは進むことを考える。


それゆえに私は退くことを考えるのだ。
進むことは容易だが、退くのは難しいものだぞ。


人間というものは、
どのように生きようかということよりも、
どのように死のうかということを
考えなければならぬ。


どのように進もうかということよりも、
どのように退こうかということを
考えるほうが大事なのだ」


そのようなわけで、信玄は小田原城を囲んだが、
もう一揉みと逸る家来たちを抑えて、さっさと
予定の退路を引き揚げた。


すると、物を知らない北条方はすわとばかりに
追撃してきて、三増峠の合戦でこてんぱんに
信玄に打ち破られた。


信玄は崩れ立つ敵勢を尻目に見て、
山を下って悠々と甲府に引き揚げたのである。


信玄のこの言葉は事業などにも当てはまるだろう。


事業も拡大するのは易しいが、
引き揚げるのは難しいものである。…






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