妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・特別編














この一か月あまり、フミオは「ただいま」のあいさつも
しないまま、帰宅すると部屋に閉じこもってしまう
日々が続いていました。


小さなころから続けているピアノの練習にも身が入らず、
レッスンを休むこともありました。


今朝は登校する時刻になっても、部屋から出てきません。
心配しながらも様子を見ていたお母さんでしたが、
学校に行けない朝が来るかもしれないと、予想して
いました。


フミオのお母さんはタイの出身です。


建設会社に勤めるお父さんは15年ほど前にタイに出張
を命じられ、約一年間現地で働いていました。その時
にお母さんと知りあったのです。


お父さんは日本に戻ってきた後、しばらくしてから
お母さんを迎えに行き、結婚しました。


一粒種のフミオは、お母さんに似て少し濃い目の
顔でした。誰にでも優しく接するフミオは友達も多く、
みんなから好かれていました。


でも、お母さんはいじめの報道を目にするたびに、
いつかフミオもいじめの対象になるのではないかと、
心配していました。


お母さんの心配は的中しました。


フミオの欠席を学校に伝えたお母さんは、友達から
肌の色のことなどでからかわれていることや最近、
一人でいることが多く、先生方も心配して声をかけて
いることを担任の先生から聞かされました。


学校を休んだフミオは、ずっと部屋にこもりっきり
でした。お母さんはフミオが心配で、パートの仕事
を休みました。


夕方、やっとで部屋から出てきたフミオにお母さんは
「フミオ、言イタクナキャイイ、学校デ嫌ナコト
アッタノネ」 と話しかけましたが、フミオは 「べつに」
というだけでまた部屋にこもってしまいました。  


夜遅く帰ってきたお父さんは、「大丈夫、フミオはもう
中学生だし、今乗り越えなきゃ、これからの長い人生を
歩んでいけないだろう。


きっと乗り越えられるから見守ってやろう」と話しました。  
二日目もフミオは登校しませんでした。


夕方、部屋から出てきたフミオにお母さんは、
「フミオ、昨日カラ何モ食ベテナイカラ、少シ食ベタラ」
と言うと、フミオは食卓に座り、皿に盛られていた
りんごをとり二口三口、齧りました。


その様子を見てお母さんは少し安心し、話しかけました。
「ゴメンネ、私ガタイ人ダカラ、イジメラレテイルノネ」
フミオは口を開きません。


「オ父サンハ、フミオハ乗リ越エラレルト言ッタ。
私モソウ思ウノ。


プミポン国王ニモ、フミオヲ助ケテクダサイト、
オ願イシテル」


タイの国民がそうであるように、お母さんもプミポン
国王を慕っていて、国王の肖像写真には朝晩、
手を合わせていました。


フミオはふと、プミポン国王の名前から、自分の名前
を付けられたことを思い出しました。


「オ父サントハ、趣味ノジャズデ知リ合ッタワ。
国王はジャズプレーヤーデ、国王ガエンソウスル
CDヲ、オ父サント何度モ聞イタワ。


オ父サンハ、日本ニ帰エルトキ、私ヲスグ迎エニ来ルト
言ッタ。ダケド、日本デハ反対スル人ガ多カッタ。


デモ、約束ドオリ、私ヲ迎エニ来テクレタワ。
ドンナニ反対サレテモ、オ父サンハ、私ヲ選ンデ
クレタワ。


フミオハ、ソンナオ父サンノ子ダカラ、キット乗リ
越エラレルト信ジテイル」


そういうとお母さんは、プミポン国王の肖像写真の
前にひざまずき両手を合わせたのでした。


フミオは何も言わずに、部屋に戻りました。
しばらくすると、長い間聞こえてこなかったピアノの
音が部屋から流れてきました。  


次の日、フミオは吹っ切れたような顔をしてしっかり
とカバンを持ち、学校に向かいました。


それからというもの、何事もなかったかのように以前
の元気なフミオを取り戻したのでした。


ある日曜日の夕方、久々の休日で家にいるお父さん
と三人で夕食を囲みました。


フミオは、大好きな焼肉を食べながらこんなことを
話し始めました。


「・・もういいんだけど、みんなが面白がってお母さん
のことを言ったり、陰でぼくの悪口を言ったりしてね。
でも、言いたいやつは言ってろ、って今は思える
ようになった。


プロ野球のオコエだって、陸上のサニーブラウンや
ケンブリッジ、それから大関の高安だってぼくと
同じハーフじゃない。


小さいころは、ぼくよりひどくいじめられたかも
しれないし、つらくて落ち込んだこともあった
かもしれない。


でも、今はすごい一流選手で活躍してる。ぼくと
何が違うんだ、って考えたら自信があるか、
ないかだってことがわかったよ。


みんな誰にも負けないものをもってるんだ。
ぼくには何があるか、と思ったら、ピアノが
あるってことに気づいたんだ。


スポーツと音楽の違いはあるけど、ピアノじゃ誰にも
負けない。もっともっと上手くなるよう、がんばって
練習するよ。


とりあえずは、東日本中学生ピアノコンクール予選を
一位で突破してみせるから。・・・」  


初めて目の前に立ちはだかった壁をフミオは乗り
越えました。いつの間に大人になったんだろうと、
頼もしく感じたお母さんとお父さんでした。
・・・・












1回目の母子同室から、10日後。
2回目の母子同室が始まった。


今回は母子同室後に、陽(我が子)と一緒に家に帰れる。
そう、待ちに待った退院が、もう直前まで近付いていた。
何も問題なく、24時間過ごせますように・・・。
そんな想いで病院へ向かった。


回復治療室から、小児病棟へ移動する際、陽と私は、
お世話になっていた看護師さんたちに囲まれ、


「陽ちゃん、良かったね!」「陽ちゃん、元気でね!」
「寂しくなるなぁ・・・」
「また遊びに、顔出しに来てなぁ!」


と次々に声をかけて頂き、陽のことだけでなく、親で
ある私の心のケアまでしてもらえたことで「陽を守る」
という気持ちで、ここに立っている私がいる。


と改めて思い、看護師さんたちへの感謝の気持ちが
大きすぎて、私は言葉を詰まらせながら、
「ありがとうございました」「お世話になりました」
とだけ言った。


本当はもっともっと、伝えたいことがあったのだが、
これ以上、何か言葉を出すと、涙まで出てしまいそうで、
涙と一緒に感謝の言葉もグッと飲み込むことにした。


泣かないことで「私、強くなりました。もう泣きません。
この子を守っていきます」という強い母親の姿を、
最後くらいは見せたかったのかもしれない。


その後、初めて1人で行う沐浴(もくよく)も、
薬の調合も、薬を飲ませるのも、ドキドキしながらも、
なんとか無事に終え、前回と同様、大体2時間半の
間隔でミルクを飲み、オムツを替え、全身にワセリン
を塗り、少し起きて、また眠る。この繰返しで、
いつの間にかまた朝を迎えた。


そして、いよいよ 退院。


夫と私の母も来てくれて、スムーズに退院の手続きを終え、
担当の先生が見送りに来て下さり、「昨日から陽ちゃん
スペースがなくなったから寂しいわぁ~」と仰って
頂いたその言葉に、


あぁ、確かにGCUの部屋の中で、陽が一番場所をとって
いたなぁ~。と思い返していると、また涙が出そう
になった。


「大変、お世話になりました。ありがとうございました。
これからも、通院などでお世話になりますが、
よろしくお願いします」と夫とともに先生方に伝え、
病院を後にした。


「陽! 初めての外の空気は美味しいか??」
夫が満面の笑みで、陽に話しかけている。
その様子を見て、私も笑顔になる。


陽が産まれてから、約3カ月。ついにこの日が来た。


さぁ、みんなで一緒に我が家へ帰ろう。
これからは、ずっとずっと一緒だね。





近くの病院へ行ってから、5日後。1週間検診のため、
入院していた病院へ向かう。この5日間で、もう気持ち
は切り替えていた。


そんなことだってある。 辛いことなんて、まだまだ
これからだ!! 負けてられない!!と気持ちを切り
替えていた。 いや、切り替えたと思い込ませていた。


いつもの病院までの道、今までお世話になっていた病院、
いつもの先生ということもあり、少し安心もしていた。


検診では、家でのケアの仕方などの確認と体重測定を行い、
あっという間に終わり、総合受付にて会計の順番を
待つため、たくさん並んだベンチの一番後ろに座る。


私の前には、陽(我が子)よりも小さな赤ちゃんを
抱いた夫婦が座っていた。


お父さんが赤ちゃんの手や足をずっと触っていて、
その様子がとても微笑ましく、私も陽に微笑みかけた。


しかし、しばらくして、聞こえてきた夫婦の会話に、
私は陽へ笑いかけることができなくなってしまった。


お父さん「そーいや、結果どうやったん?」
お母さん「特に異常なかったよ」
お父さん「そうやよな、あるわけないよな~」


お母さん「子どもに何かあるって、よっぽど日頃の
 行いとか悪いんやろ」
お父さん「先祖がめっちゃ悪人とか!」
お母さん「そやな~」 ・・・。


日頃の行い? 先祖が悪人? なにそれ。なんなんそれ。
もちろん、この29年間、嘘偽りなく、常に正しく
まっとうに生きてきました! とは胸を張って言えない。


だけど、陽は異常なの? 
こうなったのは私の行いのせい? 
御先祖様のせい?


勝手なこと言わないで。 言わないで!! そう直接
言うことのできない、私自身も嫌い。


なにもかも嫌だ・。 帰りの車の中で、思いきり泣いた。
怒りと悔しさと、心がズキズキと痛くて、涙はしばらく
止まらなかった。


とことん泣いてから、家に帰った。


そして夜になり、眠る陽の顔を眺めていると、色んな
想いが頭の中を埋め尽くした。 いつかは私を責める
日がくるのかな、


「どうしてこんな身体で産んだんだ!」って・・・。
これから先も治ることはない、その現実がもどかしくて、


陽の未来が、不安でたまらなくて・・・
私たちの未来が・・・・・・怖い。


今からそんなこと考えたって、しょうがないのに・・・。
そう、しょうがない。 誰も助けてなんかくれない。


でも辛いのは私だけじゃない。 これから先、
1番苦しく辛い想いをするのは、私じゃない。
陽自身。 その時に、私はちゃんと守れるの? 


わからない。 もう、わからない・・・。
グッと声を押し殺して、この日も布団の中で、
再び常夜灯を見つめながら、涙を流した。


しかし、こんなこと、まだまだ序の口だなんて、
この時には気付くこともできなかった。


author:『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』より






名古屋市瑞穂区の岡島哲明さん(61)は、昨年の5月初め、
のどの異常に気づいた。急にかすれて声が出なく
なったのだ。


その時、頭に浮かんだのが喉頭がんで亡くなった父親の
ことだった。


「まさか」と思い、大学病院へ飛んで行った。すると、
先生は「軽いポリープです。日帰りで手術できますが、
予定が詰まっているので3週間後にまた来てください」。


とりあえずほっとして帰宅した。 ところが、3週間後
に行くと「これは普通の声帯ポリープとは違う可能性
がある。すぐに入院して手術します」と言われて
頭が真っ白になった。


10秒くらいたってからようやくわれに返り、
怖くなった。


がんになった何人もの友人・知人の顔が浮かんだ。


全身麻酔をしての手術は上手くいった。しかし、
退院後に細胞の検査結果を聞くまでの2週間が長く
感じられた。


その時、岡島さんは不安な中でもぼんやりと「何か」
を得たような気がしたという。


「悪性のがんの可能性がある」と言われたら「健康」
を失うと考えるのが普通だろうが。


幸い、結果は良性。ほっとした瞬間、その「何か」
がはっきりと見えた。


「何か」とは、人の気持ちがより深く理解できるという
特別な力。傲慢だった友人が大病をした後で、人が
変わったように笑顔のすてきな人になったことを
思い出した。


「少しだけ人の心の痛みがわかるようになった
気がします。もっと深く人のことを考えられる
人間にならなければと思いました。


神様が少し大人になりなさいと『思いやりの心』
をプレゼントしてくれたのだと思います」
と岡島さんは言う。


author:中日新聞掲載 





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