妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・THE ライフ















みずほフィナンシャルグループ(FG)の坂井辰史社長は、
今年度に予定していた全国銀行協会の会長就任を辞退した。


システム障害を受け、これまでは会長就任を「当面」
見合わせるとしていたが、2月末から頻発したシステム
障害の再発防止を優先すると辞退を申し出た。  


みずほFGは3月31日に、システム障害を巡る一連の経緯
や再発防止策をまとめた中間的な報告書を金融庁に提出。


坂井社長は4月5日記者会見を開き「システム障害に係る
対応状況について」と題する原因分析資料を公表した。


今後、第三者委員会「システム障害特別調査委員会」
等による調査・提言を踏まえて最終報告書をまとめる
意向だ。


だが、みずほ銀行は発足直後の2002年、東日本大震災
直後の2011年3月にも大規模システム障害を
起こしている。


何故、みずほだけがシステム障害を繰り返すのか。
その原因は報告書には表れようのない合併の深層に
隠されている。


日本のSEが“蒸発した”と言われるシステム  


“みずほ”という名称は万葉集の「豊葦原の瑞穂の国」
からとられている。みずほ銀行は日本そのものを表象
する銀行という意味である。


実際、みずほ銀行は上場企業の約7割と取引を持ち、
約2400万の個人口座を誇る巨大銀行だ。


「資産規模トップの第一勧銀」、
「実質的にトップバンクであった富士銀行」、
「天下国家を体現する興銀」


の3行が統合して誕生した。それぞれ頂点を自負する
3行が一緒になったことで、皮肉にも内部の主導権争いは、
長くみずほの宿痾となっていく。  


その象徴が3行のシステム統合であった。
銀行は装置産業である。基幹を司る勘定系システムは、


第一勧銀が富士通、
富士銀が日本IBM、
興銀が日立製作所製だった。


どの銀行のシステムをメインに据えるのかは3行の
力関係を反映する。  


だが、「MINORI」と称された最新鋭の統合システムは、
「三菱UFJが日本IBM、
三井住友がNECを中核にシステム統合したのに対し、


みずほは日本IBM、富士通、日立製作所、NTTデータの
マルチベンダーの4社体制を活かして統合した」
(みずほ銀関係者)。  


システムの主導権を3行とも譲らなかったわけだ。
結果、開発・移行作業は複雑化し、総投資額は
4000億円超、開発工数推定35万人月まで膨らんだ。
未完の大聖堂“サグラダ・ファミリア”と揶揄される
ほどだった。


「MINORI」のために日本のSEが“蒸発した”との
逸話も残っている。


「One MIZUHO」のスローガンの裏には……  


システムの主導権を巡る確執は、3行の人事抗争と
裏腹の関係にある。


「システム障害は、個人取引を中心にするみずほ銀行
で起きた。同行を地盤とする旧第一勧銀と旧富士銀行
人脈が責任を負い、ホールセールを担った旧興銀人脈
が浮かび上がった」(みずほ関係者)というわけだ。  


経営方針を司る持株会社FGのトップには佐藤康博氏、
坂井辰史氏と興銀出身者が続けて就いた。


佐藤康博氏が社長時代に「One MIZUHO」のスローガン
を掲げたのは、そうした3行の融和を強く意識した
表れに他ならない。



「みずほさんは何故、月末の繁忙時にデジタル口座の
移行作業を行ったのか理解できない」他のメガバンク
幹部はこう首をかしげる。


システム障害の直接の原因は大量のシステム処理が
重なる月末に、デジタル口座の移行作業を行ったこと
による容量オーバーにある。


問題はシステムの常識ではありえない、この危なっか
しい判断がどうして組織的にスルーしたのかにある。


そこには「MINORIの移行作業が無事終了した安堵と慢心、
そして移行後、手薄になったシステム人材という問題
があった」(みずほ関係者)という。  


佐藤康博社長時代の2017年11月。みずほは26年度末まで
にグループの従業員数を現状の約7万9000人から6万人に、
1万9000人減らすリストラ策を発表した。


そのテコにされたのがシステム統合である。


MINORIの本格稼働を待っていたように、みずほFGは
「MINORI」の中核ベンダーの1社である日本IBMと合弁会社
「MIデジタルサービス」を設立し20年7月1日から業務
を開始した。


同社はみずほの関連会社であるみずほオペレーション
サービスを母体として日本IBM65%、みずほFG35%出資
で設立されたものだ。


「MINORI」への移行が完了し、本格稼働に入ったことで、
従来開発に携わってきた優秀なシステム人材の多くが
同社に移籍した。


かつ「MIデジタルサービス」へのみずほFGの出資は35%
ということで連結対象から外れる。  


1万9000人もの人員削減とシステム要員の合弁会社への
移籍が今回のシステム障害を深刻化させた点は
見逃せない。みずほのシステム障害は人災なのだ。
・・・
author:文藝春秋特選記事










受験を控えた冬。進路への不安をこぼすと、母は
「あんたなら出来るよ。やれるだけやってみな」
と返してくれた。


そして、「お金ばかりかかってごめんね」と謝る私に、
母は小さなため息をつき、穏やかな笑顔で言った。


「あんたも親になれば分かるよ」と。


そんな日が来るのだろうか。遠い未来に想いを馳せつつ、
母と、私と、まだ影も形もない子どもと,3世代が並ぶ
光景をぼんやり想像して、少し照れ臭いような、
温かな気持ちになった。


あれから干支が一回り以上、相当の年月が流れ、私は
3児の母親になった。 しかし、私の母が孫を抱くこと
はなかった。  


大学4年、就職活動盛りの春。母は自らいのちを絶った。
遺書はなかった。


唐突に突きつけられた現実に、葬儀前後のことはよく
覚えていない。唯一、脳裏から離れないのは、涙声で
私の身体を気遣う、電話越しの母の声だ。


母が息絶える直前に会話をしたのは、私なのだ。  
母とはよく話をした。地元を離れてからも毎週欠かさず
電話をし、ありふれた会話をたくさん交わした。


お日様のように明るかった母の声色が変わったのは、
最期の一年だ。


職場の配置転換をきっかけに、母は電話口で泣くこと
が増えた。それだけでなく、親族との死別、子どもの
巣立ち、自身の更年期。


振り返れば、あの年は色々なことが一気に母に降り
かかったのだと思う。恐らく母はうつだった。


しかし、当時の私はそれに気がつくことができなかった。
遠方で学生生活を送っていた私にできることは少なく、


ただ母の話を聞き、母の気持ちが落ち着き次第、
受話器を置くようなことが幾度とあった。  


あの日は、土曜日だった。 いつものように母からの
電話を取ったものの、泣きじゃくる母の言葉が聞き
取れず、全く会話にならない。


少し時間を置けば母の気持ちが落ち着くと思い、
私は一旦会話を終了させる提案をした。


この判断が今でも悔やまれる。


「身体に気をつけて・・・」やっと聞き取れた、
振り絞るような母の声。それが、母の最期になった。


数時間後、仕事から自宅に戻った父が、変わり果てた
母の姿を見つけることになる。  


母が最期に助けを求めたのは、私だった。
すがるような思いで、私に電話をかけたのだろう。
けれども、私はその思いに応えることができなかった。


助けることができなかった。果てしない後悔が私を蝕み、
絶望感を抱えながら、社会人になった。  


私の大きな転機となったのは、結婚をし、子どもが
生まれたことだ。


人は1人では生きられない。


ふやふやの赤ん坊の世話をしながら、自分がいかに
周囲に守られ、大きな愛で育ててもらったのかを
知った。


そして、亡くなった母が望むのは、懺悔ではなく、
私自身の幸せなのではないかと思うようになった。


言葉にすれば当たり前かもしれないが、自分自身が
母親としての視点を得たことで、リアリティを持って
母の思いを想像するようになった。


人の人生は一人ひとり違う。いのちとは、どれもが尊く、
唯一無二のかけがえのないものだと、まじまじと思い
知った。  


時間の流れは残酷で、大好きだった向日葵のような
母の笑顔も、だいぶと遠くなった。


日常生活は絶えず動き、様々な波がやってくる。
けれども、今でも変わらず私を突き動かしているのは、
「あんたなら出来るよ」という、耳の奥に残る
母の口癖なのだ。


母は私の中に、勇気づけの芽を遺してくれた。  
願わくば、私も母を勇気づけたい。
その存在を全力で肯定したい。


母の代わりは、この世界中のどこを探しても
いないからだ。人は生きているだけで、誰かを
幸せにしている。


私は、母にただ生きていて欲しかった。けれども、
その母はもういない。それならば、今の私にとって
大切な人達や、これから出会う人に寄り添い、
まるっと受容した生き方をしたい。


傷は癒えても、決して消えることはない。
それでもいいのだと、16年の歳月を経て、
ようやく思えるようになった。・・・






僕が小学校の一年のときのある日、
「ただいま」って家に帰ると、
お母さんがいないときがありました。


お父さんに「お母さんどうしたの?」と聞くと、
「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」と言う。


そして、「きょうはお母さんがいないから、
おれが温かいうどんをつくってやる」と言って、
親父がうどんをつくってくれました。


ところが、温かいうどんのはずなのに、
お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。


一方、「ただいま」と家に帰ってお母さんがいる
ときは僕はいつでも「お母さん、何かないの?」
と聞きました。


すると、母は「おまえは人の顔さえ見れば食い物の
ことばっかり言って、食いしん坊だね。そこに、
ほら、芋があるよ」って言う。


そういうときは決まって、きのうふかしたさつま芋が
目ざるの中に入っていました。


かかっているふきんを取ると、芋はいつもひゃーッ
と冷たいんです。だけれども、お母さんのそばで
食う芋は
不思議に温かかった。


これは、もしかすると女性には理解できないかも
しれないけれども、男性にはわかってもらえると
思います。


お母さんが家にいると黙っていても明るいのです。
あたたかいのです。


それで、わたくしたち男は自分の妻に対して、
「日身(カミ)」に「さん」をつけて
「日身(カミ))さん」と言ったんです。


丁寧なところでは、これに「お」をつけて
「お日身(カミ)さん」といったんです。


何でしょうか。この「日身(カミ)」という意味は?


「カ」は古い言葉では「カカ」といいました。
もっと古い言葉では「カアカア」といった。
さらに古い言葉では「カッカッ」といったんです。


「カカ」「カアカア」「カッカッ」
これが「カ」となるんですね。


「ミ」というのは、わたくしたちの身体という意味
です。ですから、「日身(カミ)」とは、わたくしたち
の身体は「カカ」の身体である、「カアカア」の身体
である、「カッカッ」の身体であるという意味なんです。


では、「カカ」「カアカア」「カッカッ」という音は、
古代では一体何を意味したのでしょうか。


「カッカッ」というのは、
太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。
「カッカッ」とは、実は太陽のことを指したのですね。
「カアカア」「カカ」という音も同様です。


つまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は
太陽の命の身体であるということを、
「日・身(カミ)」(太陽の身体)と言ったんです。


「カミ」の「カ」に「日」という漢字が当てられて
いるのを見れば、「カ」が太陽のことを意味している
ということがわかるでしょう。


「日身(カミ)」とは、太陽の体、太陽の身体という
意味だったのです。


お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたくしたちの生命を育ててくださいます。


母親というのはわたくしたちを産み、その上私たち
を育ててくれます。
母親は太陽さんのような恵みの力によって
わたくしたちを世話してくれる。


母親はまさに太陽さんそのものだということから、
母親のことをむかしは「お日身(カミ)さん」
といったのです。  
……






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