妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・一考編













五月吉日、夫と私は仲良く新婚旅行から帰宅した。
北海道七泊八日のハネムーンは、ラブラブだった。


夫は優しかったし、食べ物も美味しかった。
毛ガニと夕張メロンは期待以上だった。特に、
グルメ本に掲載されている有名店の寿司屋で食べた
特上の握り寿司よりも、狭い路地裏を体をすぼめ
歩いて入った店の「イクラ・ウニ丼」が絶品だった。


北海道はやはり広いと感じた。


現地で、レンタカーを借りて、札幌→網走→小樽→
函館を周った。夫は運転も上手で快適な時間はスイ
スイとアッという間に過ぎていった。


デジカメで写真もたくさん撮った。思い出がキラキラ
とダイヤモンドのように煌めいていた。幸せだった。


私はこれから、長男の嫁として恥じないようにしっかり
と務め夫を支えていこうと肝に銘じた。


この人となら、どんな困難が来ようともうまく乗り
越えていけると信じて。そして愛する人の子供を産んで、
母となり人間として成長していきたいと願っていた。


家族は全部で五人。舅・姑・伯父・夫と私の家族構成は
ごく普通であるかに見えた。


何も分からない私は、一日も早く家族とこの家に馴染
もうと前向きな気持ちでいた。


新婚の甘いフレグランスの香りのする日々は、
一週間ほどで消えた。残り香すらなくなった。


同居生活の場合は、仕方ないと諦めていたため
切り替えは必然的であった。


年齢が三十歳と言うこともあるのかもしれない。
多分、自分では気づかぬうちに、三十歳と言う数字
にこだわりを持っていたのかもしれない。


家長である舅は、家の中で一番偉かった。そして
一番威張っていた。地声も大音量だった。


ここの家では、怒鳴り合うことが普通の会話なの
だと理解するまで時間を要した。


舅は、三人兄弟の次男。
父親は戦死している。
舅の母は、母親一人で三人の子供を育てたらしい。
次男である舅は、多くの苦労を乗り越え家族の支え
となり頑張って生きてきた人なのだ。


私には図り知れぬ生き様があったに違いない。
結婚して、会社勤めを辞め独立して今の会社を
立ち上げた。 姑は、給料の良いところで働いて
いたため、会社が軌道に乗るまでは舅の収入は無く、
姑の給料で生活をやり繰りしていたらしい。


仕事柄、姑が数字に明るいのは、いろいろ生活して
いく場面で役に立った。ただ、仕事ができる分、
男勝りであった。


この夫婦二人の共通点は、頭が良く仕事熱心で、
リーダー的資質も兼ね備えているところだ。


結婚前に私の実家に一度、舅、姑、夫の三人で挨拶
に来た時、姑が私の母にこう言った。


「実の娘のように大切にしますから。お母さん安心
して下さい」 人は、時にジーンと感動させること
を言う。


言うのはやすし、行なうは難しいのだ。有言実行が
できたならどんなに楽だろう。もっとも人ごとでは
ないのだけれど。


姑も、かつては嫁として何十年もこの家で年月を重ね
てきた。姑の姑も大変厳しい人だったらしい。


昔の人は、今以上に男尊女卑も強いられたであろうし、
嫁は女中扱いされていたとも聞かされたことがある。


姑の生き様も、私には到底想像できない。 いつの世も、
嫁は嫁でしかない。誰一人として同じ人生を歩むこと
は不可能である。


女の幸福は、結婚で決まるのだと言っても過言では
ないと、この時は感じていた。


伯父も同居していた。幼少期に高熱のため聴覚を失った
らしい。伯父はすごいなと感心したことがある。


学校へ行っていないのだが、毎朝、新聞を全ページ
読んでいることだ。私でさえ、新聞は、テレビ番組欄
と折り込みチラシしか見ないのに。


伯父は多分、頭の良い人で人格も形成されており
思考も深い人なのだと勝手に思っていた。


もう一つすごいのは、手先が人一倍器用だった。
折り紙がいつも手元にあり、鶴や昆虫、ゴミ入れなど
を作っていた。


もし、会話が可能であるならいろいろなことを話して
みたい。伯父は、時々、優しい瞳をしたり、厳しい瞳
をしたりした。それだけ感情も豊かな人に違いないと
私は、尊敬していた。


時々、食事を残した時に姑に叱られていたが何だか
可哀そうに思えた。家の中で、一番普通の人だった。


夫は、高身長高学歴。車が好きで派手なタイプの
人だった。所作が優しく女性にモテるタイプだ。


子供の頃、習字を習っており、達筆だった。多少、
掴みどころのない性格ではあったが、何の問題もない
と思っていた。会社の後継者となる人物であった


。舅とは容姿も性格も全く似ていなくて、親子と
言われなければ、赤の他人にしか見えなかった。


たいていは、舅に怒鳴られ叱られていることが多かった。
父親と息子がこれほどまでに信頼関係が欠如しているの
を今までに見たことがない。


この二人の関係は、いつかどこかで修復して欲しいと
本心から願っていた。


家の中の上下関係は当然、会社の中でも同じだった。
社員の前でも舅は平気で夫を怒鳴り散らした。


怒鳴られた夫はすぐにその場からいなくなる。
こう言う繰り返しは、好転のチャンスを逃してしまう。


話し合いの場面が必要なのだけれど、水と油は決して
混じり合わなかった。


夫と私は、それぞれの環境で三十年あまりを過ごして
きた。今まで全く知らない二人が夫婦になり、
私は違った環境で暮らしていく、


これは真に奇跡なのだ! これからの未来を、
二人三脚で楽しく生きられたら良いと期待に胸を
膨らませていた。


・・・











ストアーで ふと目をはなしたすきに
認知症の母がシュークリームに かぶりついた
母の手の中で シュークリームの皮の中で
クリームは 重くゆったりと 皮に横たわっていた


息子が母を 母が息子を叱るように 叱った
ストアーの床に落ちた 食べかけのシュークリーム
まだ 重くゆったりと 形を変えて
クリームは皮に寄りかかっていた


おしめで ブクブクと膨れあがった
大きなシュークリームのようなお尻で
アヒルのようにストアーを出て行く


「おれの母さんだろう!」と、母をにらみつけた
「しっかりしろ!」と、声を押し殺して
母を叱るように 自らを戒めるように言った
母が私をじっと見つめた





一般的にその存在がどのように思われているかが分かる
言葉が「らしさ」である。


散髪に行く暇がなく、ぼさぼさ髪で講演に行ったとき
のこと。「この次来るときは髪を切って来ますから」
と言うと、


ぼさぼさの方が「詩人らしく」ていいと言われ、
まだ自分のことを詩人と名乗っていいかどうか自信
のない私はとても嬉しかった。


また、教師をしているとき、「教師らしさ」に欠けると
よく言われたが、教師を辞めてからは「教師らしい」
物言いだなあと言われるときがある。


この「らしさ」の中に、詩人や教師が一般的にどの
ように思われているかが集約されているらしい。  


覚せい剤取締法違反の罪で起訴された元女優のSさん
が介護の仕事を勉強したいと言った。


Sさんが心からそう願っているのかもしれないし、
法廷での戦略という意味では至極当然であるが、
ここで明らかになってくるのが「介護」という職業の
一般的な見られ方である。


「介護職らしさ」である。「善意」や「優しさ」、
「愛」、「利他」。介護というものは、外側から見る
とそのように見えるのかもしれない。


だから、法廷の戦略や乱れた自分自身を正すために
そこに目標を定めたのかもしれない。忙しさ、ヨダレ
の匂いや汚物。自分のイメージ通りに動かないお年寄り
への苛立ち。普通の会話が通じないジレンマ。


感性が豊かな者ほど高齢者の痛みを感じ、いたたまれ
なくなる。綺麗事だけを並べても、その日常に
「介護職らしさ」である


「善意」や「優しさ」「愛」「利他」なんて跡形も
なく吹っ飛んでしまうのだ。  


沖縄に講演に行ってこんな人にあった。
その人は、介護施設で働いていて肉体的にも精神的にも
疲れ果てて、退職してICチップ工場に勤めた。


一年間、小さなICチップを機械に入れる作業をして
いたが、作業中は全く人との会話もない。


人と接したくなって、また介護施設に戻ったそうだ。
「介護施設で働くというのは、辛いことも苛つくこと
もいっぱいあるけれども、おじいちゃんやおばあちゃん
にまた会いたくなったんです。」と、彼女は命に寄り
添う仕事に魅力を感じている様子だった。


「ICチップを落として破損させてしまうと500円
ぐらいですむけれど、お年寄りの介助の時その体を
落とすわけにいかないんです。


命だから、その重みが違うんです。」と、嬉しそう
に彼女は付け加えた。


その「命の重み」を喜びと思える彼女に「介護職らしさ」
を深く感じた。  


介護を外側から見ているだけでは、その大変さも分から
ないが、その喜びも分からない。


だから、「介護職らしさ」などやってみないと分から
ないことである。その人が「介護」というものをどう
捉えて、お年寄りにどのように接していくか、そして
その仕事とともにどのように生きていくか。


つまり、職業とともに「その人らしく」生きている
かということになると思うのだ。


職はイメージではなく、その職の中でしっかりと
生きていかなければならないのだ。  


私には母を介護する「介護者らしさ」など全くない。
母の介護は父に任せっきりだったので、介護の技術も
何も知らなかったし、母の病気に関する知識も乏し
かった。


ただ、病気を抱え老いていく母を前に、悲しんだり、
おこったり、喜んだり、思案したりしながら日々を
しっかり生きていくだけだった。


母を介護していると言うより、母と一緒に生きている
という感じがしていた。だから、母にはいっぱい迷惑
もかけたが、私は私らしく母の命によりそうことが
できたのかもしれない。


母のことを私が面倒を見ている構図ではなく。
母という港につながれた船のように、「私らしく」
波に揺れ続けているのだ。 ・・・・






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