妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・妄想物語







歌:桂銀淑
作詞:ユンイクサム, 日本語詞:三佳令二
作曲:キムヒョンウ



誰がいると云うの この私に
あなたは生命 こころのささえ
逢うも別れも 運命(さだめ)だと
いいえ私には わからない
あなたが消えたら 生きては行けない
行かないで 行かないで
あなたの他に 誰もいない









俺が子供の頃、近所に「アメちゃんババァ」って
言うのが居たんだよね。


幽霊とか妖怪ってわけじゃなくて、一応人間。
変人っていうか精神障害というか…まぁそんな
感じのだ。


夏でも毛糸の帽子被って、よく近所の公園のベンチに
1人で座ってぼんやりしてた。


で、小学校の低学年くらいかな。それくらいの小さい
子が遊んでるとアメくれるんだよ。


「いい子だからアメあげようか」 って。
実は俺も貰ったことがある。 俺が貰った時は、
牛乳系の白いアメだったかな。


今考えると、よくそんな得体の知れない人間から
貰ったアメ食えるなって感じだけど、まあ子供の
頃だしね。


そうやって子供にアメ配ってるから「アメちゃんババァ」
当時は俺もババァ呼ばわりしてたけど、実際には
そんな年でもなかったかもなぁ。もしかしたら40代
くらいだったかもしれん。


噂では、アメちゃんババァも以前は普通の人だった
らしい。 それがある時、自分の子供を病気で亡くした
ショックでちょっとおかしくなった。


それ以来、町で自分の死んだ子供と背格好のよく似た
子供を見つけては、アメを配るようになったんだとか。
…いや、本当かどうか知らんけど。


他にも貰ったアメを食べると家に連れ込まれて帰れ
なくなるとか、アメは子供の人肉だとか、時速六十キロ
で走るとか… 噂話だけなら割とメチャクチャなのも
含めて沢山有ったな。


とにかく俺ら小学生はそう噂してたし、子供ながらに
「あぁ、この人はなんかおかしいんだな」 ということ
は分かるので、こちらからアメちゃんババァに近付く
ことはしなかった。


学校の先生からも、遠回しに「知らない人から物を
貰わないように」「飴玉貰ったからってついていか
ないように」と注意もされてたしね。


ただ実際に子供がなにかされたって話は聞かなかった。
そのアメちゃんババァが、ある日死んだ。


他殺。 どうも、10代の学生っぽい連中に絡まれて
リンチに遭ったらしい。 丁度親父狩りが流行り始めた
時期だったから、多分その流れでやられたんだろう。


実は犯人について、地元の人間はみんな心当たりが
あった。普段からアメちゃんババァ小突いてる
高校生グループが居たんだよね。


小学生にもオラってガンつけてくるような最低な奴らで、
子供はみんなそいつらのこと嫌ってたこともあり、
もう完全に犯人だと決めつけてた。


証拠も何もないくせに「犯人絶対あいつ等だよ」
「いつ捕まるかなぁ」なんて当たり前のように
話してた。 で、アメちゃんババァが死んでから
1週間後くらい。


その高校生グループの1人が事故で死んだらしい。
バイクの自損事故だったとか。


こう言っちゃあ何だけど、アメちゃんババァの祟りだ!
呪いだ! っつって、そりゃもう大騒ぎ。 「死んだ
高校生のポケットにはアメがぎっしり詰まってた」
って話は、流石に嘘だと思うけど。


アメちゃんババァは割と小学生には人気があったし、
子供達はみんなアメちゃんババァの味方だった。


グループの残りの人間がいつアメちゃんババァに
「やられる」のか、みんな内心ワクワクしてた。


だけど、事件はこれで終わり。 正確にはグループの
残りのメンバーは、いつの間にかみんな町から消えて
いなくなってたんだよね。


大人に聞いてもはっきりしないし、そうこうしている内
にアメちゃんババァについてはタブーと言うか、もう
終わった話、みたいになって話題に出すのが憚れる
雰囲気になっていった。


俺も高校、大学と地元から離れた学校に進学したんで、
「アメちゃんババァ」なんて超ローカルな話題を口に
する機会も無し。 ・・・












26歳で見合い結婚し、夫とその両親と2世帯住宅で暮ら
していた女性は22年間の結婚生活に終止符を打った。


舅・姑から数々の虐待を受けていたが夫は見て見ぬフリ。
実家に戻り平穏な生活が訪れるかと思いきや、今度は
母親が認知症に。・・・


現在66歳となった女性の激動の半生


ゴミ袋がたくさんあるがどうするつもりや? 
ゴミだけ置いていくつもりか?」


関西在住の66歳の白石玲子さん(仮名・既婚)。
今から18年前の2003年1月、22年間の結婚生活に終止符
を打つ決意をして実家に戻っていたある夜、義父から
電話がかかってきた。


「いいえ。昼間そちらを出るときにお義父さんに説明
したとおり、明日引っ越し荷物と一緒に処分します。
ゴミを置いていくようなことはしません」


当時48歳の白石さんは、そばにいた母親がびっくり
するくらい冷淡な口調で言った。


母親が勧める見合いで26歳のときに結婚し、やがて
義両親と同居した。


義父と夫がお金を出し合い、2世帯住宅を建てたのが
そのきっかけだが、この義両親がひどかった。


「この家の家長は俺だ!」と家の中でも外でも威張り
散らす義父と「私も姑にひどく虐められた」と言い
ながら白石さんをひどく虐める義母。そして22年間、
一度も白石さんを庇おうとしなかった夫。


白石さんが初めて義両親の愚痴を夫にこぼしたとき、
「俺の親の悪口を言うことは許さない」と言って夫は
1カ月も口を聞かなかった。そればかりか、白石さんが
作った料理をゴミ箱に捨て、自分で作って食べていた。


それでも白石さんは、「自分の都合で息子から父親を
奪ってはいけない」と我慢し続けた。


しかし、2000年4月に息子が大学に進学し、下宿を
始めると、家の中は義両親と夫だけ。夫も義両親も、
これまで一度たりとも白石さんが外で働くことを
許さなかったが、息子のいない空間では息が詰まる。


白石さんは、何度も必死に頼み込み、やっとパート
に出ることを許された。 外で働き始めた白石さんは、
“生きている実感”を取り戻す。


そしてもう二度と“籠の鳥”には戻れなくなった。
2002年11月、白石さんは思い切って、夫と義両親に
離婚を切り出した。


すると義父はこう言った。 「俺たちのせいでお前たち
の仲が悪くなるのなら、もう2世帯同居はやめよう。
家を建てる時にお前が出した金は返すから出て行け。


これ以上迷惑をかけられたくない」 すると夫は言った。
「俺に金を返すために親父に借金させるわけには
いかない」。


夫は一度も自分をかばわず、義両親の側に立った
夫は白石さんと離婚する道を選んだのだ。


2003年1月、白石さんは義父から電話を受けた翌早朝
に起き、残りの私物を取りに向かう。


年末年始に帰省していた息子が下宿先に戻った翌日
に引越しを決めたため、息子はいない。味方のいない
家に向かうのはひどく気が重かった。


1時間ほどして到着すると、2台分の駐車スペースがある
カーポートの真ん中に、義父の車が停められていた。
仕方なく白石さんは家の前に路駐する。


荷造りやゴミ出しが終わると、義父に呼ばれた。
義父は紙とペンを出し「婚姻時の姓を名乗りません」
「子どもの親権は放棄します」「結婚時に持ってきた
荷物は余さずに引き取りました」と書けと言うので、
白石さんは言われた通りに書く。


最後に白石さんは、義父に離婚届への記名押印を頼むと、
義父は渋々応じた。 白石さんはその足で市役所に行き、
離婚届と転出届を提出。清々した気持ちで友だちと
お茶をし、実家へ向かった。


実家に戻り平穏な人生を望んだが、元毒親の母は認知症に
…… 夫と義両親との関係を清算し人生をやり直そうと
した白石さんだが、新たな障壁が現われた。母親だ。


父親は1991年、白石さんが36歳のときに65歳で亡く
なった。 当時61歳だった母親は喫茶店で働いていたが、
1995年に喫茶店が閉店。以降、母親はシルバー人材
センターの事務を始めた。


2000年、親戚の法事に出るため、白石さんは母親と
ともに車で向かったが、途中、高速にのる前にトイレ
を済ませたにも関わらず、母親は車の中で漏らして
しまう。


その頃から母親は、シルバー人材センターの仕事を
「難しい」と言って断るように。同じ話を何度もする
ようになり、白石さんが指摘しても、意に介さない。


2003年1月に白石さんが離婚して戻ってくると、
母親はそれまで一人でできていたことも、全く
やらなくなっていく。


「母は、私をこき使うようになりました。整形外科の
受付の順番を取るために、朝早くから診察券を入れてこい。
時間がきたら整形外科まで連れて行け。


習い事に送って行け、早退するから迎えに来い。
食事の準備をしろ、台所の排水が詰まったから直せ、
エアコンや換気扇の掃除をしろ……。


私は子どもの頃からずっと、母から支配されていて、
母の顔色を窺いながら母の機嫌を先読みして動くのが
常になっていました。


それでも母のことが大好きで、母に気に入られるような
良い子でないといけないと思い、何度か母が反対する
恋人とは別れ、母が勧める人と26歳で結婚。


すべては、私の幸せを願ってのことだと信じていました
……」 49歳になった白石さんは73歳の母親の世話の
ため営業の仕事を辞めた


2003年12月。白石さんが仕事に出ていると、突然母親
から電話がかかってきた。


「私なあ、昨日から病院に泊まっているんやわ。
ごぼうが喉に詰まって、お隣さんに電話して救急車で
運んできてもろてなあ。医師に家族を呼べと言われた
のですぐに来て欲しいんやけど」


当時、営業の仕事をしていた白石さんはその日、隣の県
まで出張していた。急いで家へ帰り、入院の準備をして
病院へ向かう。


医師には、「年末年始にまた食べ物を喉に詰めたら
困るので、年明けまで入院してもらいます」と言われ、
看護師には、「お母さん認知症でしょうか? 


昨晩暴れて、ここがどこかわからないみたいなことを
言っていました」と聞かされた。


「当時私は、何となく母の異変に気付いていました。
でも現実を直視したくなくて、家にいるとこき使われる
のが煩わしくて、仕事に打ち込み、出張を口実に、
週に2~3日しか家に帰っていませんでした」


2004年1月。母親がごぼうを喉に詰まらせた原因は
わからなかったが、退院が決まる。


母親は73歳。49歳になった白石さんは、「もう母を1人に
しておくことはできない」と思い、母親の世話をする
ため営業の仕事を辞めた。 ・・・・







部長は私で、副部長は娘。現在ものんびり活動中。


5年前、私は主人を癌で亡くしました。69歳という
早すぎる死でした。不思議なもので、悲しみという
感情は時間が経つほどに止めどなく湧き上がるものです。


何でもないときに涙がぽろぽろ頬を伝うのです。
そして何とも言えないむなしい気持ちが絶えず
胸の奥に潜んでいて、あんなに好きだった裁縫も、
家庭菜園も何もかもやりたくなくなるのです。


いつも心の中にあるのは「お父さん、早く迎えに来て
くれないかなあ」。


娘は、私のそんな様子をいつも近くで見て、絶えず
気にかけてくれました。 「


このドラマ面白いよ。一緒に見よう」
「美味しいコンビニスイーツ買ってきたよ。
一緒に食べよう」


「たまには温泉でも行ってのんびりしようか」
娘の優しさに感謝しながらも、正直、何を見ても
面白くない、何を食べても美味しくない、どこに
行っても楽しくない。


楽しくないから外出も自然と億劫になります。


いつも一緒にいて当たり前の主人を亡くすと同時に、
私の感情も表情も全てが無になってしまったようです。


それでも娘は一度も「頑張れ」と無理して励ます
ことなく、絶えず近くにいてくれました。


亡くなってから半年ほど経ったある雨降りの日の
ことです。娘は私に相談でもなく、提案でもなく、
宣言をしに来ました。


「今日から『雨上がり倶楽部』を発足致します。
部長は母さん。副部長は私。活動内容は、雨上がり
の虹を探して一緒に眺める、それだけです。


では、部長一緒に探しに行きましょう」
娘は淡々と説明し、私はポカンとよく分からない
まま娘の車に乗り、雨降りの中ドライブに
出かけました。


娘は言います。


「副部長の私は車の運転に集中するから、部長の
母さんは、しっかり全力で虹を見つけてね」


雨が上がり、晴れ間がのぞいたとき、私は車窓から
全方向を見まわし、娘に言われるがまま虹を
探しました。


探して探して、結局その日は虹を見つけられず。ただ、
そのときなぜか「残念」という気持ちは全くなく、


「嬉しい」という温かな喜びが湧き上がったのを確かに
感じたのです。 虹は見えなかった。それでも雲の切れ
間から光は真っすぐ指していた。


まるで主人からの贈り物にも感じるほどの優しい
温かな光を見たときに、私はふと感じたのです。


雨は上がる。いつ上がるか分からないだけで、
必ず光は差すのだと。


あの日から、私の外出は確かに増えました。
娘と一緒のときはもちろん、私一人でも散歩
しながら「雨上がり倶楽部」は活動中です。


娘と二人のときは、虹を見つけると鑑賞会が始まり、
しばし、のんびりと眺めます。


私一人のときは、写真にとって娘に自慢げに報告です。
雨は降ってもいつか上がる。雨降りはきれいな虹を
見つけるチャンスになる。


私の心に降る雨を、次の一歩につなげる虹に変えて
くれたのは、確実に娘のおかげです。






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