妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・特別編






歌:中澤卓也
作詞:佐藤 惣之助:作曲:古賀政男



初恋の涙にしぼむ花びらを
水に流して 泣きくらす
あわれ十九の 春の夢



今日もまた瞳に燃ゆる 夕映に
思い乱れて むらさきの
ペンのインクも にじみがち



泣きぬれて送る手紙の 恥ずかしさ
待てば淋しや しみじみと
街の舗道の 雨の音



明日からは 二度と泣くまい
恋すまい
いくら泣いても 笑うても
胸の痛手は なおりゃせぬ








花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 
根はみえねんだな
あ 



私たち人間、動物は呼吸をして酸素を取り込みます。
その酸素は、植物が酸素を排出することで作り出されます。


その植物は、太陽光や水、二酸化炭素を吸収することで、
初めて生命として存在できます。


その太陽光や水、二酸化炭素は・・・このような事を延々と
考えてゆくと、大自然や宇宙の中で、孤独に独立し、
その個体のみで存在できるものは、この世にあり得ないこと
がよく分かります。


それは自然の法則の中で生きる人間の誰もが知っている
明らかなことですが、世界と宇宙の化学的な仕組みの中
だけではなく、人と人のつながりや人間関係、様々な人生
の出来事にも、良く当てはまることがこれまた良く分かります。   


 人生において起きた様々な出来事。
これから起こるであろう喜ばしい、あるいは悲しい出来事。
人生に影響を与えた大きな忘れられない出来事。


毎日さりげなく、あなたの足もとや手の届くところでひっそり
と起こっている感動すべき出来事。
大きなことから、とても小さな事まで・・・。


私たちが生きている限り、本当に心臓の鼓動を生み出して
いるのは、あなたの脳からの電気信号ではないことに
気付かされます。


自分を、一人の人間を支えてくれるものがいかに多く、
その支えてくれるものを、さらに他のものが支える、
その仕組みに驚かされるのです。


そして不思議なことに、やがて自分も何かを支える役目
が与えられ、支えたものが大きくなっていき、それがやがて
自分を支えてくれたりすることがあります。


行動や意志は、巡り巡って自分に帰ってくるのです。
そして、 自分は生きているのではなく、生かされている。
人はこのことにとても気付きにくいものです。


力を持ったり、満たされてくると、人は小さな事に対する
感謝や感動から忘れていきます。


本当は、人間を含めたこの大自然に、小さなことも
大きなことも、大切なことも大切ではない事も
ないはずなのに。    


花を支える枝となりたい。


その心や行動はやがて、幹があなたを支え、
目に見えないところで、大きなしっかりとした根が
あなたを支えることでしょう。


それは目に見えるものではないかもしれませんが、
感じることで、自分は決して孤独ではないと、生命力と勇気
が得られるはずです。


そう、逆に、その事を感じることで、いかなる人でもこの世
では孤独になりえないのです。


そして、いつの日か、誰かを支える太い太い根となり、
大空へ伸びてゆく満開の花を支えていければ、これほど
幸せなことはありません。


その存在が、地中深くにあり、 誰にも見えなくとも。 ......   





嫌いは好きの裏返し。本当の嫌いはさようなら。










心の叫びを声に出すとき


休日の朝、私は外から降り注ぐ光でさえも恨んでいた。
世界がずっとずっと、暗闇だったらいいのに。
暗ければ暗いほど、見られることはないのに。


そんなことを考え、カーテンから差す光を見つめていると、
目を覚ました夫が私の傍(そば)に来た。


けれど、今までに感じたことのない感情に襲われ
「近寄らないで」と言って、夫を遠退けた。


「こやんといて!」 「こやんといてってば!」 そう言って、私は
何度も暴言を吐き、夫の胸を叩き、腕を引っ掻いた。


それでも離れず近付く夫に、私は涙を流しながら、
「くるな!!!」 「くんなって言っとるの!!」 「もぉ嫌やぁー!!!!!」
と言って叩く手に、さらに力を入れた。


その間、夫はずっと無言で、悲しい目をしていた。
だけど、私は、私自身を止められない。
叩いて、叩いて、引っ掻いて、押し退けてを繰り返し、
私が疲れてきた頃、夫は私を強く抱き寄せた。


そこでやっと、私は心の叫びを、声に出して叫ぶことができた。
涙を流すだけでなく、泣き叫んだ。 夫の胸の中で、大きな声
で叫び、ひたすら泣いた。  


そして、ずっと黙っていた夫が、落ち着いた声で私に話し
始めた。 「辛いのは母ちゃんだけじゃないんやでな?」
「どんなことでもいいから、僕に話して」


「ひとりだけで抱え込まんと、ちゃんと言わなあかん」
「僕らはこんなことで、負けてられへんやろ?」
「僕らにしかできへんことを、陽と一緒にとことん楽しもよ」


「僕らやったら、絶対に笑って過ごせる」
「笑いとばすことができる!」
「そのためにも、どんな小さなことでも溜め込まずに、
ちゃんと声に出して、伝えていかなあかんよな」


「大丈夫やって! 母ちゃんと僕やで!! 陽も幸せや!!」
そう言う夫の目は、先ほどの悲しい目ではなく、力強く、
前を進んでいる目をしていた。


そうだ、なんでひとりで溜め込んで、 落ち込んでいたんだろう。
私はひとりじゃないのに、 なんで孤独を感じていたんだろう。
なんで、こんなに辛くて悲しいって、 思ってしまうんだろう。


陽は生きているのに。 頑張って生き続けようとしてくれて
いるのに。 私の負の心境に対して「なんで」という想いが
強くなり、今までの自分が馬鹿馬鹿しく感じた。


陽が生きて傍に居てくれている。その奇跡は、私達が
守っていく。ただ、それだけのこと。


見られるのは仕方がない。 だって、世間でいう普通とは
違うから。誰も知らないから。 だったら知ってもらうことが
出来れば、何か変わるのかもしれない。


それをどう行動にしていくべきか、 私たちなりのやり方で、
陽の生きて進む道を切り開いていこう。


この日、私は再び、陽を守ること。 そして家族の笑顔を
守ろうと決意し、行動や考え方を変えていくことにした。




苦しい想いを全て吐き出し、泣いて、叫んで、少しスッキリ
して、肩の力が抜けた私は、これからの自分のすべきこと
は何か、


陽のため、そして私たち家族のために、今の私にできる
ことは何か。 陽の寝顔を見ながら、考える日々が続いた。


そんなとき、ふと、あるご家族のことを思い出した。
幸せそうだなぁ、と眩しく輝いて見えた、


見ず知らずのご家族のことを。 どうしてあの時の女の子
とお母さんたちは、眩しいほどの笑顔であふれていたの?


答えはすぐに出た。 私は目の前にある尊い幸せを、
見失っていたから。 陽(我が子)が生きているという奇跡を、
もう当たり前だと思いかけていたから。


愛しい息子が目の前に居てくれる。それの何が不満か?
もしかしたら、こうして抱くことすら、できなかったのかも
しれない。 それならば、この奇跡に感謝して、息子を
幸せにしたい。 笑顔で過ごしていきたい。


どれだけ頑張ったとしても、 「あぁ幸せ、この身体で産まれて
良かった」って、思ってもらうことは無理だろう。


しかし、どんな状況の中でも、幸せを、楽しみを見つける
ことはできるはず。 「楽しい」と感じられることを見つける
ことは、不可能ではないはず。


全てが【はず】 今はまだ【できる!】 【不可能ではない!】と、
完璧に言えるほどの自信はない。 でも、やるしかない。
私は今まで、陽の守り方を間違っていたんだ。


病院の待合い室で、陽を抱き締めて、下を向いてじっとして
いる私は、 まるで自分だけが悲劇のヒロインだと勘違い
していた。 ただ、じっとして時が過ぎるように、


自分を、私だけを守っていただけだった。


またジロジロと見られる。何か言われる。
ここに来てはいけないのかな、と自分で勝手に決め
付けていた。


あまり知られていない症状の子どもを抱き締めて、
下を向いている母親を病院で見かけたら、 なんだろう?
大丈夫? 子どもにうつるかも?  何も知らなければ、
そう思うのも当然のこと。


少なからず、その場にいた大切なお子さんと来ている
お母さんに、 不安な気持ちを与えてしまっていた。
自分のことしか、考えていなかった。


だとすれば、これからはどうしていけばいいのか。
いろんなことを考えて、 考えて、考えて、少しずつ行動
にしていった。


それが正解なのかはわからない。 しかし、ほんのちょっと
行動を変えていくだけでも、 明らかに私たちの環境に
変化をもたらしたのだった。


author:『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』より







松岡浩著『一隅を照らす』という小冊子に、大阪にある淨信寺
(じょうしんじ)というお寺の副住職、西端春枝先生
(ご逝去 98歳)の話が載っていた。


西端さんは美しく、頭脳明晰で、しかも明るく楽しいお人柄」
と松岡さんは言う。確かにインターネットで検索したら20歳
は若く見える女性だった。    


西端さんは、後に全国展開をする総合スーパー㈱ニチイの
創業者・西端行雄氏と結婚したのは1946年、終戦の翌年だ。


以来、二人は戦後の高度成長と共に商人道を歩んできた。    
㈱ニチイの前身は、大阪の天神橋筋に出店した、わずか
一坪半の衣料品店「ハトヤ」だった。


戦前、小学校の教員だった夫は商売が下手で、悪戦苦闘
の日々だった。    


ある日の夕方、店先に思いもしない人が立っていた。
春枝さんの実家のお母さんだった。


突然の来訪に春枝さんは戸惑った。なにせ「店を出した」
なんて言ってなかったからだ。


さらにお母さんは、二人が一番恐れていたことを口にした。
「今晩泊めてもらうわ」    


社会全体がまだまだ貧しい時代だったとはいえ、二人の
生活は困窮を極めていた。親にだけは見られたくないし、
見せたくない生活だった。    


日が暮れた頃、お母さんが言った。
「春枝、ところでお便所はどこ?」    


二人の家に水道も便所もなかった。いつも近くの天満駅
の便所を借りていた。もう開き直るしかなかった。


春枝さんはあっけらかんと、「お便所ないねん」と言い、
咄嗟に近くにあったバケツを差し出し、
「これでしてちょうだい」と言った。   


 一瞬たじろいだ表情をしたものの、さすが明治の
女である。お母さんは「こりゃおもしろいね」と言って、
音を立てて用を足した。  


翌朝、お母さんは突然「用事があるので帰る」と言って、
朝ご飯も食べずに若い二人の小さな居住地を後にした。


二人は慌てて靴を履き、天満駅まで送った。  
当時の天満駅のホームは長い階段を上っていった
ところにあった。


階段の下で「それじゃ、無理せんと、西端さんも
気をつけて…」
「お母さんも気をつけて…」、
ありふれた別れの言葉を交わした。   


階段を上っていくお母さんの後ろ姿を見送っていた夫が、
呻(うめ)くような声で言った。  


「春枝、ようく母さんの背中を見ておくんだ。
今母さんは滝のような涙を流しているに違いない」と。  


お母さんは頬を伝わって流れる涙を、二人に
気づかれないように、手でぬぐうことなく階段を
上っていた。


だから一度も振り返らなかった。その背中がすべて
を物語っていた。  


春枝さんは思った。「あの母の後ろ姿をバネにしよう」  
誰にでも「あの日」があると思う。


「あの日」があったから今の自分がある、と言えるような、
忘れてはいけない「あの日」を。  


それは、思い出すだけで心のバネになる「あの日」だったり、
感謝で心がいっぱいになる「あの日」だったり。
そんな「あの日」があるはずだ。  


そう言えば、「おかん」というロックバンドの『人として』
という楽曲は、今の幸せに繋がった「あの日」のこと
を歌っている。 


…あの日あのとき、奇跡とも言える瞬間が無ければ
笑い合うこと無かったよ…


あの日生まれなかったら あの街に住んでなかったら
あの電車に乗ってなかったら あの日が休みじゃなかったら
あの会社じゃなかったら あの学校に行ってなかったら
あの日晴れてなかったら ……


あの時別れてなかったら あのとき、『好き』と言って
なかったら 痛み喜び感じずに僕はあなたを知らない
ままだった  


悔しいこと、つらいこと、悲しいことも、いつかそれは
「あの日」になる。  


「あの日」をどう捉えて、どう生かすかは、すべて
自分で決めることだ。


author: 松岡浩著『一隅を照らす』






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