妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象









歌:山内惠介
作詞:松井五郎:作曲:水森英夫



どんな夢にも 涯(はて)がある
ならば二人で 行くもいい
なのにどうして すだれ雨
ふいに二人を引き裂いた



「残照」は最愛の人との別れ、“生”をテーマにした重い作品だ。


収録時に作詞の松井五郎氏からの心遣いに“気持ち”
が入ったという。


「この歌は命のメッセージで『今、逝ってしまった』というか、
歌詞はその瞬間を切り取っています。


レコーディングもけっこう大変で松井先生から『もっと熱量
をぶつけて、慟哭を意識して欲しい』といわれました。


頭を整理するために『小休止していいですか』と、時間を
もらって帰ってきたら、先生が歌詞の余白にひと言
『いい感じで頑張れ』って…。


粋なことをしてくださっていて、そこから乗って歌えました。
その言葉の書いてある楽譜は額に入れて部屋に飾っています」


残照:山内 
陽によって変化していく“残照”の色合いを表現しています。
残照の見せる風景は春夏秋冬、季節の変化とともに変わる
ので、この曲に出合ってからというもの、僕は空を見上げる
ことが多くなりましたね。


ちょっと涼しくなった夕暮れ時に買い出しに行くんですが、
そこに月が出ていると思わず写真を撮ってキレイだな、
と思ったり。


コロナの影響は多大ですが、その代わりに季節感を
しっかり味わえるようになりました。


声も変化してきている。
デビュー当初に『若いとだいたい高音なんだけど、君の声
は中低音が一番響くね』っていわれました。


僕の場合、初めはキーの設定もギリギリまで上げて
いったんですけど、しばらくしてちょっと落とした所に
自分の声の波動があるんじゃないかと気づきました。


みなさんが心地よく聞いていただけるのはこういう
しゃべっているトーンなのかなって思ったんですね。





演歌歌手の山内惠介さん。


その上品で爽やかな容姿から「貴公子」と呼ばれ、
力強い歌唱は多くのファンを魅了している。


福岡から上京して高校3年でデビューしたものの、
鳴かず飛ばずの時期も長かったという。


ブレイクまでの道のりは・・・ 「お母さん、頑張るけんね」


僕が生まれた福岡県糸島市(旧前原町)は農業が盛んで、
家のまわりは田園風景が広がる、のどかなところです。
ヤギもいれば、牛の鳴き声も聞こえ、もちろん独特な匂い
もします。


母親は「田舎の香水」なんて言ってましたけど、
僕にはそれも懐かしいですね。


僕は3人兄弟の末っ子で、2人の兄とは12歳と9歳年が離れて
います。それもあって、母親にはこれでもか、というぐらいの
愛情を注いでもらいました。


ただ、本当は女の子がほしかったみたいで、名前まで
決めていた、と。


今年(2019年)の正月、親と旅行をした時に初めて
聞きました(笑)。


ちなみに僕の芸名の「惠介」は、本名の山内恵介を
一文字だけ変えています。デビューの時に師匠で作曲家
の水森英夫先生が考えてくれました。


母は、僕の同級生の親たちよりも年齢が少し上。
だから授業参観の日は母親が少しでも若々しく見える
ようにと、母が着ていく洋服を朝、僕が選んでいました。


母も僕の思いに応えて、必ずその服を着てくれた。
とにかく僕は甘えっ子でした。(笑)


母は曲がったことが大嫌いで、何にでも一所懸命。
料理上手で、揚げ物から煮物まで全部おいしかったけれど、
当時はそれをありがたいとも感じず、当たり前だと
思っていました。


父親は新聞社の営業マンで、いつも真っ黒に日焼け
していましたね。九州男児ですからお酒は強いけれど、
結局は母親の掌の上で転がされている、という感じです。


母方の親戚はカラオケが大好きで、みんなでよくお店に行き、
歌っていました。


確か僕が5、6歳の頃、母親の好きだった美空ひばりさんの
「みだれ髪」を初めてカラオケで歌ったんです。


覚えたままに「な~みだを~しぼる~」って部分を裏声
にして歌ったら、みんなが「すごい!」と褒めて喜んでくれた。


祖父母も母も親戚も、僕が演歌を歌うと、時には涙をボロボロ
流して感動してくれるのです。


保育園でも、砂遊びをしながら演歌を口ずさんでいる
だけで、先生たちからものすごくかわいがられたりして(笑)。


そんな経験を重ねるうちに、幼いながらに歌のもつ力を
感じたのでしょうね。演歌歌手になりたいという思いが、
次第に芽生えていきました。


その自分の気持ちを初めてきちんと文字にしたのは、
小学校の卒業文集。


ただ、歌手になる方法がわからなかったし、その時は
放送部員だったので、「歌手かアナウンサーになりたい」
と書きました。


当時はJポップが全盛で、みんなと話を合わせるために
僕もニューミュージックやJポップを聴いていました。でも、
やっぱり演歌が一番好きでしっくりくるんです。


そろそろ思春期に入る年頃でしたから、少しでも同級生が
穏やかな気持ちになるようにと思って、「川の流れのように」
や「愛燦燦」を校内放送でよく流していました。


友だちからは、「山内がまたあんな曲をかけてる」
と言われましたけどね。(笑)


中学卒業後はすぐに東京に出て歌手になりたかった
けれど、親から「高校受験はしなさい。


志望校に受かったら好きなことをやっていい」と言われ
たので、一所懸命に勉強して県立筑前高校に進学。
ちなみに先輩には椎名林檎さんがいらっしゃいます。


チャンスが巡ってきたのは、高校1年生の時。福岡県内
で行われるカラオケ大会に母方の叔父が僕に内緒で
応募していて、そこで優勝したのです。


歌ったのは北島三郎さんの「男の劇場」。母の選曲でした。
この時、ゲスト審査員としていらしていた水森先生に
スカウトされたんです。


その翌年、高校2年の時に単身上京しましたが、
親はもちろん、周りからも「高校だけは卒業したほうがいい」
と言われ、東京の通信制高校へ編入することにしました。


歌手になりたいという気持ちは強かったけれど、一人暮らし
をするのは初めてで不安でしたね。


上京の際は、母が1週間の有給休暇を取り、東京までついて
来てくれました。最初に住んだのは、事務所近くのワンルーム
マンション。


母親が福岡に帰った日の情景は、今でもはっきり覚えています。


「じゃ、帰るけんね。見送らんでいいから」と言って母が階段
を下りていく時の、トントンというヒールの音。


僕は部屋の窓からずっと見送っていたんですが、一度も振り
返らないんですよ。


あの角を曲がったらもう会えなくなるなと思って、「お母さん、
頑張るけんね。心配せんでいいけんね!」と叫びました。





もう後戻りはできないんだ


2000年11月に上京して翌年の4月には「霧情」という曲で
デビューしましたから、下積みもなくとんとん拍子です。


ただ、多感な年頃で反抗期でもあり、僕のモヤモヤとした
感情をぶつけられたスタッフの方たちは大変だった
と思います。


なにせ、歌にせよ礼儀作法にせよ、何の基礎も学ばずに
デビューしてしまったのです。


挨拶だって蚊の鳴くような声ですから、相手に伝わらない。
それなのに僕は、これから歌もヒットしてテレビにもいっぱい
出られて、『紅白』にも出場するようになるんだろうな~と、
当たり前のように思っていたんです。


でも、1年、2年、3年と経った時に、「あれ? 
思い描いていたのと、ちょっと違うな」と。(笑)


4年めからは、新曲を出してはいてもテレビや雑誌に出る
機会がグンと減り、キャンペーンが終わればすっかり暇に。
本当に歌う場所がなかった。


2001年に「霧情」でデビュー。茶髪のイケメン高校生
演歌歌手と話題になったが、その後はヒット曲に恵まれず。


CD店でキャンペーン中、女性客から「あなた、まだ
歌っていたのね」と言われたことも。 


「子供心にショックでした。でも、その言葉をお守り代わり
にして頑張るしかないと思いました。


お客さまはシビア。自分の配ったチラシが捨てられ、
それを自分で拾う。スーツケースをゴロゴロひいて
電車で移動し、アイロンかけも全て自分でやって
いました。


いきなりポーンと売れていたら、今の自分はなかった」
そこが原点。 ・・・


そんな時の駆け込み寺は水森先生でした。
コンビニエンスストアやスターバックスコーヒーなんかで
アルバイトをしてみたいと言ったり、最後には「やめたい」
とまで……。


その時、先生から、「惠介はデビューしているんだから、
ほかの仕事をすることはできないんだよ。


歌手活動の中で己を磨く方法を見つけなければいけない。
お客様に芸を磨いてもらいなさい」と諭されたんです。





レコード会社の先輩、森進一がかけてくれた言葉が今でも
心に響いている。


「努力は見えるところでするものじゃない。人に言える努力は
努力じゃないよ。人に言えないような血のにじむ努力が
本当の努力」と教えてくれた。


「森さんほどの天才が陰で努力している。自分もそこ
に立ちたいのなら、もっと努力しなければ」と悟った。





「電話で 『YouTubeやバラエティー番組もいいけど、
歌っている惠介が一番いいよね』って言われて。


その瞬間『今までやってきたことは間違っていないんだ』
とハッとしました」


そこで、もう後戻りはできないんだ、と腹をくくりました。


不思議なもので、どんなにつらい状況にあっても、やっぱり
歌いたい気持ちは強いし、歌っている時にはものすごく
幸せを感じるんですよね。


当時住んでいた家の近くの公園で、よく声出しをしていました。
いつも月をスポットライト代わりにして歌の練習をしていた
こともあって、僕は今でも月が大好きです。


どん底だった時期も実家には頼りませんでした。
いや、頼れなかったというか……。


末っ子の僕が思い切り甘やかされて育ったのは先生も
スタッフもよくわかっていたので、デビュー後は親と連絡
を取らないように言われていたのです。


携帯電話の番号もメールアドレスも家族に知らせずに
全部変えて、6年間は音信不通の状態でしたね。


そうまでしてでも親離れしなければ、歌い手としてダメに
なっていたと思います。


というのも、地元のコンサートで歌う時は母親の姿が目に
入っただけで里心がついてしまい、涙で歌に詰まって
しまうこともありましたから。・・・


故郷と音信を絶って丸6年が過ぎ、初めて年末に帰省した
時のこと。


僕がいつものように家族と一緒に『紅白歌合戦』を見ようと
したら、テレビの置いてある部屋が真っ暗なんです。


「『紅白』始まってるよー」と家族に呼びかけても、
「ああ、うん」とか言って、誰も見に来ない。


そこでピンと来ますよね。家族は『紅白』に出られない僕に、
気を使っているんだ……。


その時つくづく思いましたね。大晦日に実家に帰っていては
ダメだ、自分が『紅白』に出る側になって、家族にもファンの
皆さんにも歌を届けなきゃいけないな、と。それ以来、
年末年始には故郷に帰らなくなりました。


一つの夢がようやく叶った瞬間


そんな日々にようやく終止符を打てたのは、09年に
『NHK歌謡コンサート』で演歌トリオ「イケメン3」
(山内さん、北川大介さん、竹島宏さん)の一人として
月に1回、出演できるようになったこと。


僕を知っていただける機会がぐんと増えたのです。それで
注目していただけるようになると、だんだん欲が出てきて、
もっと頑張れば僕も『紅白』に出られるんじゃないか、
と本気で考えるようになりました。


トイレの壁に「紅白出場」という目標を書いた紙を貼ったり
しましたが、当然ながら簡単には叶いません(笑)。


でも、思いが強くなるとともに、周りの反応も変わって
きたのです。


『紅白』に落選すると、スタッフのほうが「はぁ~、
残念だったなあ」と落胆するようになって。


そのたびに、「みんなが期待してくれている。
来年こそは!」と気持ちが強くなりましたね。


だけど実際、15年に『紅白』出場の知らせを初めて
受けた時は呆然としてしまいました。


デビューから14年。ようやく掴んだ現実が信じられなくて


水森先生やスタッフたちの顔を見た途端、グワァーッと
涙がこみあげてきました。


すぐに実家にも電話しましたが、母親の声を聞いただけで
もう言葉にならない。


一つの夢がようやく叶った瞬間でしたね。


その直後に行った広島と岡山でのコンサートの熱気は
すごかったですよ。皆さんの喜ぶ顔を見た時は本当に
幸せで、その時に飲んだお酒の味は忘れられません。


一度出場できれば十分だと思っていたのに、『紅白』で
歌い終わった瞬間に、来年もまた出るぞ! という欲が
湧き上がってくるんです。


おかげさまで、(2020年)6年連続での出場が叶いました。
一年の最後の日に、生放送で自分の歌、そして笑顔を
届けられるのは、歌い手として一番の幸せです。


あの半地下の時代には絶対に戻りたくない


僕はイノシシ年なんですよ。2020年はデビュー20周年
ですから、19年はその前哨戦。新曲「唇スカーレット」
を引っ提げて、47都道府県すべてを回りました。


パンチのあるとても覚えやすい曲なので、振りに合わせて
盛り上がっていただければ嬉しいです。


最近はファンの女性がご夫婦で来てくださるようになり、
男性ファンが増えてきました。ファンの方の目はとても
肥えていますので、本当に鍛えられます。


プライベートでチャレンジしてみたいのは料理。ワインが
大好きなので、アテをササッと作れるような料理上手に
なりたいですね。


そんなことを言うと、「食べてくれる人は見つけないの?」
とか言われるんですけど、いないんですね~。


女性の好みですか? 
米倉涼子さんとか素敵ですよね。やっぱり年上の女性が
タイプなのかなあ。(笑)


親にも「結婚はいつ?」と言われますけど、サァーッと
流してる。(笑)


先生には「40歳までは結婚するな」と言われてますし、
五木(ひろし)先輩も40歳を過ぎて結婚なさっています。
僕は38歳、大丈夫だなって。・・・


人生に無駄なことはないんだなと、心底思います。


どん底の頃に住んでいたアパートは陽も当たらない
半地下で、寝ていると駐輪場に自転車を停めに来た
人と窓ごしに目が合うんですよね。


あの半地下の時代には絶対に戻りたくない。
そういう気持ちがあるから、休みがほしいなと思うくらい
忙しくても、頑張れます。


そもそも僕は演歌を知って歌が大好きになった人間で、
演歌歌手です。でも、演歌というジャンルを超えた、
誰もが口ずさめる流行歌の歌手でもありたい。


20周年の先の25周年、そして30周年と息の長い歌手になる
ことが僕の一番の目標ですから、そういう曲にたくさん巡り
合いたいし、歌っていきたいですね。・…


デビュー15年にして『第66回NHK紅白歌合戦』初出場を
果たした山内惠介


山内 惠介(やまうち けいすけ、1983年5月31日 - )は、
日本の演歌歌手。福岡県糸島郡前原町(現在の糸島市)出身。
星座は双子座。身長178cm。


デビュー当時のキャッチフレーズは「ぼくはエンカな高校生」。
氷川きよしとは同じ作曲家水森英夫門下生であり、
同じ福岡出身でもあることから、同郷同門の縁で公私共に
仲が良い。大先輩の松任谷由実とも親交があり
可愛がられている。










お化粧しても、そこに傷痕があるな~ぐらいに
薄っすら見えるから隠しようがなく、でも母もそれほど
気にしてない様子で、昔のままの明るい性格だ。


そんな母を尊敬している。


結婚して初めての義実家への帰省の時、
結婚式の時の話になったんだが、その時に


義父が母の傷痕のことを「嫁の母親にあんな傷があって、
ちーとばかり恥ずかしかったな」 と。


そしたら義母が「もうちょっとなんとか隠せなかったのかねぇ、
女なのにみっともない」と言って笑った。


夫に目配せしたら(失礼だとかなんと言って欲しかった)、
視線を受け止めておきながら何も言ってくれなかった。


私、どうしてもその言葉が許せなくて、精一杯の
嫌味を込めて「そんなに恥ずかしいですか?


人の顔の傷を笑うことよりも?」と言ったら
一瞬にして場の空気が凍り付いた。


なのでひとりで2階にある部屋(独身の頃の夫の部屋)
に戻った。1階からはしばらく怒鳴り声が聞こえて、
その後不貞腐れた夫が戻ってきた。


「おまえ、あとで謝っとけよ」って言われて
「なんで?」って聞いたら


「嫁が嫁ぎ先の両親にあんな口きいていいはずないだろ」
って言われた。


なんかもう、乾いた笑いしかでなかった。
夫が1階に降りて行ったので、荷物を纏めて自分で
タクシー呼んで帰った。


後から帰宅した夫に 「勝手なことすんなよ」
「ちゃんと電話して謝っとけよ」って言われて


「今後一切義実家には帰りません。
あの人たちと会う気はないです。
それを認めないなら離婚でも構いません」
と言ったら、


それは困るみたいで、義実家との絶縁を認めてくれたけど、
どうしても私に謝らせたい義両親と、絶対謝る気のない
私の間に挟まれた夫が音を上げて結婚半年で離婚した。


好きで、一生を共にするつもりで結婚したのに
半年後には憎しみしか残ってなかった。


両親には離婚の理由を未だに話していない。
母が傷つくような気がして。


私自身が耐えがたい屈辱的な言葉を投げつけられ、
夫がそれに対するフォローを一切しなかったことを
理由として伝えてある。・…



知ってやる罪 重い罪 知らずにやる罪 深い罪 
いずれの罪も 縁次第





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