妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・THE ライフ







歌:松尾和子
作詞:作曲:とまりれん


飲ませて下さい もう少し
今夜は帰らない 帰りたくない
誰が待つと言うの あの部屋で
そうよ誰もいないわ 今では
唄わないで下さい その歌は
別れたあの人を 想い出すから
飲めばやけに 涙もろくなる
こんな私 許して下さい






《刑務所での生活は今は少し辛(つら)いですが、ゆっくり
時間をかけて慣らしていこうと思っています》


昨年11月4日、栃木県内の女子刑務所から手紙が
弁護士宛てに届いた。


丸みのある文字で丁寧に書かれた文面に、東京拘置所
から栃木刑務所に移った報告や 社会で生きていける
精神力と体力を回復させていきたい と出所後の決意が
つづられていた。


差出人はかつて、世間から「鬼母」と罵(ののし)られ、
猛烈な批判の渦中にいた。


平成30年、東京都目黒区で長女の船戸結愛(ゆあ)ちゃん
=当時(5)=を死なせたとして保護責任者遺棄致死罪に
問われた優里(ゆり)受刑者 (28)だ。


事件では「おねがい ゆるして」と記された結愛ちゃんの
ノートが見つかり、「母親なのに子供を守らなかった」と
いった糾弾する声が相次いだ。


裁判では、懲役8年の判決が下された。


ただ、夫だった船戸雄大受刑者(35)=懲役13年が
確定=から、看過できない心理的なDV(配偶者間暴力)を
受け、逆らいにくい従属的な立場にあったとされた。


裁判長は「結愛ちゃんは戻ってこないが、あなたの人生は続く。
裁判が終わってもしっかりと考え、人生をやり直してください」
と説諭。DVの影響が量刑上でも考慮された形となった。


その判決から1年余り。優里受刑者から手紙を受け取った
代理人の大谷恭子弁護士(70)は優里受刑者が、 過去と
向き合えるようになった心の変化を感じた。


その一方で、事件を食い止められなかった社会への
わだかまりは拭い去れない。


「誰かが手を差し伸べられなかったのか。結愛ちゃんは
死なずに済んだはずだ」


夫の支配下に


優里受刑者は24年に結愛ちゃんを出産。
元夫と離婚した後、香川県内で同居を始めていた
雄大受刑者と28年に再婚した。


結愛ちゃんの誕生日には、家族でケーキを作ってお祝いした。
どこにでもある普通の家庭。思い描いた理想の家族になれる
はずだった。


しかし、綻(ほころ)びは生じていた。
長男が生まれ、優里受刑者が育児にかかりきりになり、
雄大受刑者が結愛ちゃんの面倒を見る機会が増えた。


その頃から、長時間の説教や優里受刑者へのDVが始まった。


「モデル体形にする」と厳しい食事制限が課され、
結愛ちゃんには「しつけ」と称した暴行が繰り返された。


当初は暴力をやめるよう懇願した優里受刑者だったが、
じわじわと「雄大が作った価値観」(大谷弁護士)に支配
されていく。


優里受刑者が結愛ちゃんを抱っこするだけで、雄大受刑者
からとがめられ、恐怖で抱きしめられなくなった。


優里受刑者は「(雄大受刑者が)ご機嫌でいれば結愛は安全」
と考えるようになった。相手の顔色を常にうかがい、自ら結愛
ちゃんの説教に加わることも。


その後も虐待は続き、結愛ちゃんは亡くなった。
全身170カ所に傷があり、体重はわずか12・2キロだった。


「自分が悪い」 なぜ、防げなかったのか。


DVと虐待が絡み合った環境に、第三者が介入する機会は
何度もあった。 香川県の児童相談所(児相)は28年12月
と翌年3月に、結愛ちゃんの傷やあざを見つけ一時保護した。


最初の一時保護の際、結愛ちゃんは「ママもたたかれている」
と伝え、優里受刑者も「一緒に行きたい」 と申し出たが、
警察や児相は「あざや傷がなければDVでない」と説明した。


「何を聞いても『自分が全て悪い』という自責感情に覆われ、
典型的な洗脳状態だった」と振り返る。


優里受刑者は当初、DVを受けていた自覚すらなかったという。
その後も介入の機会は逃された。


香川県から東京都に転居した後の30年2月、品川児相が
家庭訪問したが、優里受刑者は結愛ちゃんに会わせずに
担当者を追い返した。


雄大受刑者が逮捕されて恨まれるのが怖かったためだ。


東京で頼れる大人は雄大受刑者以外いなかった優里受刑者。
「心理的DVは第三者から発見されにくいとはいえ、結果的に
誰も彼女に寄り添えず、児相や警察、医療機関による二次
加害が起きてしまった」と指摘する。


理想の母親像に縛られ 孤立したのはDVだけが要因では
なかった。結愛ちゃんの一時保護が解除された29年、
優里受刑者は香川県内の医療機関を受診し、 結愛ちゃん
を抱っこできなくなったことなど育児不安を伝えていた。


抱っこすると雄大受刑者の機嫌が悪くなることを恐れての
無意識での行動だった。


大谷弁護士らによると、優里受刑者に対し、医師は
「ハグできない冷たい母親」と捉え、 児童相談所も面会で
「子供を暴力から守れるのはお母さんだけ」と、一方的とも
いえる指導で終わった。


幾度となく突き付けられた理想の母親像。


さらに雄大受刑者からのDVが追い打ちをかけ、自己肯定感
を失っていた。「努力が足りてない」。自然に自分自身を責める
ようになっていった。


「『良い母親でありたい』という思いから、子育てがつらいと声を
上げられない母親は多くいる」。


日本社会には「育児は楽しく、母親は本能で子供を愛せる」
といった母性神話が流れているという。


そんな無意識の固定観念が母親を追い込み、 虐待を
個人の問題に矮小(わいしょう)化する要因となっている。


「完璧じゃなくても」


厚生労働省によると、心中以外の虐待死における身体的
虐待やネグレクト(育児放棄)では例年、主たる加害者は
実母が半数近くを占めている。


死亡した子供は3歳未満が6割ほどで母親は育児が大変な
時期の子供と接する時間が多く、負担が集中している
とみられる。また、


19~30年に虐待死した子供568人のうち少なくとも約10%
にあたる51人は、実母がDVを受けていた。


母親が虐待をしてしまうのは、養育能力の欠如や育児不安、
DV、望まない妊娠など多様な背景が潜んでいる。


『正しい育児』を振りかざす支援だけでは親を責め、 より
孤立させてしまう。社会全体で育児を担う意識が必要だ」
と話す。


優里受刑者は現在、刑務所で平穏な日々を過ごし、
刑務作業にあたっている。


最近では運動場に出て、体を動かす意欲も湧いてきた。
昨年2月には、事件に至るまでの経緯などをつづった
手記も出版。差し入れの教科書を読み、勉強も始めている。


結愛ちゃんへの罪悪感が消え去ることはない。ただ、
大谷弁護士によると、DVによる心理的な支配や、
母親としての理想像の呪縛から解かれつつあるという。


昨秋、拘置所で大谷氏に面会した優里受刑者は落ち着いた
表情で、出所への意欲を伝え、 保護されている長男に
誓うように語った。


「息子と一緒に暮らし、完璧じゃなくても、強い母になりたい」


児童虐待の背景をみると、孤立や貧困、子育てのストレス
などが複雑に絡み合う。 「子供だけでなく親も救いたい」。


支援者はそう口にするが、一方で世間も親も「理想の親」像
にとらわれる。・・・・


author:西山瑞穂・小松大騎・桑波田仰太・野々山暢










4年前に離婚し、息子を夫に会わせたくないほど嫌になって
しまっていたというしばはし聡子さん(45歳)。


元夫からのメールを捨ててしまっていた時代から、
光が見えたきっかけとは。 …


売り言葉に買い言葉で離婚


しばはし聡子さんは4年前に離婚し、いまは中学2年生の息子
と都内に2人暮らし。


夫婦仲に波風はありながらも「仲よし3人家族」のつもりだった
のが、ある日の口論をきっかけにあれよあれよと離婚となった。


「『出て行け!』と言うので、売り言葉に買い言葉で
『あなたこそ出て行って!』と返したら、


元夫は荷物をまとめて本当に家を出て行きました。
当時小学4年生だった息子もその場にいました」


息子は、泣いている聡子さんに向かって「大丈夫、ママは
間違ってないよ」と、笑顔をつくった。


そして、自分に言い聞かせるように「間違ってない、
間違ってない」と繰り返した。


「私に気を遣ってくれたんだと思います」と、聡子さんは
辛そうに言う。


調停で離婚が成立したのは、その日からわずか半年後。
聡子さんにとっては、あまりにも急な展開だった。


聡子さんと元夫は同じ年で、23歳で出会って26歳で結婚した。
30歳で子どもが生まれてからも共働きを続けた。


「彼は育児に協力的で、父親として何の不満もありませんでした


しかし、息子が小学1年生になったころ、元夫が仕事で家を
空けがちになってから、少々雲行きが怪しくなった。


新しい仕事に夢中で取り組む元夫の姿に聡子さんは寂しさ
を覚え、ときには泣いて不満をぶつけた。そんな聡子さん
を元夫は鬱陶しがった。


「彼は自分を信頼して、ドンと構えていて欲しかったんでしょう。
それに私が応えられなかった。


彼の仕事に一喜一憂したり、今日はどこに誰と行くのと
聞きたがったり。俺はなんでも報告しなくてはいけない
部下じゃない!と、はっきり言われたこともあります」


口論になると弁が立つ元夫へは言い返すことができず、
泣くことしかできなくなった聡子さんは徐々に気持ちが
不安定になり、夫婦の会話は減った。


元夫が出て行ったのは、そんな最中でのできごとだった。


聡子さんは、離婚するつもりなどなかった。たぶん、
その時点では元夫も。


それで、聡子さんは、元夫にメールした。
「話し合いがしたかったんです。でも、メールだとお互い感情的
になってしまい、うまく歩み寄りができなくて。


そこで、第三者がいた方がいいと思い弁護士さんを頼りました。
そうしたら、あれよあれよと調停に。


私は修復を目指すための話し合いのつもりだったし、
弁護士も私の気持ちを理解してくれていましたが、
元夫はけんかを売られた、と思ってしまったみたいです。


攻撃的な内容のメールが届くようになり、私は返事をする
気も失せてしまい、すべてを弁護士に任せるようになりました。」


離婚調停によって夫婦関係が悪化


結果として、別居直後よりも調停を経て夫婦関係はより悪化した。
言いたくないこと、言ってはいけないことをぶちまけ合い、
数回の調停の終盤には、顔も見たくない二度と関わりたくない
相手になり、離婚に迷いはなくなっていた。


「私が法学部出身だったこともあり、すぐに凄腕の弁護士さん
が見つかったのもよくなかったのかな。


はじめにカウンセラーのような存在に相談していたら、
もしかしたら離婚は避けられたのかもしれません」


財産分与、子どもの親権、養育費の支払い・・・
弁護士主導で、とんとん拍子に話は進んだ。


子どもと父親との面会交流については、これも弁護士の
提案そのまま「月1〜4回」となった。


「面会交流についてはまったく知識がなかったので、
そのくらいが普通ならそれでいいです、みたいな感じで
深く考えず決めました。


離婚したら相手とは縁が切れるものと思い込んでいたので、
面会交流のために離婚後にやりとりをすることを想像
すらしていませんでした。」


だから、離婚をしたのに元夫から「子どもに会わせてほしい」
と連絡が来たときは驚愕した。


メールを見た途端、離婚前の攻撃的なメールが思い起こされ、
メールがくるたびに体が震えた。


「約束なので仕方なく会わせたのですが、いやでいやで
しょうがなかった。


その後も、運動会や野球の試合などに行きたいと連絡が
来るたび、家族でもないのに馴れ馴れしいと腹が立って、
わざと冷たく敬語で返信したりしていました」


当時、息子はまだ小学生だったので、一人で待ち合わせは
させられない。面会の日には、元夫が家まで送り迎えに
やってくる。


姿を見たくなくて、ピンポンとチャイムが鳴ると、わざと耳を
塞いでソファの後ろに隠れたりもした。息子は、そうっと
出かけ、そうっと帰ってきた。


「『子どもが会いたいって言えばいいですけど、そちらからは
会いたいって言わないでください』と言ったこともあります」


子どもに「会いたい」と言わせなかった


子どもは親の気持ちに敏感だ。母親に「会いたいの?」
と聞かれて、本当は会いたくても親の言外の気持ちを察して
「会いたくない」と言ってしまうことはいくらでもある。


聡子さんの息子もそうだった。


「離婚してから少しでも前を向きたくて、自分の経験が生かし
たいと思い、『離婚カウンセラー』の資格を取りました。


あるときその活動のなかで、面会交流の相談を受けて、
ハッと気づいたんです。私はこの問題を乗り越えられて
いない、と」


いつしか家庭のなかでは、父親の話題はタブーになっていた。
テレビで離婚の話題が出ると空気が重くなり、2人でじーっと
黙り込んだりしていた。


「息子を『お父さんに会いたい』と言わない子にしてしまって
いました。このままではいけないと思い、思い切って元夫に
メールをしたんです。


『来週、ごはんに連れて行ってあげてください』と。


これまで元夫のメールを散々無視してきたのに、
何を今更、と言われるのではないかと不安でしたが、
すぐに『ありがとう! 喜んで』という返事が返ってきました」


聡子さんはホッとし、ありがとうを言われていい気分になった。
一気に気持ちがほどけた。


「息子に『来週、お父さんがごはんに連れて行ってくれるって』
と伝えたら、すごく嬉しそうな顔をして。


私の口から『お父さん』の単語が出たので安心したのでしょう、
それからは嬉しそうに父親の話をするようになりました。


『こんなもの食べた』『こんなとこに行った』。
私も、それまで顔も見たくない、声も聞きたくない、
メールの文字も拒否してしまうみたいな感じだったのが、
全然平気になり、ストレスから解放されました」


わずか1通のメールをきっかけにし、子どもを挟んで、
元夫婦の関係性はあっという間によくなった。


離婚から1年と少し経っていた。


離婚したことを子どもに言えずにいた
実は聡子さんは、離婚をしてもしばらくの間、息子に
「離婚をした」という事実を告げられずにいた。


「息子にきちんと正対する勇気がなくて…」
調停での話し合いで、住んでいる家はそのまま聡子さん
と息子が住み続けられることになり、名前も旧姓には
戻さなかった。


今までも父親は不在の日が多かったから、息子にとって
の環境が大きく変わったわけではなかった。


息子から質問されることもなかったので、なんとなく離婚した
ことを言わずに時の流れに身を任せていた。


「ある日、学校に提出する書類を息子に見られたんです。
父親の名前を赤で削除して、離婚した旨をメモでつけた
書類です。


封をして息子に持たせたんですが、先生がその場で
開いてしまった。息子はショックを受けたと思います。
だいぶ経ってから『なんで言ってくれなかったの』と。
悪いことをしました」


父親の名前を削除したのは、「離婚をしたら片親になる」
と思い込んでいたことの表れだった、と聡子さんは振り返る。


親であることは変わらない


聡子さんが元夫にメールしてから、父と子の交流は増えた。
月に2回は週末、泊まりに行くことが恒例に。


元夫は喜び、そのために広い部屋に引っ越しもした。
それまで料理をしなかったのに、手作りの料理を
ふるまいもする。


「行くと、一緒にテレビを見ながらタレントの誰それがかわいい
とか俺はこっちが好みだとか、男同士の会話を楽しんでいる
みたいです。


あと、社会問題について話したり、日経新聞を読ませて
要約させたり、私にはできないことをしてくれています」


もうすぐ中学3年生になる息子は、そろそろ反抗期。
巣立ちを後押ししてくれる男親の存在は、これからますます
必要となる。


「離婚をしても、子どもの親であることは変わらないんですよね」
聡子さんの言葉には、実感がこもっている。・…







「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。
いまいましい」


男はそう言いながら、お釈迦様をギャフンと言わせるため
の作戦を練っていました。


ある日、その男はお釈迦様が毎日、同じ道のりを散歩に
出かけていることを知りました。


そこで、男は散歩のルートで待ち伏せをして、群衆の中で
口汚くお釈迦様をののしってやることにしました。


「釈迦の野郎、きっと俺に悪口を言われたら、汚い言葉で
言い返してくるだろう。その様子を人が見たら、あいつの
人気なんて、アッという間に崩れるに違いない」


そして、その日が来ました。


男はお釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を
投げかけます。


お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を聞いて
おられました。


弟子たちは悔しい気持で、「あんなひどいことを言わせて
おいていいのですか?」とお釈迦様にたずねました。


それでも、お釈迦様は、ひと言も言い返すことなく、
黙って、その男の悪態を聞いていました。


男は一方的に、お釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、
しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。


どんな悪口を言っても、お釈迦様がひと言も言い返さ
ないので、男はなんだか虚しくなってしまったのです。


その様子を見て、お釈迦様は、静かにその男に
たずねました


「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け
取らなかった時、その贈り物は、一体誰のものだろうか」


こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。


「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら、
贈ろうとした者のものだろう。分かりきったことを聞くな」


男はそう答えてからすぐに、
「あっ!」と気づきました。


お釈迦様は静かにこう続けられました。


「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。
でも、私はそのののしりを、少しも受け取らなかった。


だから、あなたが言ったことは、すべて、あなたが
受け取ることになるんだよ」・…




時は絶えず流れ、今、微笑む花も、明日には枯れる・…
しかし、枯れない花はないが、咲かない花はある......。





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