妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象













「温かい死」を家族とつくることを目指す団体がある。
一般社団法人「日本看取り士会」(本部、岡山市)だ。
本人の死への恐怖や、家族の不安をやわらげながら、
医師とも連携し、納棺まで寄り添う仕事。


母親の温かい背中に触れる子供たち 加藤美咲
(仮名、37歳)が危篤だという知らせを受けて、
看取り士の大橋尚生(42歳)が病室に着いたのは
正午過ぎ。


夫の加藤修造(仮名、43歳)と修造の姉、美咲の母が
放心しているように見えた。2017年10月5日のことだ。


「ご主人の加藤さんに、ベッドに横たわる美咲さんの
右側に座ってもらい、美咲さんの頭を左太ももの内側に
載せていただきました。


お姉さんとお母さんには、美咲さんの左側で腕や脚を
さすってもらいながら、『ありがとう』や『お疲れ様』
など、ねぎらいの言葉をかけていただきました」


3人は美咲に触れて声がけをすると、一斉に号泣した。


2016年6月に摘出した卵巣がんの、腸などへの転移が
わかってから約4カ月後だった。


加藤夫妻には5人の子供がいる。そのうち、小・中学校
を早退した4人が病室に来たのは午後1時すぎ。
美咲が亡くなって約2時間半が経っていた。


大橋が振り返る。


「子供たちはみんな、驚くほど冷静でした。私が
『お母さんの背中はまだ温かいから触ってみて』
と伝えると、少しだけ触れて離れる子や、背中に
じっと手を当てて、目を赤くしている子がいました。


でも、一番下の美春さん(仮名、7歳)は、
『絶対に嫌だ』と、お母さんには近づきませんでした」
大橋は子供たちが冷静だった理由を、後で
知ることになる。 ・・・



看取り士の大橋は、大切な人を抱きしめて看取る理由を
説明する。


「良い心と魂を引きつぐには、背中が温かい間は抱き
しめたりして、そのエネルギーをゆっくりと受けとる
必要があります。


『命のバトンを受けとる』と言います。それができれば、
家族もより自分らしく生きていけます。


だが、約8割の人が亡くなる病院では、そんな悠長なこと
はできない。多くの場合、家族は遺体との別れを20分
ほどで終えて一度退室。


看護師が遺体からチューブ類を外し、着替えなどを約30分
で済ませて、家族と再対面させる。


遺体はドライアイスで防腐処理され、病院裏口から
搬出される。


「自宅なら、家族で思い出話をしながら、大切な人の
温かい背中がゆっくりと冷たくなる過程を、
体をさすったりして共有することで、その死を理屈
抜きに受け入れられます」(大橋)


1976年を境に病院で亡くなる人が自宅で亡くなる人を
上回って40年以上過ぎていて、看取り方を
知る人は少ない。 2018年2月末時点で全国に約340名の
看取り士がいる。


加藤美咲もがんの転移がわかった際、担当医への不信感
もあって抗がん剤治療を拒み、自宅での療養を選んだ。


だが、昨年9月に肺炎を発症し、やむをえずに再入院する
ことになった。


美咲の自宅療養に、看取り士の大橋はどのように
向き合ったのか。



看取り士が終末期の人に実践し、その家族にもうながす
「幸せに看取るための4つの作法」がある。「温かい死」
へと導くためだ。


①家族の温もりを伝えるために、本人と肌の触れ合い
を持つ。
②死への不安を共有するために、本人の話を傾聴し、
反復し、言葉になら ない恐怖は沈黙で受けとめる。
③どんな状況でも「大丈夫」と声をかける。
④看取る際には抱きしめて、呼吸を合わせて一体感で
包み込む。


美咲が亡くなる約3週間前から、大橋は彼女の自宅へ
通い始めた。美咲の「自宅で点滴したい」という希望
を踏まえ、大橋が代表を務める訪問看護ステーション
「もも」から、看護師が同行するようにもなった。


『5人の子供たちを残して、まだ死ねない!』とか、
『泣きたいけど、泣けないんです』とか、
1日約3時間寄り添うことで、美咲さんも時々、
僕らに弱音をこぼされました」


相手の不安を分かち合うことも、看取り士の大切な仕事。


大橋は、美咲の立場になって彼女が痛がる所をさすり、
トイレに行く際には付き添い、彼女の話を黙って
聞き続けた。


「何もしてあげられない無力な自分として、ただただ
寄り添い続けました」と彼は話す。


37歳の母親の「まだ死ねない!」などの言葉を受け
とめ続けた。


「死を前にすれば、無力です。でも、その段階で
相手にまだ何かをしてあげられるのではないかと
思い上がっても、結局は何もできないんですよ」


「死によって体を失っても、人は家族の良い心と
魂の中で生き続けられる。そう強く信じているからです。
だから死は決して怖くないんです」



「生まれて初めて臨終に立ち会い、私の場合、
それが妻だったわけですが、一番近くで体感した今、
死はもう怖くないです。


5カ月ほどが過ぎた今でも、ずっとそばにいるような
気がしますから」 加藤は、美咲の看取りについて
きっぱりと語った。


普段から妻とはスキンシップを取っていて、看取り士
から事前に抱きしめて看取ることも聞いていたので、
違和感はなかったという。


「手脚はすぐに冷たくなっても、背中は亡くなってから
3時間半ほどは温かったですよ。


残り1カ月は苦しんだ闘病生活でしたけど、最期は
とても穏やかでしたし、大橋さんたちのおかげで、
満点の看取りができました」


美咲の告別式から約2週間後。大橋は加藤から、病室で、
子供たちが冷静だった理由を初めて明かされた。


実は、加藤は、美咲に子供たちとのお別れをさせていた。
野球部の寮で暮らす中学1年の次男を除く、4人の
子供たちを、美咲は一人ずつベッドに呼んで抱きしめて
言葉を交わしたという。


「お母さんは魔法使いになって、いつもみんなのそば
にいる。苦しいときは苦しいと言いなさい。お母さん
がすぐに駆けつけるけんね」


子供らはみんな泣いていたが、美咲は満面の笑みで
一人ひとりに力強く伝えていく。


最後に一人娘で、小学1年の美春を呼んで尋ねた。


「お母さんの宝物は何?」
「美春!」
「お母さんが、一番大好きなのは誰?」
「美春!」
「ちゃ〜んとわかっとるけん、大丈夫ね」


答えながら泣く娘を、母はぎゅっと抱きしめた。
娘は添い寝をせがんだ。 ・・・


「あの夜の妻の、『魔法使いになって、いつもみんな
のそばにいる』という言葉を、みんな、信じて
いるんです。


だから妻が旅立った病室に来たとき、子供たちは
強かった。俺、子供たちを尊敬しますよ」
加藤はハンカチで目頭を何度も押さえながら、
そう絞り出した。


告別式を終えて火葬場から帰る8日の午後のことだ。
美春は3日の病室だけでなく、自宅から出棺する当日も、
母親の体に一度も触れなかった。


少し年上のいとこからその理由を聞かれた美春は、
小さな胸に手を当てて話したという。


「あれはお母さんじゃない。もう私のここにいる」











感謝の気持ちで


気づかないけれどたくさんある
お世話になっているもの 大切なもの 


目が悪くなったらわかります。
目がどんなに大切なものか。
いつもどれだけお世話になっていたか。


歯が痛くなったらわかります。
歯がどんなに大切なものか。
いつもどれだけお世話になっていたか。


普段は気づきにくいけれど、ピンチになったとき、
その有難さに気づくのです。


食卓に並ぶ食べ物をみてもわかります。
それらは誰かが手間隙かけて作ってくれたり、
遠くまで行ってとってくれたり、
運んでくれたりしたものです。


自分一人ではできないことを誰かが代わりにして
くださっているのです。


赤ちゃんを見るとわかります。
赤ちゃんはいつも多くの人にお世話になっています。


命、体、愛……、
たくさんのものを与えられなければ、赤ちゃんは
生きていけません。


大人になった私たちも本当は、同じです。
一人では生きていけません。家族、会社の仲間、
お客様など、いまも多くの方からお世話になり、
大切なものをいただいているのです。


★ハッピーになれるヒント★
今日も感謝の気持ちで過そう。 


author:「関西電力新聞」より




今思い通りにならないのは、 きっと後で、
もっとうまくいくため


オーストリアの小さな村の教会では、一年中で
もっとも大きな祝いの行事、クリスマスの準備を
していました。


ところが、急に教会のオルガンが壊れてしまいました。
田舎では修理ができません。


これでは、今年のクリスマスはみじめにものになると、
村人はがっかりし心配しました。


そこで、主任司祭は自分で詞を作り、小学校の先生
に作曲を頼みました。


オルガンの代りに、はじめてギターの演奏でその歌の
二部合唱をするためです。


クリスマスのイブ、村人たちの歌声は村を囲む雪の
秀峰にこだまして、クリスマスの喜びはいっそう
増したのでした。


そのとき生まれた歌が、いま世界中で歌われている
「きよしこの夜」です。


難しい状況にあっても、他によい方法はないかと
あきらめずに前向きに行動すれば、道は開けます。


自分もまわりの人もいっそう成長していけ、
大きな喜びが生まれるのです。


★ハッピーになれるヒント★
逆境を成長するチャンスにしよう。


>author:「関西電力新聞」より







四半世紀わたって金子みすゞの詩を世に送り続けてきた
金子みすゞ記念館館長・矢崎節夫氏。



本来、お母さんにとって子供は存在するだけでいいのです。
生まれただけで百点満点です。


そのことを思い出させてくれたのは、阪神・淡路
大震災の時です。


ニュース番組で、ある避難所が映し出されていました。
そこに耳の聞こえないお父さんとお母さんが
いらっしゃいました。


小学校五年生の女の子は耳が聞こえました。ですから、
水やお弁当の配給はその女の子がお父さん、お母さんに
代わって取りに行っていました。


その三人に座ってもらって、ご両親にその子について
語ってもらいました。


まずお母さんがテレビ画面いっぱいに映られて、
「この子がいなければ私たちは生きていけませんでした」。


次に、「この子は」って言った瞬間、声が震えたんです。
そこでカメラマンもハッと気がついて、カメラを引いて、
お父さんとお母さんとその子が映りました。


ご両親とも耳が聞こえないので、口を開けていても
言葉にはなっていなかった。


何をしていたかというと、手話をしていたんですね。
その手話を女の子が通訳していたんです。


最初は、いつものように通訳ができたんだけれども、
次に「この子は」って言った瞬間に気づいちゃったんです。


いまお母さんが言ってくれている「この子」というのは
自分のことだって。それで胸がいっぱいになって、
声が震えたんですね。


二言目にお母さんが言ったのは、「この子は私たちの
命の恩人です」という言葉でした。


次に、お父さんが手話をしました。


その瞬間、女の子の目に涙がワーッと溢れて、その涙
をこぼさないように上を向きながら、ひと言ひと言
紡ぐようにその手話を訳しました。


お父さんはなんて言ってあげたか。
「この子は私たちの宝物です」って言ったんです。


間違いなくご両親にとって、その子は宝物です。
いえ、皆さんを含めた世界中の人はすべて、お父さん
とお母さんの宝物です。
・・・・






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