妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象







歌:キム・ランヒ
作詞:作曲:永井龍雲


愛していたと ひとこと言って
一度は私を 誰よりも
それで黙って 戻って行くの
ひとりぼっちの私に


人込みに 肩ぶつけて
すれ違う人に 叱られて
ふと 自分に返って
惨めな気持ちになる







「本人の意思聞いていれば・・・」


「もしも心臓や呼吸が止まったとき、心肺蘇生を
望まれますか」  


洋画家・タレントの城戸真亜子さん(57)は昨年春、
義母が肺炎で入院した時、主治医から延命治療の方針
について聞かれた。  


その頃、長年同居していた義母は認知症が進行し、
東京都内の特別養護老人ホームで暮らしながら、
かかりつけの病院へ入退院を繰り返していた。  


心臓マッサージは胸を強い力で圧迫される。


城戸さんは、弱ったあばら骨が折れ、義母が苦しむのは
かわいそうだと考えた。


「心肺蘇生を行わないということは、見殺しにするという
ことですか」。隣の夫はそう言ったきり、押し黙った。  


義母は、ほぼ寝たきりの状態だったが、ホームを訪ねた
城戸さんがスプーンで食事を口元へ運ぶと、おいしそうに
味わった。


その姿を見ると、「別れは遠くないだろうな」と思いながらも
実感がわかず、夫婦で話し合う機会を持てなかった。


  ◇  ◇   ◇  


その時は、突然訪れた。  


昨年10月、城戸さんの携帯電話が鳴った。「お母さんの
呼吸が弱くなっています。救命救急センターに運びますか」。
ホームの119番で駆け付けた救急隊員からだった。


切迫した声に動揺し、とっさに「お願いします」と答えた。  
センターでは、救急医から「ここに運んだということは、
心肺蘇生を望まれるのですね」と念を押された。


半年前から何度かあった主治医の問いかけへの答えは、
夫婦で出せていなかった。


城戸さんは「家族は、生かすかどうかの選択を迫られるのだと、
その時に初めて実感した」と言う。  


この時は容体が安定して退院。かかりつけの病院に移り、
1週間後に95歳で息を引き取った。  


「元気な頃に本人の意思を聞いていれば、最初からセンター
に運ばず、静かな時間が過ごせたかもしれない。


でも、義母が目の前で生きているのに、家族は覚悟を
決められない」。城戸さんは振り返る。


  ◇  ◇   ◇


福岡市・天神にある済生会福岡総合病院。脳卒中や
心肺停止などの重症者を24時間体制で受け入れる
救命救急センターには、終末期の高齢者も運ばれてくる。


2017年度の救急搬送は4098件。65歳以上の高齢者
が6割を占めた。  


「もちろん治療は開始する」と、則尾弘文センター長。
同時に「回復が難しい場合は、心臓マッサージや気管
挿管を希望するか、家族に意向を確認するようにしている」
と話す。  


以前は、搬送患者のすべてで救命が優先されてきたが、
高齢化に伴い、救急の現場も本人や家族の希望を尊重
するよう変わりつつある。


自宅や施設で 看取みと る場合、 救急搬送すべきでない
との指摘もあるが、則尾センター長は「24時間対応できる
在宅医はまだ少なく、看取りにも対応しているのが現状」と
説明する。  


福岡県久留米市の聖マリア病院は11年、救急搬送された
終末期患者の治療に関する「提言」を独自に作った。


一定程度治療を続けても、意識の回復や自発呼吸が望め
ない場合、本人や家族の意思を確認したうえで、延命措置
を中止するといった内容だ。  


ただ、「患者の意思の尊重は、今後ますます重要になる。
どの状態で治療を中止するかは、医師の間でも統一されて
おらず、『提言』の現場での活用や議論はこれからだ」
と打ち明ける。  


家族と医師。それぞれが迷い、模索している。・…










相手も同じ母子家庭の男性だけど、 お母さんを大事に
して頑張るお兄ちゃん。・・・


私が大学生でアルバイトをしていた飲食店は個人営業の
欧州系専門店だったが、ランチは小さい子供に300円
で食事とドリンクバーが付いていた。


ある平日の午後、ランチ客も途絶えた頃に
若い母親に連れられた4才の女の子が入ってきた。


母親は金髪もまだらになり、服装や持ち物も質素で
疲れた表情をしてた。
女の子も髪が伸び薄汚れたワンピースだったが、
とても陽気な子だった。


二人を案内すると母親は「子供用ランチ一つ」だけ注文した。
私は厨房に注文を伝え子供用ドリンクバーのコップを
持って行くと母に教わり女の子はドリンクバーでオレンジ
ジュースを入れ自席に戻り、母親に色々話しかけてた。


母親は疲れた顔だがニコニコと女の子と話をしてた。
その時女の子が「これっ!あまい!」とか大きな声で言うと
母親に「おいしいよママ!いいにおいがするよ」と
上気した顔で言って、一口飲んで母親に「ほら、ママ!」
と飲ませようとしてた。


私は横のテーブルを片付けに行き見ないようにすると
後ろで女の子の嬉しそうな声が聞こえ、


「おかわりしていいの?もっと飲んでもいいのっ!」
と言い、そのあと何度かドリンクバーと自席を行き来してた。


その内女の子のランチが出来、私が席に持って行くと、
女の子はキラキラした目で「ママ、ハンバーグだ!
〇ちゃんハンバーグ大好きだよっ!」と嬉しそうに
弾む声で言うと、ニコニコしながら母親と見つめ合ってた。


しばらくして母親が「〇ちゃん、お食べ」と言ったら
〇ちゃんは「ママのがまだだよ?」と返事したら母親が
「ママはお腹いっぱいだから」


と返事したら、〇ちゃんは下を向いて泣き出した。
私はどうしたものか・と思ってた。


そのうち〇ちゃんは「ママ、昨日も食べて無かったよ?」
と泣きながら言い、母親も下を向いて動かなくなった。


すると厨房から店長が昼のランチセットを持って親子の
席に行き「ごめんなさいね~おじちゃん、ママのを
忘れてたよw」と言いながら母親の前に置いた。


母親は「すいませんが私は支払えません」と言うと
店長はうちの新規会員カード記入用紙を持ってきて


「お母さん、これ書いて」と告げ、母親が記入すると
うちの食事券2000円分を差し出し


「ありがとうございます!うちの新規会員様への
プレゼントです!」とか言って母親に渡したら、
若い母親は泣きだして「すいません」と小さい声で答えた。


そして店長は〇ちゃんの方へ向いていつもの怖い顔で
にっこり笑い「さあ、〇ちゃん、美味しく食べてね!」
というと厨房へ帰った。


〇ちゃんは大喜びで母親に「美味しいねっ!
ママも一緒のハンバーグだ!」とはしゃいで
賑やかにランチを食べていた。


私はが、厨房へ行くと シティハンターに出てくる海坊主
に似た店長が涙をぽろぽろ流しながら二人を見てた。


そして食事が終わった後、私が〇ちゃんの相手をしてる
うちに店長と母親は話をし、親子の境遇を聞いていたが、
途中から店長は泣き出し、私と店長の奥さんが助けに行った。


母親は孤児で就職先で恋仲になった男性と結婚したが
義母から壮絶ないびりを受け、施設出身者というだけで
生まれたばかりの〇ちゃん共々家を追い出された。


必死に働き生きてきたが 病魔に襲われ家賃も滞納し
強制退去となり、避難シェルターに行ったがそこでも色んな
問題があり行き詰まって・・・という。


店長も片親でお父さんと二人で一生懸命頑張ってきたが、
店長が19才の時に仕事場でお父さんが無理をし続けた結果
脳内出血で倒れ逝去された過去があり我慢できなく
なったとか。


店長の奥さんも人生で苦労されたかたで方で、その日の
うちに〇ちゃんとお母さんはお店の倉庫で暮らすことになり、
お母さんはお店と他で働き、〇ちゃんは保育園に行く
ようになった。


そして私と〇ちゃんのお母さんは友人になり、もう20余年。
店長はすっかりお爺ちゃんになり、ご夫婦共々お元気で、
〇ちゃんは二人の孫みたいになってる。


〇ちゃん、おめでとうございます。
二人が幸せな家庭を築いてほしいと願って止まない。
コロナ禍の中、頑張る若い二人に明るい未来を!







夏目漱石 (1867~1916年 作家)
夏目漱石は教師としてうまくいかず作家となった人です。


あせってはいけません。ただ、牛のように、ずうずうしく
進んでいくのがだいじです。


生い立ち


夏目漱石の顔は千円札にのっていたことがあるので、
見おぼえがあるのではないでしょうか。


夏目漱石というのはペンネームで、本名は夏目金之助
といいます。


東京の裕福な家にうまれましたが、5人目の子どもだった
ため、うまれてまもなく養子に出されてしまいました。


そのあと実家にもどれたのですが、またすぐに養子に
出されたので、小さいころは、実の両親のことを
おじいちゃん・おばあちゃんだと思っていたのです。


さびしい子ども時代でした


勉強はできたほうでしたから(とくに英語はよくできました)、
帝国大学(今の東京大学)の英文科に進み、そのあと
英語の教師になりました。


でも、このころから少しずつノイローゼという心の病気に
かかりはじめたのです。


英語を生徒にどう教えるかを研究するために、イギリスに
留学までさせてもらったのですが、イギリスでその病気が
ますますひどくなり、2年で日本に帰ってきてしまいました。 


帰国後はまた学校で教師をしました。けれど、
どうも授業はつまらなかったらしく、生徒からの人気も
なかったうえ、教え子が一人、自殺してしまうという
事件もあり、また心の病気が悪くなっていったのです。


ノイローゼの気晴らしに小説を書く


その病気を治すために、気晴らしに書いたのが、
『吾輩は猫である』という小説でした。


その小説がおもしろいと評判になり、小説を書きつづけて
いきたいと思うようになったのです。それが、37歳の
ときでした。


そのあとは小説に集中するために、教師をやめ、
朝日新聞に入社して、とにかく物語を書きつづけました。


それまでの経験を生かして、楽しい小説だけではなく、
人間の心の中の悩みや苦しみ、いったい何が正しくて、
何が正しくないのかなどをとりあげた小説もたくさん書きました。


その中からの名言です。


「のんきと見える人々も、心の底を叩いて見ると、
どこか悲しい音がする」


「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
『草枕』の冒頭の一節


「鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはず
がありませんよ。平生はみんな善人なんです。
少なくともみんな普通の人間なんです。


それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから
恐ろしいのです。だから油断できないんです。」
名作『こころ』






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