妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象









歌:中澤卓也
作詞:田久保真見:作曲:田尾将実


こころに嘘を つくのはやめて
哀しいときは 泣いていいのに
涙など 捨てたのと
強い女の ふりをする


あなたが愛を 思い出すまで
抱きしめていたい








女の子は初潮がみられ、男の子では精通がみられる
ようになることで第二次性徴が始まります。


そこから、身長の伸びが停止するまでが子どもの思春期
に当たります。この時期には性ホルモンの影響を受ける
ようになり、性的な活動性が備わってきます。


心も体も大きく成長すると同時に、それ以前の児童期の
ようには親と共有できない興味や悩みも増えていくのです。


成績優秀だったのに、「もう勉強はやりたくない」


文科省によると、小中学校の不登校
(年間の欠席日数30日以上)児童生徒数は平成28年度で、
1000人当たり13.5人(前年度12.6人)。


これは同省が調査を開始した10年度以降最多です。


都内の小学生A君に大きな変化が起こったのは、6年生への
進級を目前に控えた春休みのことでした。


成績優秀で、日常生活にも問題は見当たらなかったのに、
生活のリズムが乱れ、不登校になってしまうまでは、
あっという間でした。


きっかけは春休みに通っていた塾で、授業態度について
男性講師から叱責されたこと。


周囲から見ると些細ささいなことでも、A君にとっては大きな
ショックだったようで、翌日から塾を休むようになり、
模擬試験の成績は大きく下がりました。


それからは「もう勉強はやりたくない。どうせやってもできない
のだから」と自宅でゲームに熱中するようになり、昼と夜が
逆転する生活になってしまいました。


その上、ゲームが思い通りにいかない時には母親に
八つ当たりし、蹴ったり、叩たたいたりと暴力的な行動を
起こすようにもなりました。


4月になり、6年生へと進級してから、最初の1週間は通学
しましたが、それも母親が毎朝A君を起こして、駅まで車で
送っていたからです。


そのうち、母親がいくら起こしても布団から出てこなくなり、
「担任の先生が怖いから行きたくない」と、とうとう不登校が
始まりました。


そのまま5月になっても学校に行かない生活が続いたため、
母親がクリニックに相談に来たのです。


不登校は1940年代後半にアメリカで、続いて50年代には
日本でも報告され,80年代には社会問題となり始めた。


文科省の定義では、不登校は「何らかの心理的、情緒的、
身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しない、
あるいはしたくともできない状況にあるために年間30日以上
欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を
除いたもの」。


教師や友人との関係、転校やクラス替えに伴う不適応、
学業の不振、受験のストレス、それに容姿や性格といった
自分自身に対する劣等感などさまざまな問題が背景にあり、


それに伴って最終的には同性の仲間関係から脱落することで
不登校に陥る場合が多い。


両親は、お互いに「相手が不登校の原因」と


A君のケースでは、塾や学校の先生に対する恐怖感が
不登校の引き金になったように見えます。


ところが、母親は本当の原因はまったく別のところにあると
考えていました。「Aの不登校の原因は父親だ」と
切り出したのです。


父親は、A君が幼稚園の年少の時から他県に単身赴任を
しています。家族一緒の転居を希望した父親に対し、A君が
私立の幼稚園に合格したことを理由に母親が反対し、
家族別々の生活になったのです。


母親はこう続けます。「夫は、子育てを全部私に任せっきりで、
Aの教育について相談しても答えてくれない。


月に1~2回しか自宅に戻らないし、家にいるときもAと話す
ことはほとんどありません」


母親は不登校の原因を、A君と父親との希薄な関係性にある
と話しました。どのような夫婦でも父親と母親では、育てに
対する考え方、子どもへの接し方は多少なりとも異なります。


そこで父親の話も聞くために、両親そろっての来院を母親に
提案したところ、翌週末、赴任先から戻った父親を連れて
クリニックにやってきました。


なお、A君本人は、「家から出たくない」と訴えており、
診察に来ませんでした。


「A君の不登校について、どう考えているのですか?」


質問に対して、父親は重い口を開きました。
母親とは正反対で、A君の不登校の原因は母親の側に
あると考えていました。


「学校の宿題や持ち物の管理、朝の着替えの準備など、
息子が自分でやるべきことまで、母親が世話を焼いている」
「夜は息子が寂しがるからと、夫婦の寝室で一緒に寝ている」
「肩や背中のマッサージまでしてあげている」などと
話し始めたのです。


A君の不登校の原因は、両親がそれぞれ相手の責任だと
考えていたのです。


子どもの不登校は、学校生活の問題に加え、親子関係、
それに両親の不和など家庭内にもきっかけが存在します。


成績優秀で、生活態度にも大きな問題のなかったA君が、
再び発達方向に前進を開始し、学校生活に戻れるように
するために、両親に「親ガイダンス」を提案しました。


author:関谷秀子 (精神科医) (つづく)










限界集落 最後の1人も施設へ


高齢化率日本一の群馬県 南牧なんもく 村の暮らしを支え
てきた住民の助け合い、共助の力。しかし、高齢者すら
減り始め、共助の維持が難しくなりつつある。


「ここに来ると、気持ちが暴れらぁね。でも、そんなにセンチ
メンタルになっててもしょうがないからね」


細くくねった急な上り坂を進んだ先、山々に囲まれた南牧村
の 大入道おおにゅうどう 集落。


昨年12月まで1人で暮らしていた自宅の様子を見に来た
小須田福子さん(75)はつぶやいた。


かつて100人ほどが暮らしていたこの集落に今、住んで
いるのは小須田さんが飼っていた「ネコちゃん」だけ。


小須田さんが暮らす村内の高齢者施設では猫が
飼えないため、こうして月3回ほど、村外に住む子どもたち
の車に乗せてもらい、空き家になった自宅を訪ねている。


ネコちゃんの餌やりに、そして、季節ごとにうつろう
自宅からの懐かしい山々の景色を眺めに。


  ◇  ◇  ◇


集落に最後まで残ったのは、小須田さんら3軒の5人。
小須田さんが最年少だった。


みんな畑仕事をしたり、おかずのお裾分けをしたり。
唯一、車が運転でき、妻と2人で暮らしていた林 良寿郎
りょうじゅろう さん(81)が「万年区長」を務めた。


道路に落ちてくる石や枯れ枝を拾うのも、暮らし続ける
ための大事な仕事だった。


しかし、住民が年をとるにつれ、支え合う暮らしは終わり
を迎えた。


最初に集落を出たのは集落最高齢の佐藤勇さん(86)
とセツ子さん(83)夫婦だった。


佐藤さん宅は、村の生活を楽しもうと旅行者が繰り返し訪れ、
夫婦がユーモアを持って出迎えていた。


車で40分ほど離れた同県富岡市に住む長男、隆平さん
(56)は、「10年くらい前から村を出て一緒に暮らそうと
誘っていたけれど、


うちに来れば周りに知り合いもいないから」と、村での
暮らしを見守ってきた。


けれど2年前、病気がちだった勇さんに加え、セツ子さんも
めまいを感じるように。


「村にいたい」という2人を説得し、隆平さんの自宅に移った。
勇さんは昨年、市内の特別養護老人ホームに入居。


県内の介護施設で働いていた隆平さんはそのホーム
に転職し、勇さんに寄り添った。


先月11日、勇さんはホームで息を引き取った。
亡くなる1週間前、何度も「家に行きたい」と言っていた
勇さんを隆平さんが車に乗せ、1日だけ、大入道の自宅
に戻った。


久しぶりに良い笑顔を見た。


それでも、隆平さんは2人を村から連れ出した決断を
後悔していない。「本人がいくら望んでも、やはり最期
までは難しかった」と思っている。


◇  ◇  ◇  ◇


「お茶飲みに行けるようなお隣がいなけりゃ、何かあった
時に困るもの」


小須田さんが集落を出たのは、「万年区長」として集落を
支えた林さん夫婦が、良寿郎さんの病気を機に村外の
高齢者施設に移ったからだ。


小須田さんも昨夏、おなかの病気で一時、入院。
集落に残された最後の1軒になった小須田さんを
「雪が降ったら誰も駆けつけられない」と、村外で暮らす
子どもたちは心配した。


「私は村の施設にちょうど空きが出たから、ネコちゃんにも
会いに来られる。今の暮らしに感謝しなけりゃね」。
小須田さんは自分に言い聞かせるように、そう話した。


全国174集落が消滅 5年間で


国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2045年に
南牧村の人口は、15年から77%減の455人に落ち込み、
うち6割以上を75歳以上が占める。


集落を維持できなくなるケースが増える可能性がある。
村も自助、共助力を維持しようとしている。


今秋、東京都健康長寿医療センターの医師らの協力を得て、
75歳以上の全住民を対象に、運動能力や認知機能を測る
検診を始める。


介護が必要になるリスクが高い人に、介護予防のメニュー
を提供する方針だ。


「同じ集落でも顔を合わせる機会が減っている」という
声を受け、2年前から「集落支援事業」を始めた。
花見などの行事にお金を出すというものだ。


高齢で車の運転をやめる住民が増えると見据え、
群馬大と自動運転の実証実験を行うことも検討している。


「将来的に、各集落に1台ずつ置いて住民が共有で
使える形にしたい」(長谷川 最定さいじょう 村長)という。


子育て世帯の移住も促している。


国の15年度の調査では、65歳以上が半数以上を占める
「限界集落」は1万5568あり、5年間で174集落が消滅した。


いずれ消滅する可能性があるとされる集落は3044に上る。
都市部より一足早く人口減少に直面する全国の過疎地
にとって、自助、共助の力をどう守るかは共通の課題だ。







「あれから何年たったかな?」


口数の少ない主人が、時折思い出したようにつぶやく
ことがある。主人は、今、小さな店を営んでいる。
父親の後を継いで。


いや、昔のドラマにあったように、「チチキトク、スグカエレ」
の電報で呼び戻されてしまったのだ。


家業を継ぐのを嫌い、彼は東京で会社員として勤めて
いたが、急きょ帰郷してみると、父親は元気であった。


彼を待っていたのは、父親が手を広げ過ぎてしまい、
経営の悪化した会社の立て直し、いえ後始末であった。


この日を境に彼の人生ドラマが始まったのかも……。


当時26歳。二年後、不安は的中。
会社は不渡りを出して倒産。


翌日の新聞でも報道され、全店シャッターを降ろしている
会社や自宅に債権者が怒涛のように押しかけて、
「金返せ!」「金がないなら品物を出せ!!」と、
怒鳴りまくるのであった。


それまでは、「何とか取引お願いします」と、
何度も頭を下げに来た人たちであったのに。


親には親類宅に身を寄せてもらい、主人は、深夜になる
のを待って、隠れるように会社の後始末をした。


夜が明ける頃には、車で代金の集金に走りまわる、
そんな毎日の連続。


体はくたくたに疲れていても、眠るとか、体を横にして
休むなど、できる状態ではなかった。


いや、会社がつぶれたことで迷惑をかけた人がたくさん
いるのだから、死に物狂いで現金を回収して、少しでも
返すことが今、自分がしなければならないことだと、


死を覚悟でハンドルを握って走り続けていたと、後年、
話してくれたことがあった。


集金に行った先では、「倒産したのだからお金は払う
必要はない。帰れ」と言われるのである。


取引で品物を納品しているのに……。


それも一軒、二軒ではなく、行く先々で。
「払ってもらうまで、ここで待たせてもらいます」と、
回収先の入口に座り込んで懇願する彼に、


「金はない」と、素知らぬふりをする人たち。
ある所では、半日以上座り込んでいたら、
「そんなに金が欲しけりゃくれてやる」と、
顔面にお金を叩きつけられたことも。


男だもの、人間だもの、「そんなお金なんかいらない」
と、言い放って帰ってきたかっただろうに、


彼は、散乱したお札を一枚一枚拾い集めてから、
「ありがとうございました」と、礼を述べて次の集金
へ向かったそうです。


”泣いたら負け”の一心で。


商売で、注文の物品を納入したのだから、
代金を請求するのは当然のこと。


それなのに、泥棒のごとき扱いをされても我慢して、
耐え忍んで”お金を返してもらう”……。


ある日、青森の取引先へ行った時、
”今日もケンカ腰で交渉か”と、
気を重くして店先に入った彼に、そこのご主人は、
予想外の言葉を投げかけてくれた


そこのご主人は、
「いつもお世話になってありがとうございます。
お父さんは元気にしておられますか?」
と、穏やかに、心配げに声をかけてくれた。


全身鎧(よろい)をつけて、戦場で戦いを挑むような
覚悟の彼は、何カ月ぶりかで”やっと人に会えた”
と思ったという。


会社の事情も既に知っていて、ご主人は黙って代金
を全額払ってくれ、さらに、「こんなに遠くまで
大変でしたね。


今日はもう遅いから、青森に泊まっていきなさい。
宿屋も用意させてもらいましたから」


「ありがとうございます。
でも、次のところへ急いで行かないと」


「だまされたと思って、今日は私の言うことを聞いて
くれませんか。


今、行っても、明日の朝になってから出発しても、
そんなに違いはないのじゃないですか。
焦る気持ちは、分かります。でも、こんな時にこそ
体を休めなさい」


何回かの押し問答の末、ご主人の厚意に甘え、
用意してくれた温泉宿に世話になった。


宿屋の風呂場の鏡に映った自分の顔、全てを敵に
している人のような形相の自分に、彼は驚いた。


こんな顔をしている自分では、万一お金は返してくれても、
次回の取引はしてもらえない


”商売は物品の売買ではない””商売は人についてくるのだ”
と、そのご主人によって気づかされたのだと思う。


その後、集金もほとんど回収し、会社も株式会社から
有限会社になり、父親ではなく、主人が代表となり、
細々ながら昔の名前で、店をやらせてもらっている。


会社が倒産する頃に出会った私たち。


人一倍心配性の私が、「結婚どころでは……」と躊躇する
彼に、「結婚しよう!」と逆プロポーズしてから十数年。


お金も大事。あっても邪魔になるものではない。
でも、お金より大事なものが何なのかを知っている、
この家族の一員になれた喜びがある。


どん底から這い上がった主人の言うことに間違いはないと、
確信して暮らせる安心感がある。


それだけで私はいいのである。
日々のささいなことにも感謝の言葉を自然体で言って
くれる主人に、幸せをいつも感じている。


例えば、今、主人はお風呂に入っている。


風呂上りの主人のために、冷たい麦茶を用意しておく。
「麦茶、どうもありがとう」すべてこんな調子。


でも、私の強力なライバルもいる。愛犬レオである。
主人は、毎朝、毎晩、「レオ、長生きするんだぞ、
レオはパパの命だからな」と、声かけをしている。


妻の私は……?


いつの日か、私が命だと言ってもらえるように
がんばらなくては。・…



知ってやる罪 重い罪 知らずにやる罪 深い罪 
いずれの罪も 縁次第





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