妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象













歌:研ナオコ
作詞:作曲:中島みゆき


泣きながら電話をかければ
バカな奴だとなだめてくれる
眠りたくない気分の夜は
物語をきかせてくれる
とてもわがままな私に
とてもあの人はやさしい
たぶん周りのだれよりも
とてもあの人はやさしい


恋人がいます 恋人がいます 
心の頁につづりたい
恋人がいます 恋人がいます 
けれどつづれないわけがある








「若い時の写真は、昨日全部捨てた」。


今から20年前、突然母の口から飛び出した言葉は、
私を困惑させた。


たとえ美人ではなくとも、溌剌として輝きを放つ姿が写って
いるから、昔の写真はなかなか捨てられないものだろう。


母の発言に「どうして?」と私は疑問を抱いたが、理由は
訊かなかった。


常日頃から母に愛されていないと感じていた私の嗅覚が、
その答えが芳しいものではない、と察知していたのだろう。


写真を捨てた理由を自分なりに理解したのは、母亡き後、
実家で母の寝室の押入れを整理している時だった。


天袋の布団の下から、小ぶりの段ボール箱が出てきた。
弟が小学生の時の賞状やら母が保険の外交員をして
いた時のメモやら、


まさにその箱は過去への入り口。


文字通りタイムスリップしたような感覚に陥った。
最後に辿りついたのは、箱の底に隠すようにしてあった
手紙の束。


それは、私もよく知る母の親友・明子さんに宛てたもので、
結婚直前から5、6年ほど文通は続いていたようだ。


おそらくその後は電話をひいたため、やりとりは電話での
会話になったのだろう。


きちんと消印も押されているのに、なぜ差出人である母の
手元にあるのか不思議に思ったが、とにかく読み進めて
いくことにした。


最初の手紙は、父との結婚を間近にしてウキウキした
心持ちが伝わってくるものだった。


だが便箋の2枚目を読み、私にとって「新事実」が発覚する。
父と母との結婚が、今でいう「できちゃった結婚」であること
がわかったのだ。


そしてさらに驚いたのは、でき婚のきっかけとなったその
子どもは、第一子の私ではないということ。…


手紙には「春に出産予定」とあるが、私の誕生月は10月
なのである。


その時、遠い昔の言葉が脳裏をかすめた。たしか母は、
「一度男の子を流産したことがある」と言っていたのでは
なかったか。?


だとすると、誕生を心待ちにしていたのは、私ではなく、
この世に生まれることのなかった別の命だということになる……。


すべての手紙を読み終わり、私はひどく落胆した。


なぜなら、その後の手紙には、私が生まれたことへの
嬉しさが綴られていないどころか、育児に関する記述が
何一つ見あたらなかったからだ。


一般的な昭和一桁生まれの母親といえば、子どもが生活の
中心ではないか。


自慢が嫌いな母ではあったが、気を許した友人への手紙で、
わが子の成長の一片でも記すのが普通ではないだろうか?


そのかわりに書かれていたのは、早く東京の実家に戻りたい
ということ、夫である私の父との喧嘩の経緯や不平不満、
そして煙草を吸う習慣ができてしまったこと、等々だった。


結婚で静岡へ来て以来、相談相手もいない寂しさからか、
とにかく生活や気持ちが満たされていない事実だけが
流麗な文字で綿々と綴られている。


今考えると、わが家には一家団欒というものがなかった。


父が単身赴任していたせいもあるが、お盆には母と私たち
姉弟だけで東京に帰省したり、母の友人宅を訪ねたり
するのが恒例だった。


父が単身赴任していたからこそ、「お盆は一家団欒」と
いうのが通常の発想ではないか。常に不在だった父親
との思い出は、ほぼないに等しい。


母が「女の顔」を見せていた唯一の想い人は……


もう一つショックだったのは、父親以外の男性のことが
書かれていたことである。


「聡さんの夢を見ました。私のいない間に聡さんがほかの
女の人と仲よくなっていて妬いてしまったわ。そんなこと
ありっこないのにね」


「聡さんは私の結婚を知った時、私が幸せならそれで
いいって言ったのですって」など、さっぱりした性格の母が、
女性らしく語っているのに驚いた。


以前に明子さんから聞かされたことを思い出す。


会社員時代に母にはお付き合いをしていた同僚男性が
いたものの、家柄が釣り合わなかった。


結婚は叶わないと悟った母は、彼に黙って会社を辞めて
しまった、と。


その後、明子さんに電話をしてわかったのだが、
手紙の束を母に返したのは明子さんだったそうだ。


さらに当時の話を聞いたところ、いろいろと話してくれた。
母が会社を辞めた後、相手の聡さんはずいぶんと落ち
込んで気の毒だったこと。2人とも正義感が強くて、
お似合いだったこと……。


その後、聡さんは親の意向に沿う結婚をしたが、1年も
しないうちに離婚したというから、彼も母と結ばれた
かったのかもしれない。


明子さんと話してみて確信したのは、母が生涯で心から
愛した男性は、聡さんだけだったのではないか、
ということだ。


明子さんが「背の高い人だった」と教えてくれたので、
手紙の中にあったセピア色の写真を見てみる。


社員旅行だろうか、ドテラのようなものをはおった男女10人
が写っていた。その中の母は、私には見せたことのない
眩しい笑顔を浮かべている。


母の想い人らしき聡さんは、凜々しく素敵な方だった。


父とは似ても似つかない、育ちの良さ、溢れるような知性
が写真を通して漂ってくる。


私は40を過ぎた頃から、自分は母に愛されていなかった
という思いが強くなり、何度となくぶつかってきた。


だが母は、「虐待したわけでもないのに、どうして文句を
言われないといけないのかわからない」と言って、
私をつっぱねた。


亡くなってなお、母は私に追い打ちをかけるのか……。


20年前、母が青春時代の写真を捨てたのは、諦観と
やけっぱちからの行為だったのだろう。


残された手紙の束と1枚の写真が「自分が本当に生きた
かったのは、別の人生だった」と明かし、…


静かに私を打ちのめしたのだった。・…











家には、ひまわりが待っている。
オラの帰りを、待っている。
……それが、途方もなく足を重くしていた。


「……ただいま……」
家に帰りついてしまったオラは、静かに呟く。
すると家の奥から、車椅子の音が聞こえてきた。


そして、いつもと変わらない様子のひまわりが、迎えに
やって来た。
「お兄ちゃん、おかえり」
「あ、ああ……ただいま……」


「今日ね、ご飯作ってみたんだ。車椅子で作るのって
大変だったよ」
「そ、そうか……ごめん、先にお風呂入るから……」
「……?う、うん……」


不思議そうな顔をする彼女を尻目に、オラは風呂に入った。
お湯に浸かりながら、ぼんやりと風間くんの言葉を思い出す。


目の前に立ち込める湯気と同じだった。
浮かんでは消え、消えては浮かび……


壊れたレコードのように、ただ彼の言葉を繰り返していた。


「……それでね、そのテレビがね……」
ひまわりは、いつもの通り明るくオラに話しかける。
でも、耳に声が届かない。聞きたいのに聞けない。
余裕がないのかもしれない。


「……お兄ちゃん?お兄ちゃん?」
「……え?」
ふと、ひまわりがオラを呼んでいることに気付いた。


「もう~。ちゃんと聞いてる?」
「あ、ああ……ごめん……」
するとひまわりは、神妙な顔でオラを見てきた。


「……お兄ちゃん、なんか変だよ?何かあった?」
「……」少しだけ、どうするか悩んだ。
でも、ここで黙ってても、何の意味もないだろう。


風間くんは決意を固めて、オラに言ったんだから…


「……今日、風間くんと会ってたんだ……」
「……え?」
「全部、聞いたよ……」
「……」


室内は、静寂に包まれる。
時計の針だけが、時を忘れないように、懸命に音を
鳴らしていた。


「……そっか……聞いたんだ……」
ひまわりは、諦めたように呟く。
「……いつからなんだ?」
「……風間くんが、海外に行く前からだよ」
「ずっと連絡を取ってたのか?」
「……うん」


「そうか……オラに黙って、か……」
「それは!……ごめん」
なぜだろうか。言葉が、止まらなかった。


「……結局、オラは信用されてなかったんだな。
風間くんは幼稚園からの友達、ひまわりは妹…
…なのに……」


「そ、そんなつもりじゃ……!」
「もういいよ。……今日は、寝る……」
ひまわりの言葉を遮り、オラは二階に上がる。


(……最低だな、オラは……)


二階に上がりながら、今の自分に嫌気が差していた。
自分は、こんなにも醜い人間だったみたいだ。
八つ当たりを、ひまわりにもしてしまった……


それでも、今は眠りたかった。
そしてオラは、夢に逃げた。


「……しんのすけさん、元気がありませんね……」
「え?」
「顔が、憔悴しきってますよ?」
「……うん」


仕事中、あいちゃんにコーヒーを出した時、ふいに彼女
が言ってきた。
「……何か、事情がおありなんですね……」
彼女の場合、黙るだけ無駄だろう。すぐに調べられる。


オラは、ことの次第を話した。心の内にある、思いも含めて。
「…なるほど。しんのすけさんも、辛かったでしょ」
「いや、オラがただ、最低なだけだよ……」
「そんなこと、ありません」


あいちゃんは、椅子を回転させ、オラの方を向く。
「人の気持ちというのは、そう簡単に割り切れるものでは
ありません。時には、何かを恨みたくなるときもあるでしょう。


それは、いくら心が強くても、誰にでも起こり得ることなんです。
ですから、今のしんのすけさんを、私は責めたりしませんし、
軽蔑したりもしません。


その辛さは、あなたにしか分からないことなんです」
「……」
「……ですが、風間さんも、ひまわりさんも、しんのすけさん
にとって、かけがえのない人ではありませんか?


それは旧来からの友であり、大切な肉親であり……どちらも、
しんのすけさんという人にとって、大切な人なんじゃ
ないんですか?」
「……うん」


「でしたら、忘れないで下さいね。
二人もまた、あなたを大切に思ってることを……」
「……」


「……私が言えるのは、それだけです」
そしてあいちゃんは、仕事に戻った。


彼女の言葉は、とても響いていた。
オラの心に、刻み込まれていた……







悲しみの底でみつけた真実の言葉
”自分の最善を尽くしなさい”
子どもは無限の可能性を持って
伸びよう伸びようとしている





小林さんが家庭における子どもの 教育がいかに大切か
を身にしみて感じたのは昭和30年6月、
ただ一人の娘に突然、自殺されたときからです。


小林さんは長野で中学校の校長をしていました。
人さまの大切な子どもをあずかって教育しなければ
ならないという立場の者が、自分の娘の教育さえ満足に
できなかったのはなぜか。


19年間の娘に対する教育のどこが間違っていたのか。 


平和で楽しかったはずの家庭に突然おそった悲しみ、
苦しみが 厳しく小林さんを反省させました。


「私は家庭における子どもの育て方に大変な間違い
を犯しておりました」と小林さんはいいます。


自身が勝気で負けず嫌いだったから、娘に対しても、
小さい時から「えらくなれ」といって育ててきた。


大きくなると、さらにその上に「人よりえらくなれ」といった。


「娘は小学校、中学校、高等学校までは、自分の
思い通りに 伸びていったが、東京の大学に
行ってからは、そうはいきませんでした。


あらゆる努力をしても、自分よりすぐれているものが
幾多あると知ったとき、もはやわが人生はこれまでと、
生きる望みを失い、新宿発小田原行の急行電車に
投身自殺をしてしまったのです」


遺された手紙には「両親の期待にそうことが
できなくなりました。


人生を逃避することは卑怯ですが、いまの私には
これよりほかに道はありません」と書かれ、さらに、


「お母さん、ほんとうにお世話さまでした。


いま私はお母さんに一目会いたい。
お母さんの胸に飛びつきたい。
お母さん、さようなら」と書いてありました。


「それを読んだ妻は気も狂わんばかりに
子どもの名前を呼び続け、たとえ一時間でもよい、
この手で抱いてやりたかったと泣きわめくのでした」


・  ・  ・  ・  ・  ・


小林さんはいいます。考えてみれば、子どもは順調に
成長してゆけば、誰でも「えらくなりたい」と思うもの。


這えば立ちたくなり、立てば歩きたくなり、歩けば
走り、飛びたくなる。これが子どもの自然の姿です。


子どもは無限の可能性を持って伸びよう伸びよう
としています。


「それなのに自分は愚かにも娘に、『人よりえらくなれ』
といい続けてきた。


“自分の最善をつくしなさい”だけで、娘は十分伸びる
ことができたはずです。


私は娘の死によって、家庭教育の重要性を痛感
いたしました」 


以後の人生を小林さんは家庭教育の探求と普及に
捧げる人生を生きられ、平成元年に亡くなられ ました。


自分の最善をつくしなさい。


小林さんが一人娘の自殺という悲しみのどん底でみつけた
真実の言葉。その言葉こそ、人を育てる要諦の言葉です。


坂村真民さんの詩があります。


「小さい花でいいのだ 人にほめられるような
大きな美しい花ではなく 


だれからも足をとめて 見られなくてもいい
本当の自分自身の花を 咲かせたらいいのだ


それを神さま仏さまに 見てもらえればいいのだ」







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