妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・THE ライフ











平成22年度『文部科学白書』に、東日本大震災で被災した
宮城県気仙沼市立 階上(はしかみ)中学校の卒業式で
梶原雄太君が読んだ「答辞」が全文掲載されたと、
ニュースで報じられていました。


一人の中学生の記した文章が「白書」に全文掲載される
ということは極めて異例のことだそうです。


階上中学の卒業式は3月12日、つまり震災の翌日に予定
されていましたが、10日遅れて3月22日、同校の体育館
で行われました。


卒業生の内一人は死亡、二人は行方不明という悲しい
状況のなかでの卒業式でした。


卒業式の模様は、溢れそうになる涙を懸命にこらえながら、
未来へ向かう決意を誓う梶原君の姿に多くの人々は
涙しました。



「答 辞」
今日は未曾有の大震災の傷も癒えないさなか私たち
のために卒業式を挙行して頂き有難うございます。
ちょうど10日前の3月12日、春を思わせる暖かな日でした。
私たちは、そのキラキラ光る日差しの中を希望に胸を
膨らませ、通いなれたこの学舎を57名揃って巣立つ
はずでした。


前日の11日一足早く渡された思い出の詰まったアルバム
を開き、10数時間後の卒業式に思いをはせた友もいた
ことでしょう。


「東日本大震災」と名付けられる天変地異が起こるとも
知らず……階上(はしかみ)中学校といえば「防災教育」
といわれ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた
私たちでした。


しかし自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、
私たちから大切な物を容赦なく奪っていきました。


天が与えた試練というにはむご過ぎるものでした。
辛くて、悔しくてたまりません。時計の針は14時46分を
指したままです。


でも時は確実に流れています。
生かされた者として顔を上げ常に思いやりの心を持ち
強く正しくたくましく生きて行かなければなりません。


命の重さを知るには大き過ぎる代償でした。
しかし苦境にあっても天を恨まず運命に耐え助け合って
生きていくことがこれからの私たちの使命です。


私たちは今それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。
どこにいても 何をしていようともこの地で仲間と共有した
時を忘れず宝物として生きていきます。


後輩の皆さん、階上(はしかみ)中学校で過ごす
「あたりまえ」に思える日々や友達が如何に貴重なものか
を考えいとおしんで過ごしてください。


先生方、親身のご指導有難うございました。
先生方が如何に私たちを思って下さっていたか、
今になって良く分かります。


地域の皆さん、これまで様々なご支援を頂き有難う
ございました。これからも宜しくお願いいたします。


お父さんお母さん家族の皆さんこれから私たちが歩んで
いく姿を見守っていてください。必ず良き社会人になります。
私はこの階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。


最後に本当に 本当に 有難うございました。
平成二十三年 三月二十二日
第六十四回卒業生代表 梶原 裕太


まことに心打たれる答辞です。
大切なものを容赦なく奪われたその悔しさや悲しさは
計り知れないものがあるでしょう。


しかしそれでもなお彼は「天を恨まず、運命に耐え、
助け合って生きていく」というのです。


「いかなる苦難に遭おうとも、決して恐れず、ひるまず、
他のせいにせず、そのすべてを受け入れ、そうして
自らに課せられた使命(助け合って生きていくこと)を
果たしていく」と言っているのです。


とても15歳の少年とは思えない強靭で高潔な精神です。
さらに彼はこうも言っています。


あたりまえに思える日々や友達が如に貴重なものかを考え、
いとおしんで過ごしてください…


これは、「あたりまえ」が「あたりまえ」でいてくれることを喜び、
感謝して生きて下さいということですが、これなどは仏法を
極めた人の語る人生観です。


梶原君は、人生最大の試練をどのように受け止め、
どのように乗り越えていけばいいのか、その確かな道標
(みちしるべ)を私たちに示してくれたのです。


心が折れそうになったり、周りのせいにしたくなった時は、
震災に立ち向かった梶原雄太君のことを思い出したい
と思います。


卒業生代表の梶原さんは中学卒業後高専へと進み、
現在は防災関連の企業で働いているとのことです。 ・・









弟のふとした行動に、ものすごくびっくりすることがある。
「あんた、ほんまはわかってたんか」って。


このびっくりは、どう説明したらいいだろう。 たとえるなら、
子どもが大きくなってから、お腹のなかにいた時にお母さん
が語りかけてくれたことを話しだしたような。


そのむかし助けたツルが、恩を覚えていてはた織りに
きたような。


弟には悪いが、このびっくりには、とても失礼な意味がある。
「まさかそんなことはないだろう」と低く見つもっていたことと、
セットなのだ。それも、かなり長い間。


だから弟は、びっくりしているわたしを見ると「わかってる
に決まっとるがな、ひどい姉め」って、あきれた顔をする。


ひどい姉にも、言い訳をさせてほしい。


ダウン症の弟は、昔から、みんなが上手にできる大抵の
ことは、みんなより下手だった。 うまくしゃべれない、
はやく走れない、文字を覚えられない。


それでも弟が、まったく悔しそうでも、さみしそうでもなかった
のは、とにかく弟がいいやつだからだ。いいやつは、どこへ
行っても、好かれる。


そんなわけで、いいやつの弟は
「競争すること」「比べられること」「普通でいること」から、
かぎりなく遠ざかって生きていた。


競争や比較や普通にも悪くない面はある。
それはちょっとした成長も、順位や数字や評価になると、
見えやすくなることだ。


弟は、それがあんまり見えなかった。 見えたのは
「なんかいつのまにか、一人で学校に行けるようになったね」
「よくわかんないけど、静かに電車乗れるようになったね」
という、ざっくりで、ゆっくりで、おおらかな成長のみ。


ごめんだけど、たぶん、わたしはどこかずっと小さな子ども
を見るような視線を、弟に向けていた。


だから、急に成長を見せつけられると、わたしは腰を抜かす
ほどびっくりしてしまう。 甘いジュースやアイスばっかり飲んで
いたはずなのに、スターバックスコーヒーで、イングリッシュ
ブレックファーストティーを頼むようになっていたとき。
(そんなん飲めたんかい)


チェック柄のネルシャツには、ちゃんと無地のTシャツを
選んで着ていたとき。(おしゃれの基本がわかるんかい)
父が息をひきとった病院を車で通りがかると、
「パパ、あっち、元気かな」って言ったとき。
(死んだって覚えてたんかい) そしてつい最近は、
母のTwitterを見て、腰を抜かした。 ・・・・







しかも、好きなキャラクターに似せるオーダーまで……?
そんな大事件、なぜLINEで娘に伝えるより先に、Twitterで
全世界に発信しているのだ。


あわてて母に裏を取るため電話すると「前から一人で
行ってるから、知ってるんやと思ってた」とアッサリ言われた。


実家を離れるだけで、浦島太郎状態になるとは思わなかった。
なぜわたしがこんなにびっくりしているのか、みなさんにも
わかってもらうには、我が家の長い歴史から語らなければ
ならない。



弟は顔のまわりを触られることを、極端に嫌った。
「髪を切るから」と言っても、意味なんてわからず、
おびえて叫び、パニックになった。


「お前はなんだ、ウナギイヌか」 父が思わず口をすべらせる
くらい、弟はウネウネと身体をよじり、意地でも逃げようとした。
それを母が膝の上で、ゴリラのごとき腕力で捕らえる。


死闘の末、弟はつんつるてんのヘアーになり、グッタリ
するのだった。どうでもいいが、なぜウナギではなく、
ウナギイヌだったのか。父はどこにイヌ要素を見いだしたのか。
吠えるみたいに、叫ぶからかな。


しかし弟の身体が大きくなると、次第に母が抑えきれなくなった。
どうしたものかと母が困り果てながら、神戸の“こべっこランド”
という、ダウン症の子どもたちが療育で集まる施設を
おとずれたとき。


同じ建物に、当時はまだ斬新な子ども専用ヘアサロンが
あった。 ガラスの外から中をながめると、わんぱくそうな
小さい子どもが、スーパーカーを模したイスに座り、
楽しそうにアニメのDVDを観ながら、じっと髪の毛を
切られていた。


一瞬ためらった母は、ここならもしかして、と弟の手をひいて
飛び込む。 「あのう、この子、もう小学校中学年なんですけど、
切ってもらえますか?」


店員さんは、あきらかに他の子どもとは違う様子で
キョロキョロして落ち着かない弟をちらりと見て、言った。
「もちろんです、いらっしゃいませ!」


母いわく、その美容室の店員さんの施術は「魔法のよう
だった」そうだ。


まず、弟には真っ赤なスポーツカーの席が与えられた。
遊園地のゴーカートのようにハンドルまでついていて、
弟はたちまち喜んだ。


いまでも弟が、車を見るたび「それ、いくらですか?」と
運転手にたずねるくらい好きなのは、この影響だと
わたしは思っている。


そして、席に一台ずつ取り付けられた、テレビとビデオ
プレーヤー。アンパンマン、ドラえもん、と弟が食い入るよう
にみるアニメが次々に再生された。


シャンプーはめちゃくちゃ甘そうな、いちごの匂いがした。
リンスはホイップクリームの匂いがした。


そしてなにより。 店員さんは、弟を褒めちぎった。
「えらいねえ!」「かっこいいねえ!」「お兄さんだねえ!」
弟は褒められるのが大好きなのだ。


まんざらでもない顔をして、とにかく上機嫌であった。
ウナギイヌを確保していた母はなんだったのか。


わたしはこんな簡単なことで褒められる弟がうらやましく、
「わたしはもっとお姉さんですけど?お会計も一人で
できますけど?」と濃いめのアピールをした時期もあったが、
今はどうでもいい。


あまりにも弟が楽しそうだったので、その美容室には姉弟
でお世話になった。無事に髪を切り終えると、小さな缶の
オレンジジュースがもらえるのが嬉しかったのを覚えている。


そこで弟は、顔のまわりをいじられるのも、髪を切られるのも、
怖くないと学んだ。


5年くらいかかったけど。 中学生になってから、2年ほど、
弟の髪は予期せぬ暗黒期に突入する。


母が病気で入院したので、美容室に弟を連れていくのは、
祖母の役目になったのだ。


家から歩いていける、田舎の1000円カット専門店に。


仕方がない。祖母は運転免許をもっていないし、気持ちが
いい具合の大雑把だ。それに、1000円カット専門店が悪い
わけではない。安くて、速くて、技術もある。


問題は、弟の髪質が剛毛すぎて、昭和の大工もびっくりの
大角刈りになってしまったことだ。 角刈りではない。大角刈りだ。
前髪が額の前に突き出て、後頭部は東尋坊のごとく絶壁、
もみあげに至ってはきっちり直角であった。


しかしそこの1000円カット専門店は、細かいオーダーが
できないお店だった。たくさんのお客が控えているので、
マニュアルどおりにしっかり切る。つまり弟にとっては、
角刈り一択だ。


弟のあだ名がわたしのなかで「大将」になった。
母が元気に退院し、わたしは実家を離れ、暗黒期は終わり
を告げる。


弟は、母が通っている美容室におこぼれで連れていって
もらうなど、いわゆる「大人のオシャレ仲間入り期」がはじまる。


最終的に、この5年ほどは、駅前にある夫婦経営の小さな
美容室へ通っている。大角刈りも卒業し、弟の髪質を活かした
ソフトモヒカンスタイルになった。


「あの駅前の美容室、めっちゃ狭くない?
オカンの車いす、入られへんやん」 わたしが聞くと。


「それがな、わたしは車に乗ったまま、彼を送り届けるだけで
ええねん。美容師さんが外に出てきてくれて、オーダーとか
料金とかをわたしに教えてくれるから」 まさかの、美容室の
ドライブスルー化である。


いや、正確には弟を店へ放り込んでいるので、スルーして
いるのは母だけだが。融通がきくのは本当にありがたい。
それもこれも、弟がいいやつだからだ、とわたしは信じている。


いいやつでありたいものだ。 いまや弟は一人で5000円を
にぎりしめ、店に入り、髪型のオーダーを伝え、会計をして
帰ってくるのだというから、おどろきだ。 ・・・・・






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