妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象













働いて、働いて、気がつけば古稀……
昨年9月に古稀(70歳)の誕生日を迎えた。


「セブンティーンだよ!」と嘯いているが、身体は若くはない。
柔軟性が失われ、動きがにぶくなった。


同年代の友人たちからは、「つまずいて、足を骨折」
「ベッドから落ちて、右手を骨折」などのメールが来るように。


そんな年齢の私だけど、なんとかまだ骨の1本も折らず、
仕事を続けられている。


28歳で結婚したとたんに妊娠。生まれてすぐもう1人妊娠。
年子だった。周囲はあきれたが、私自身も悪夢を見ているよう。


20ヵ月連続、お腹に子どもがいるなんて!! 2人目を産むために、
1人目の子と同じ病院の分娩台でうなりながら待っていると、
やってきた助産師が私の顔を見て、「あなた、こないだ産んだ
ばかりじゃない!」と叫んだ。


しかし、女の子と男の子に恵まれたことは大きな喜び。
2年間は育児に夢中だった。


一方、小さな出版社の編集者だった夫は、ひとところに落ち
着くことができない男。なにか、自分はもっとすごい仕事が
できると思っていたのか、それともまったく仕事ができ
なかったのか。・・・・


ある日、泣きわめく長男を膝に抱え授乳しながら、1歳の長女
の口に離乳食の匙を運んでいる私に向かって、夫は言った。


「ぼく、今日仕事辞めてきた。もう耐えられない、あんな職場!」
これが始まりだった。それから何度転職を繰り返したことだろう。


この男は頼りにならない。仕事を見つけようと思い立ったが、
東京広しといえども、地方の高卒で2人の子持ちの30女を、
そうやすやすと雇ってくれる会社があるはずもない。


手に職をつけなければ。私は通信講座の「校正課程・通信教育」
を受講し始めた。1970年代後半のことであった。


子どもを寝かしつけた後、分厚いテキストを読んでは課題
を送って、通常は半年で終える内容を、13ヵ月かけてやっと
修了。そのテキストが最近本棚から出てきた。


裏表紙に子どもが描いたドラえもんの絵が。子どもを遊ばせ
ながら、いつも課題に追われていたのだ。


そして結婚5年目のこと、転職を繰り返す男は突然宣言した。
「ぼく、画家になる。仕事は辞めて、ずっと家に籠もって
絵を描く!」


もはや驚かなかった。まるで子どもが夢中でお絵描きを
するように、台所の床にかがみこんで350色のクレヨンで
絵を描き続ける夫。


クレヨンはやがて油絵となり、巨大なイーゼルが部屋にデンと
据えられ、テレピン油の臭いが充満するようになった。


しかし、美大も出ていない政治経済学部卒業の男である。
すぐ諦めるだろう。が、一生、この男はこんなことを続ける
に違いないという予感を抱かせるには十分であった。


1分1秒をがむしゃらに生き、今も現役バリバリ


2人の子どもを保育園へ預けて、私は某社校閲部に嘱託で
働きだした。自宅から会社がある銀座まで1時間半。


子育てとの両立は大変だったが、私より年下の先輩に、
校正のなんたるかを叩きこまれた。独りよがりで学んだ
校正の知識を、実際に使えるようにしてくれたのだ。


1年でその職場を辞し、フリーランスの校正者として一歩
踏み出した。幼い子どもと、働かない男を抱えながら……。


夫は、ひとりで家にいるのは寂しいからと、白い仔犬を
もらってきて飼い始めた。やがてそれにも飽きたのだろう、


「ぼく、やはり画家にはなれない、仕事を探してきます」
と言う。そして、仕事と同時に新しい女も見つけたらしい。
別居、そして離婚までそう時間はかからなかった。


私はこうなることを予期して、手に職をつけたのだろうか? 
そう思いたくはなかったが、結果的に正しい選択だった。


再婚して新しい男と子どもたちの間であたふたするのも
ごめんだ。自分が働きさえすればいい。そう決意したのは、
36歳の時だった。


それから校正者として、時間との闘いが始まる。
仕事をしながら、子どもを食べさせ、着させ、学ばせる日々。


校正の仕事は単純作業に見えるが、神経を張りつめ、
あるかないかわからない「間違い」を探し、正しい日本語を
指摘していく……


その作業に集中するための、静かな場所とたっぷりとした
時間を確保することが難しかった。


基本的に在宅で仕事をしていたが、学校の授業参観もあれば、
運動会もある。そして、子どもが病気になれば病院へ。
その合間を縫って仕事に根を詰める。


子どもはいつのまにか、「お手伝いして」と言うと、
「私は宿題があって1分1秒が大切なの!」と切り返す
ようになり、胸がつぶれた。


私がいつも仕事優先で、「お母さんは、1分1秒が大切なの!」
と、幼い子どもへ言い続けてきたからだろう。


そんな子どもたちも今年独立し、久々のひとり暮らしを
満喫している。セブンティの私にあとどのくらいの時間が
残されているのだろう。


ありがたくも、書籍・雑誌の校正、テレビのテロップのチェック
など、今も仕事は現役。先日は複数の仕事が重なって、
35時間働き続けた。


老眼鏡もかけることなく、校正の仕事を続けられていることに
感謝したい。 がむしゃらに働き続けて35年・・・・


ようやく今になって、よく頑張ったなあと思えるようになった。
「1分1秒」を懸命に生きてきたのだもの。ちょっとくらい
自分を労っても、神様も異存はないのではないだろうか。
・・・・








かつてアメリカのプロバスケットボールの世界でスーパー
スターだったマイケル・ジョーダンの話である。  


ナイキの営業担当者はこんなことを考えていた。
「あのマイケルがうちのシューズを履いてプレーをしたら
世界中の若者が真似したくなるはずだ」  


早速、マイケル・ジョーダンにコンタクトを取った。
「今度から試合に出るとき、うちのシューズを履いて
くれないか?」  


マイケルは「チームの決まりでそれは出来ない」と断った。  
当時、彼が所属していた「シカゴ・ブルズ」は、チームとして
別のスポーツシューズメーカーと専属契約を結んでいた。


プレーするときは全員そのシューズを履かなければ
ならなかった。  


それを聞いて担当者はがっかりした。しかし、マイケルの
次の一言に飛び上がって喜んだ。  


「この契約に違反したら5000ドル(約50万円)の違約金を
払わなければならないんだ」  


ナイキが勝利を掴んだ瞬間だった。


「1試合で5000ドルだって? 10試合で5万ドル、
20試合で10万ドルか。その違約金はうちが払うよ、


マイケル」 ~~~えぇっ~~~~~~~~~~~  
その違約金のおかげで、ナイキはこんなコマーシャル
まで流すことが出来た。  


「マイケル・ジョーダンは違約金を払ってまでナイキの
シューズを履いている!」  


さらにナイキはマイケルに履いてもらうシューズのネーミング
まで変えた。「エア・ジョーダン」と。  


たちまち「エア・ジョーダン」はバスケットボールファンだけ
でなく、世界中の若者たちが欲しがるスポーツシューズ
になった。  


よく考えると、ナイキにとって1試合5000ドルの違約金は一回
の広告宣伝費より安かった。  


シカゴ・ブルズと専属契約していたシューズメーカーは
ナイキから莫大な違約金を手にしたが、ナイキはその
100倍以上もの売上を上げた。


そして「ナイキ」は揺るぎないブランドになった。  


これがマーケティングだ。誰も損はしていない。
そのシューズメーカーより、ナイキのほうがちょっと
賢かっただけだ。


上手なマーケティングのコツは、消費者に気づいてもらうこと、
覚えてもらうこと、そのために目立たせる。そして強調したい
ことを如何に一つに絞るか。これが重要なのだそうだ。  


一つの商品を売ろうとするとき、複数ある特徴を羅列して
しまうとかえって消費者の心には残らない。


一つに絞るために他のたくさんの情報を捨てることは
忍び難いが、効果は絶大だ。  


例えば、酸っぱ過ぎてとてもそのままでは食べられない
レモンは、ビタミンB群や食物繊維、クエン酸など複数
の栄養素がある中、ビタミンC一つで勝負した。  


その結果、レモンはビタミンCの代名詞となり、料理に
欠かせない食材となった。  


PRしたいメッセージも一つに絞って10秒以内で語れる
ものがいいそうだ。あの五つ星のザ・リッツ・カールトン
ホテルのメッセージはこうである。  


「私たちは淑女・紳士にお仕えする淑女・紳士である」  
アメリカの地方紙の一つだったウォール・ストリート
・ジャーナルは次の一言で全国紙になった。  


「至るところで成功する男たちはウォール・ストリート
・ジャーナルを読んでいる」  、


自己PRも一つに絞って、一言で。 ・・・










昨年(平成12年)2月に『だからあなたも生きぬいて』という
出版された、本があります。


大平光代さんという方でご自身の半生を綴った自叙伝です。
彼女は中学一年の時、同級生たちの陰湿ないじめに遭い、
自殺を図ります。


幸い一命をとり止め、再び学校に戻るのですが、同級生たち
の冷たい視線と心ない言葉は彼女の心をさらに傷つけます。


とうとう彼女は坂道を転げ落ちるように非行に走り、
何と16才の時「極道の妻」になり、背中に刺青を入れる
までに身を落とすのです。


しかし、そんな彼女の人生に一大転機が訪れます。
それは父の友人であり、養父となる大平浩三郎さんとの
出会いです。


大平さんもまた温かい家庭の愛情を知らずに育った
不良少年でしたが、自力で起こした事業が成功したの
をきっかけに立ち直り、以来家庭に恵まれない少年たち
を自分の会社に雇い入れたり、資格をとるための学費の
面倒を見たりと、非行に走る子供たちに、深い愛情と理解
を持った方なのです。


「いつまでこんな生活をするのや。今からでも遅くないから、
もう一度、人生やり直してみ」と、懸命に説得を続ける
大平さんの温かい人柄に打たれた彼女は次第に心を
開き「もう一度人を信じてみよう。もう一度人生をやり
直してみよう」と固い決心をするのです。


それからの彼女は中卒という学歴を乗り越え、すさまじい
猛勉強の末、「宅建」「司法書士」と次々と合格し、29九歳
でついに「司法試験」に一発で合格を果たすのです。


現在、彼女は36才になり、大阪で非行少年の更生に
努める弁護士として多忙な毎日を送っています。


彼女が人生をやり直そうと決意した時、大平さんは
尾関宗園師(おぜき そうえん/京都大仙院住職)の
次のような言葉を送っています。


「今こそ出発点」人生とは毎日が訓練である
私自身の訓練の場である 失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である


今この幸せを喜ぶことなく いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
私自身の将来は今この瞬間にある今ここで頑張らずに
いつ頑張る。


彼女はこの言葉を、時には壁に張り、時には手にとって
何度も何度も読み返したそうです。


この言葉が送られて9年、ついに彼女は弁護士になるのです。


「人は人によって育てられる」と言います。大平さんは彼女に
とって養父であり、人生の大先輩であり、また心の師でも
あります。


彼女は最後にこう記しています。「あきらめたら、 あかん!」
・・・・







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