妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・森羅万象













渡部佳菜子さんが生まれ育った町はコンビニが1軒しかなく、
電車は2時間に1本。どこにでもある田舎町だ。


基幹産業である農業を支える後継者もなかなか育たない。
そんな中、彼女の父親はいつも「農業はこれから面白くなる」
と言っていた。


台風できゅうりが全滅した時も「自然のことだからしょうがない。
次はもっとうまくやってやる」、そう言って目を輝かせていた。  


小学生の頃の佳菜子さんはそんな父親が大好きだった。
だから「大きくなったら農業をやる」とよく言っていた。
そう言って両親を喜ばせていた。  


中学生の時、友だちから将来の夢を聞かれ、「農業」と答え
たら笑われた。彼女の周囲にはそんな空気が流れていた。
以来「農業」という言葉を口にすることはなくなった。  


高校卒業後、県立農業短期大学校に進んだ。そこで農業
の未来について語り合える仲間と出会った。「やっと
本当の自分を取り戻すことができた」と思った。  


友だちとドライブをしていても、「あのハウス、何を作って
いるんだろうね」という会話になった。覗きに行って農家さん
の話を聞いたりもした。  


卒業式は2011年3月9日だった。「福島の農業を元気に
しようね」と励まし合い、皆、夢に向かって飛び出した。  


その2日後、故郷の町は一変した。  
(東日本大震災は、2011年3月11日)


佳菜子さんは若者に向けて自分の仕事のことを語る
イベントに参加した。語ったのは震災後の家族の苦悩だった。
「復興に向かう農家を一番苦しめたのは『風評』でした」と。  


彼女が住む西会津町は新潟との県境にあり、原発から120㌔
以上離れている。


震災後の大気中の放射線量は東京より少なかったが、
怖いのはデータではなくイメージだと痛感した。


きゅうりの価格は暴落し廃棄物のように扱われた。
収穫寸前だったブロッコリーは検査を何度も受けている
うちに腐ってしまった。


「福島の農業を元気にしたい」という夢は不安と恐怖で
押しつぶされそうになった。  


そんな気持ちを払拭しようと、彼女は県や町主催のイベント
のイメージガールとして都会に出ていき、消費者に福島の
野菜をPRした。  


あるところでこんな声が聞こえてきた。
「なんで福島から来てるのかしら。
福島の物を売るなんて非常識よね」  


聞こえないふりをして、明るく元気な声を出し続けたが、
愛想よく振る舞えば振る舞うほど悲しくなり、やがて
声が出なくなった。  


佳菜子さんは言う。


「農家は野菜を作っているんじゃない。育てているんです。
長い歳月をかけて土を育て、種を植え、水をやり、
太陽の光をたっぷり受けられるように心を配り、
自分の子どもを育てるような気持ちで育てているんです」と。


そのすべてが否定されたようだった。  
そんな時、1人の女性が声を掛けてきた。
「きゅうりください。福島のきゅうりっておいしいわよね」  


その言葉は真っ暗だった彼女の心に光となって
差し込んできた。


溢れ出る涙を拭うことも忘れ、「はい、日本一です」と言って
きゅうりを手渡した。  


佳菜子さんは気付いた。「イメージってつくり物なんだ」と。  
「福島にマイナスイメージを持つ人もいるが、そうでない
人もいる。


イメージはその人が勝手に心の中でつくっているだけ。
だったら私が福島の野菜のイメージをつくろう」、
そう思ったらワクワクが止まらなくなった。


それから佳菜子さんは本物のイメージガールを目指して
全国の主要都市で街頭に立った。義援金の金額が
世界一だった台湾にも行って福島の野菜をPRした。  


風評被害は今でもあるそうだ。それでも彼女は言う。
「それをプラスイメージに変えるのは私。
農業は益々面白くなる」と。 ・・・・












先日、一緒に飲んだMさんという、とある会社の社長さん
からこんな話を聞いた。  


3年前、Mさんは一人の元社員からパワハラで訴えられた。


肉体労働の現場で働く社員を励ますつもりで、Mさんは
よく社員の肩や背中を軽く叩いていた。  


それは一般的にスキンシップの範ちゅうだと思うが、
一人の退職した社員が、「社長から日常的に暴力をふる
われていた」と言い、巨額の賠償金を要求してきた。
原告の背後に暴力団の関係者がいたようだった。


身に覚えのない疑惑にMさんは精神的に落ち込み、
食事も喉を通らない、眠れない日々が続いた。  


この苦難をどう乗り越えたらいいか聞こうと、ある日、
有名な霊能者を紹介してもらった。


その霊能者はMさんを見るなり顔がこわばった。
「あなたには死神が見える」と言うのだ。


さらに驚愕することを言った。「今年の12月30日、会社の
社長室で首を吊っている姿が見えます」  


Mさんはびっくりした。数日間、悶々とした日々を過ごした後、
その運命を回避する方法を考えた。


「12月30日に社長室で首を吊っているというんだったら、
その日、社長室にいなければいいんだ」  


Mさんは奥さんを誘って年末年始、旅行に出掛けた。
そして年明け早々、元気になって帰ってきた。


そしてあの霊能者のところに行ったら、霊能者は
びっくりしていた。「死神が消えている。
一体何があったんですか?」・・・・  


その後、裁判に勝訴し、会社の売り上げも伸びていった。  
きっとその霊能者は「このままいくと、あなたはこうなりますよ」
と、Mさんの運命を予言したのだろう。


それも一つのMさんが行くべき道だったのかもしれないが、
道は一つではなかった。


Mさんは地獄のような日々の中で、運命は変えられること
を知った。  


どんな親から生まれるか、いつどこに生まれるかなどは
どうすることもできない。これを宿命というそうだ。


それに対して運命というのは、自らの意思や判断や決断
によって変えられるようだ。  


例えば、重大な病気をして、医師から余命1年と告知された
とする。それを自分の宿命だと受け止めてしまえば、
告知通りになるだろう。


しかし、それからいろんな健康法を取り入れて、奇跡的
に快復した人も少なくない。  


『人魚姫』というアンデルセン童話をご存知だろうか。  


人魚姫は15歳の誕生日に、嵐に遭って難破した船から
溺死寸前の王子を救い出した。


そしてその王子に恋心を抱くが、人魚は人間の前に
姿を現してはいけない決まりがあった。しかし、
人魚姫はどうしても王子が忘れられない。  


人魚姫は海の魔女にお願いして尾びれを人間の足に
変えてもらった。しかし、それと引き換えに声を奪われた。


そして、「もし王子が他の娘と結婚すればお前は海の泡
となって消えてしまう」と言われた。  


その後、人間になった人魚姫は王子に近づき、仲良くなるが、
声が出ないので「嵐の日に救ったのは私です」と伝えられない。


そうこうしているうちに王子は別の娘と婚約してしまう。
このままだと海の泡になる。悲嘆に暮れる人魚姫。


彼女が生き残れる道は一つしかなかった。
短剣で王子を刺せば再び人魚の姿に戻れるのだ。  


しかし、愛する王子を殺すことができない人魚姫は
死を選び、海に身を投げて泡となっていく。  


1836年に発表されたこのアンデルセンの悲しい物語を、
ウォルト・ディズニーは見事にハッピーエンドに書き換えた。


自らの努力と根性で王子をゲットして幸せな結婚をする
ディズニー版人魚姫『リトル・マーメイド』を1989年に
映画化したのだ。  


そうなんですね。たとえ有名なアンデルセンの原作であっても、
悲劇の結末より幸せなラストシーンのほうがいいと思ったら
書き換えてもいいのだ。  


人生のシナリオライターは自分。だったら、
自分で幸せな未来に書き換えよう。誰も文句は言うまい。
・・・・





ラジオから海援隊の「母に捧げるバラード」が流れてきた。


武田鉄矢さんの博多弁を聴いていたら、僕は突然ある博多
の母を思い出した。


大学時代に親しい先輩がいた。名前はテツヤだった。
妙に気が合い、いつも連れ立って遊んでいた。


大学を出た後もお互い東京にいたので学生時代と変わらず
よく一緒に飲んでいた。


だがしばらくすると、テツヤさんは会社を辞めて博多に帰る
決心をした。東京生活が淋しくなるなと思った。


ある朝、僕がバイトに行く支度をしていると部屋の電話が
鳴った。 「今、東京駅におるったい。いよいよ東京を卒業
するばい」


あれ、今日だっけ? 帰る日はすっかり忘れていた。


二人でやったくだらない思い出を散々話した後、間を置いて
彼がふいにこう言った。 「おまえ、今までありがとう。それば
言いたいけん電話したったい」


その言葉が胸を打ち、不覚にも急に涙が出てきた。
自分でも驚いた。 「なん泣きようとや?」彼はそう言って笑った。


当時は携帯電話も全く普及しておらず、SNSもない時代だった。
日が経つに連れて、彼とは次第に疎遠になっていった。


仕事で失敗した日のこと。部屋で一人でお酒を飲んでいた時、
何年振りかに彼の博多の家に電話をしてみようと思った。


電話にはお母さんが出た。
「テツヤはまだ帰っとらんとよ。悪かね」
僕がお礼を言って受話器を置こうとした時だった。


「ちょっと待ってん! 山本さんってゆうたばってん、学生時代
にうちに遊びに来た山本くんやないと?」
「覚えていてくれたんですか!」 と僕が言うとさらに
捲し立てられた。


「当たり前やないね! 何で黙って切ろうとするとね。
ほんなこつ冷たかね。元気にしとう? 


あんた愛知に帰ったと? まだ東京におるとね。
ちゃんと栄養のあるもんば食べよう? 
お酒飲み過ぎとらんめえね!」


そんな温かい方言を聞いていたら、ふいに目頭が熱く
なってきた。優しさが溢れ出るようなあの博多弁が
今も耳の奥に残っている。 ・・・・・






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