妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・THE ライフ











4月29日は、昭和天皇のご生誕を祝う「昭和の日」。


これにちなんで、本日は昭和天皇の最後の「料理番」を
務めた谷部金次郎さんのお話を紹介します。


昭和天皇の質素な食生活、初めてお会いできた時の感動、
崩御された時の悲しみ……。



「ぼうやいくつだ、どのくらいできるんだい?」


東京オリンピックが開かれた昭和39年の初春、
天皇の料理番として有名な秋山徳蔵さんのこんな第一声
で宮内庁大膳課の面接が始まりました。


当時、私は17歳。『日銀クラブ』と呼ばれた超高級料亭の
料理長でもある厳しい義兄の下で、料理人への道を
歩んでいました。


そこでの修業は、新人といえどもただ単にお皿を洗って
いればいいというものではなく、出汁をとることから魚を
下ろすことまで、なんでもやらなくてはなりませんでした。


修業期間は一年半と短かったものの、普通に料理の勉強
をしている人に負けないだけの自信を私は持っていました。


毎年暮れに、宮内庁の新年祝賀会のお手伝いに出向いて
いたことがきっかけになり、「宮内庁の大膳課に欠員が
できた、若い料理人を探している」と私に声が掛かりました。


どうせ宮内庁職員の食堂だろう。私は、着慣れないスーツを
揃え、宮内庁へ赴きました。何の連絡もないまま、いつの
まにか季節は梅雨になっていました。


半ば諦めかけた頃、宮内庁から採用の通知が届きました。


昭和天皇の食事を作る大膳課和食担当の辞令。
「天皇陛下のお食事なんだから豪華なものに違いない」
「腕によりをかけて勉強して、いい料理をいっぱい作ろう」
と意気込んで大膳課に入りました。


ところが、驚いたことにお食事の献立はごくごく一般的な、
本当にシンプルなものばかりでした。


大根と白滝を油でさっと炒めて煮た物やほうれん草の
おひたしなど、ありふれたお惣菜が中心で、それはむしろ
一般家庭と比べても地味なくらいでした。


食器もいたって質素でした。「こんな普通のものを作りに
来たんじゃない」といささか拍子抜けしたほどです。


穏やかながら威厳のあるお姿


料理人として陛下にお会いできる機会はまずありません。
いつも女官さんを通して陛下の感想が私に伝えられました。


ただ、陛下にお仕えした26年間の中で1度だけ直接
お目にかかることができました。菊栄親睦会という、
皇族と旧皇族の方々による年に1回の催しの席でのことです。


その頃、私は大膳課に入って5、6年が経っており、陛下の
お食事も作り始めていました。


立食形式のそのパーティーで、私は天ぷらの係になりました。
黙々と天ぷらを揚げていると、目の前に陛下がお立ちに
なっていました。


この時初めて陛下に直接こうお声を掛けられました。


「穴子としそを」
「はい、かしこまりました」 そう返事はしたものの、
頭の中は真っ白。緊張して手は硬直し、小刻みに震えて、
穴子としそがうまく箸で掴めません。


どうにか揚げなくては、と震える右手をおさえるように左手を
添えながら、なんとか油の鍋に入れました。 ところが、
衣と葉がバラバラになってしまい、見る影もありませんでした。


それでも陛下は天ぷらの出来栄えを気にするご様子もなく、
喜んで召し上がってくださいました。その時、私はその場に
倒れそうなくらい力が抜けていました。


戦後生まれの私は、正直なところそれまで陛下を特別な
存在と思ったことはありませんでした。ところがこの日、
陛下の穏やかながら威厳のあるお姿に接し、自分は
なんと小さい存在なんだと圧倒されそうになったのです。


生涯この方おひとりのためにお仕えしようと誓ったのは
この時です。


陛下は、思いやりに溢れたお方でした。例えば人から物を
いただかれた時には 贈り主の心を無駄にしないような
扱い方をなさり、常に相手の立場に立ってものごとを
お考えになっていました。


お食事に関してもご自身のお言葉の影響力を分かって
いらっしゃったので、食べたい物もお言葉にはされ
ませんでした。


しかし、おいしい時は必ず「おいしかった」と伝えてくださり、
一度箸をつけた料理は残さずきちんとお召し上がりに
なるなど、私たち料理人にも細かい心配りをされていました。
私は、そんな陛下の豊かな人間性にますます惹かれて
いました。


お仕えするのは昭和天皇のみ


陛下が倒れられたのは、昭和63年。
お食事を吹上御所までお運びした数時間後のことでした。
この時のショックはいまも忘れられません。


陛下が最後に口にされた料理はどのような献立だったのか、
いまでも思い出せないくらいです。


それからも陛下のご様態は一向にいい方向には向かわず、
大膳課も最悪の事態に備えていました。


昭和64年1月7日早朝、ついにその時が来ました。
せめて最後のお別れのご挨拶をしたいと、女官さんの
後をついて行き、御簾の向こう側で永遠の眠りにつかれた
陛下に深々と頭を下げました。


私の料理に「おいしかったよ」と言ってくださる陛下には
2度と会えないと思うと、魂が抜けていくような気がしました。


御大葬が終わり、私は次の行き先も決まらぬまま、
大膳課を辞める申し出をしました。


子どもたちはまだ5歳と3歳、家を買ったばかりでローンも
だいぶ先まで残ったまま。しかし、自分がお仕えするのは
昭和天皇おひとりのみという私の意志は、決して揺るが
なかったのです。


大膳課を辞めた私は、仕事は変わっても、おもてなしの
心が料理を作る上での原点であるという思いは変わりません。


陛下から学んだ思いやりの心を多くの人に伝えることが、
いまの私の使命と思っています。 ・・・・・












二人が入籍したのは事件のわずか1カ月半前。
こんな結末を誰が予想できたのか。


大阪府豊中市の自宅で昨年12月、26歳の妻の首を
電気コードで絞めて殺害したとして、府立支援学校元教諭
の男(29)が逮捕された。



殺人罪で起訴された男は大阪地裁の裁判員裁判で、妻への
思いをこう口にした。


マッチングアプリ、束縛、そして“露出が多い”ウエディング
ドレス。公判で明かされた衝撃の事実は・・・・。


仲良し夫婦、一方で…  


初公判。細身で色白の被告の男は、傍聴人で満席の法廷へ、
うつむきがちに現れた。  


《忘年会早く終わらんかな、会いたい》
《一緒に家でラブラブしたいね》  
弁護人が読み上げたのはLINEでの二人のほほえましい
やりとり。


日付は昨年12月14日、事件の2日前だった。  
二人はやりとりの半年前の昨年6月にマッチングアプリで
出会って意気投合、すぐに交際を開始した。


同11月には入籍し、翌年には海外挙式を控えていた。  
男は当時、府内の特別支援学校で勤務し、「大変だったが
やりがいを感じていた」。


妻との関係については「出かけるときはいつも手や腕を組み、
他と比べても仲の良い夫婦だったと思う」と述べ、充実した
生活を送っていたかのようにみえた。


その一方、夫婦間では口げんかも絶えなかったようだ。
男は、妻の交友関係をめぐり「週1回はけんかがあった」
と説明。


これに対し、妻は実の母親に「(夫の)束縛が激しくて
自由がない。友達と連絡をとるなといわれた」と愚痴を
こぼすこともあったという。


激しい口論  


事件のきっかけは昨年11月下旬、結婚式のドレスの試着
をめぐる口論だった。


妻がインスタグラムに試着写真をアップしようとしたところ、
男は「露出が多い」と制止。


スマートフォンを取り上げようとしたことでけんかは過熱し、
警察が仲裁に入る事態となった。ただ、その後、二人は
よりを戻したという。  


そして終わったはずのスマホの取り上げをめぐり、
二人は再び口論になった。互いに感情が爆発し、
3時間近くの激しい言い合いとなったという。  


妻「もう離婚したい。死んでほしい」  
男「じゃあ殺せよ。そうしたら離れられる」  
妻「死んでほしいけど、家族に迷惑がかかる」  


男によると、先に行動を起こしたのは妻だった。
台所から持ち出した包丁で男の頭を切りつけ、
床に血がこぼれた。


妻がそれ以上攻撃する様子はなかったが、男は妻を
何度も殴りつけたという。 ここで終われば、行き過ぎた
夫婦げんかで済んだかもしれない。


しかし男は、その後の妻の言葉で「心の中で抑えていた
ものが、せきを切った」と話した。  


「お前が殺せと言ったんやろ」 数々の偽装工作  


そばにあった電気毛布のコードで、背後から妻の首を
絞め続けた男。動かなくなった姿を見て、自分の犯した
罪を自覚したという。  


一方、その後に取った行動は、妻への愛情を一切
感じさせないものだった。  


男は激しく争った形跡を偽装するため、自らの首や体を
包丁で切りつけ、「妻が包丁を振り回した」という嘘の
メモを残した。


そして救急車や警察を呼ばないまま浴室で自殺を
図ったが失敗。親族の通報で翌日に警察官が発見
するまで、妻の遺体はその場に放置されたままだった。  


被害者参加制度で法廷に立った妻の遺族は
「男は嘘をついている」と涙をこらえ、厳刑を求めた。


一方、男の弁護側は妻の攻撃に対する過剰防衛だった
として、酌量を求めた。  


11月13日の判決。森島聡裁判長が言い渡したのは、
懲役10年(求刑懲役12年)の実刑判決だった。  


森島裁判長は男の行動について
「殴る行為とコードで首を絞める行為は明らかに異質で、
過剰防衛にはあたらない」と認定。


その上で「被告は妻からの攻撃で負傷したが、そこに至る
経緯は妻だけに責任があるものではなく、殺されるほどの
落ち度はなかった」とし、犯行後の偽装工作を「身勝手な
動機で妻の尊厳をおとしめた」と指弾した。  


公判で「幸せにしてあげられなくて申し訳ない」と
妻に謝罪した男。


1カ月半に終わった短い新婚生活は、最悪の結果で
幕を下ろした。 ・・・・



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