妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・歴史への訪問











むかし、京都の木こりたちが、大勢で北山(きたやま)に
出かけました。


木こりたちはいつの間にか道に迷ってしまい、お腹を空かせ
て途方にくれていました。


すると突然、林の奥の方から人の声が聞こえてきたのです。
「助かった。あそこに人がいるぞ」


木こりたちが駆け寄ると、そこに現れたのは五人の尼さん
たちでした。


ですが奇妙な事に、その尼さんたちは目を大きく見開き、
手を振り、足を振り、面白おかしく踊っているのです。


木こりたちは、何だか恐しくなってきました。
「何で、こんな所で踊りを?」
「もしやあれは、鬼か魔物ではなかろうか?」
「そうだ、尼さんの姿をした化け物だ!」


木こりたちは、あわてて木の上に隠れました。
でも尼さんたちは木こりたちの居場所を知っているように、
踊りながらどんどん近づいてきます。


そこで一人の木こりが、勇気を出して尋ねました。
「もし、そこの尼さま。こんな山中を、どうしてその様に
踊り回っておられるのですか?」


大声で笑いながら踊り狂っている尼さんたちの一人が、
やはり舞い踊りながら答えました。


「不思議に思われるのは、当然です。
実は私たちにも、どうしてよいのかわからないのですから。


私たちは、この山寺に住む尼で、仏さまにお備えする
花をつんでこようと出かけて来たのです。
でもどうした事か道に迷ってしまい、お腹も空いてほとほと
困り果てていました。


そして、どうせこのまま死ぬのなら、せめてお腹だけでも
満たそうと、そばに生えていたキノコを一口づつ食べたのです。
するとそのキノコがとてもおいしく、この世の物とも
思えないほどでした。


それでまわりにあったキノコというキノコを、みんな食べ
尽くしてしまいました。仏さまに仕える身でありながら、
あさましく食べた天罰なのでしょうか。


その不思議なキノコを食べ終わったとたん、私たちの
手足は、ほれこの通り、勝手に踊り出して止める事が
出来なくなったのです」


話を聞いた木こりたちはびっくりしましたが、食べても死ぬ
事がないのならと、残りのキノコを分けてくれる様に尼さん
たちに頼みました。


「ですが、それは・・・」尼さんたちはキノコを食べる事を
止めましたが、木こりたちがどうしても食べたいと言うので、
仕方なくキノコの場所を教えてあげました。


やがてその場所へやって来た木こりたちは、そのキノコを
ガツガツと食べ始めました。


「うまい。何とうまいキノコだ!」たしかにそのキノコは、
この世の物とは思えないほどおいしいキノコです。


たらふく食べた木こりたちは、お酒に酔った様にうっとり
といい気持になってきました。


「ああ、いい気持ちだ。・・・おや? 体が?」そのとたん、
木こりたちの手足が勝手に動き出して、気がつくと木こりは
尼さんたちの仲間入りをしていたのです。


尼さんたちと木こりたちの奇妙な一団は、踊りながら山中
を歩き回りました。そして日が西に傾いた頃、ようやく手足
は踊りをやめて、みんなは元の状態に戻りました。


やっと、キノコの魔力が消えたのです。
この事があってから、京ではこのおいしいキノコを
舞茸(マイタケ)と呼ぶようになったそうです。


・・・おしまい



鬼が餅つきゃ、閻魔が捏ねる、そばで 地蔵が食べたがる










若者よ、君たちが生きる今日という日は、死んだ戦友たちが
生きたかった未来だ・・・。


戦艦「大和」の乗組員として先の大戦を戦い抜き、終戦後
はその壮絶な戦争体験、歴史の真実を伝え続けた(語り部)
八杉康夫さん。


戦後75年に入り、惜しくも亡くなられた語り部のお話は、
いまを生きる私たちへの切実なメッセージとなって
胸に迫ってきます。



第一波、第二波と攻撃を受けるうち、大和の後部が白煙を
上げているのが私にも分かりました。


なおも攻撃が続けられ、 魚雷が的中した時は震度5にも
感じられるほど激しく揺れました。次第に船は傾いていきます。


砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。 それでも、戦闘中
は命令がない限り持ち場を離れることはできません。


その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、これが事実上
「逃げろ」という意味です。


すでに大和は50度ほど傾いていましたが、この時初めて、
「大和は沈没するのか」と思いました。それまでは本当に
「不沈戦艦」だと思っていたのです。


もう海に飛び込むしかない。そう思った時、 衝撃的な
光景を目の当たりにしました。


私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、
自分の腹を掻っ捌いたのです。噴き出す鮮血を前に、
私は凍り付いてしまいました。  


船はますます傾斜がきつくなっていきました。90度近く
傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。  


飛び込んだのも束の間、沈む大和が沈み出す渦の中へ
巻き込まれてしまいました。


その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
「生きるための数々の方策」です。


海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、
ひたすら「生きる」ことでした。


海で溺れた時、 どうしても苦しかったら水を飲め。
漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない…。  


陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では、 ひたすら
「生きること、生き延びること」を教わったのです。だから、
この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、
実践しました。


しかし、どんどん巻き込まれ、あまりの水圧と酸欠で次第に
意識が薄れていきます。 その時、ドーンという轟音とともに
オレンジ色の閃光が走りました。


戦艦大和が大爆破したのです。そこで私の記憶は
なくなりました。



気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。


しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。


「助けてくれ!」と叫んだと同時に、 なんともいえない
恥ずかしさが込み上げてきました。


この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが
……。 すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長が
いらっしゃいました。


「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。


そう思って身構える私に、彼は優しい声で「落ち着いて、
いいか、落ち着くんだ」と言って、自分がつかまっていた
丸太を押し出しました。


そして、 なおもこう言ったのです。 「もう大丈夫だ。おまえは
若いんだから、頑張って生きろ」


4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて、 大和が沈んだ方向へ
泳ぎ出しました。


高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
大和を守れなかったという思いから、死を以て責任を
取られたのでしょう。


高射長が私にくださったのは、 浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。 ・・・・  
 *   *   *
昭和60年のことです。いつもピアノの発表会などで
お会いしていた女性から喫茶店に呼び出されました。


彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、
こう言ったのです。 「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」
驚いたなんていうものじゃありません。


戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、厚生省など方々
に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、前から
知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。


念願叶って佐賀にある高射長の墓前に手を合わせることが
できましたが、墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。


その時私は50歳を超えていましたが、自分が31歳だった
時を思い返すとただただ恥ずかしい思いがしました。


そして、不思議なことに、それまでの晴天が急に曇天と
なったかと思うと、突然の雷雨となり、まるで「17歳の
あの日」が巡ってきたかのようでした。


若者よ、小さくても、精一杯生きた証を残してほしい


日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。不沈戦艦と
いわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、
そして、敗戦。・・・・


そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。


人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
大きくなくてもいいのです。小さくても、精一杯生きた証を
残してほしい。


戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
復員後、長く私の中に渦巻いていた「生き残ってしまった」と
いう罪悪感。それはいま使命感へと変わりました。


私の一生は私だけの人生ではなく、生きたくても生きられ
なかった戦友たちの人生でもあるのです。


未来の日本を託す若者たちに、私は大和の真実を語り続け、
いつか再び戦友たちに会った時、「俺も生かされた人生で
これだけ頑張った」と胸を張りたいと思います。・・・・




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