妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・一考編













親がろう者、子どももろう者。この場合は『デフファミリー』
と言う。


デフファミリーは家庭内での言語は手話なので、家族間
コミュニケーションが取れている場合がほとんどだ。


デフファミリーが聴社会とどのように繋がるかという
難しさはあるかもしれないが、家庭内では共通言語の
手話がある。


デフファミリーにはデフファミリーの良さがあるのだ。


◎“聞こえない”というアイデンティティを親と共有できる。
◎“ろう者”としての誇りを持てる。


だが、親がろう者、子どもは聴者(コーダ)場合は
どうだろうか。コーダの心は揺らぐ。


「私はろう者では無い、だけど世の中の聴者とは違う、
…私は何者なのだろう」と。


そんなときに、私は『コーダ』ということばに出会えた。
ようやく自分自身のアイデンティティに巡り会えた。


しかし、ことばの壁はすぐには解決できない。
親との会話が成り立たない。
デフファミリーの方が情報量が多く、早く、親子間のやりとり
ができている。
デフファミリーは親子で同じアイデンティティーを共有
できるため、精神的にも安定していると思われる。


コーダは実の親とアイデンティティーを共有すること
ができない。


親子喧嘩はどこの家庭だってする。
しかし、コーダとろう親の喧嘩は言語が違うため、正に
『話にならない』状況。


親子なのに異なる言語を使う。
お互いに理解し合いたいのに、伝わらない、分からない。
伝えたいことは日本語では分かるのに、手話表現が
分からないためにコーダは困惑してしまう。
コーダの頭の中でパニックが起こる。


私は、手話のできない自分を何度も何度も責めた。


コーダはこのことを誰にも相談できずに、成長していく
ケースが多いと考えられる。一番相談したい相手は
本来親のはずだが、その親にことばが通じないという
事態が起こっているのだ。


(※手話を獲得しているコーダの場合は、デフファミリーと
同じように会話は成立すると考えられる。)


コーダ自身が一番考えるのではないか。
『私はなぜ手話ができないのだろうか』と。


答えは明確だ。
手話を使ってこなかったから。
手話で話をしてこなかったから。


「手話を覚れば良かった…!」
コーダがどんなタイミングで気が付くかは人それぞれだ。





私は自分のことの通訳を自分でした経験が何度もある。
今ほど手話通訳制度がしっかりしていなかった頃の話。
スマホはもちろん携帯電話すら無い時代。
聞こえない人の生活にファックスが入り込んできた頃の話。


私が中学生の時の家庭訪問。


『あれ?今日、家庭訪問だ。先生家に来るんだった』と
考えつつ、先生に一応聞いてみた。


「先生!誰がうちのお母さんに通訳してくれるんですか?」
「そりゃ、お前がするに決まっているだろう。」
「ええっ!」そう、私が手話通訳したのだ。


『あれれ?こういう時って、子どもが親に通訳するもんだっけ?』
手話通訳者に来てもらう方法など中学生の私が知るわけもなく、
結局私が母に通訳をした。


小学4年生(5年だったか?)の時の家庭訪問もよく
覚えている。


先生が学校での私の様子を母に説明した。
「学校/大丈夫」で通訳を乗り切った私。
次に先生が「家で困っていることはありませんか?」
と聞いてくれた。
待ってましたとばかりに話し始める母。
「宿題を9時過ぎてからやるんです!遅いですよね!!
困ります。」


『ええーー!!それ、私が先生に通訳するの!?』
と思いつつ、しぶしぶ音声日本語で先生に伝えた私。
「宿題をやらない訳ではないし、自分のタイミングでやって
いるのだから良いのでは?」と返してくれた先生。


『ナイス!先生!!』と、心の中でガッツポーズしながら、
私は母に手話で伝えた。
なんだこれは、コントか?いや、現実だった。


ちなみにどちらの先生も男性だった。
聴覚障害者を親に持つ私のことを、先生はどう見て
いたのだろうか。


とにもかくにも、苦い思い出である。
令和の時代にこのような経験をするコーダがいないこと
を切に願う。・・・


・・・













母はラムネの栓を ポンと要領よく抜いて
泡が吹き出すラムネの瓶を 手渡してくれた。


知識をいっぱい身につけて いっぱい覚えておくと
大人になってから いいことがあると言っていたのは
母だった。


アルツハイマー‐びょう【―病】‥
老年痴呆の一型。初老期に始まり、記銘力の減退、
知能の低下、高等な感情の鈍麻、欲望の自制不全、
気分の異常、被害妄想、関係妄想などがあって、やがて
高度の痴呆に陥り、全身衰弱で死亡する。脳に広範な
萎縮と特異な変性が見られる。


ドイツの神経病学者アルツハイマー)がはじめて報告。


知識から 生まれてくるのは 不安だけじゃないか。
何の役にもたちゃしないぞ 母さん 知識なんて。


ラムネを飲み干して 空(から)になったラムネの瓶を
すかして空(そら)を見た。
「お母さん、瓶に青い空(そら)が入ったよ」と、幼い
私は言った。


今、記憶も何も入っていない 空っぽの母をすかして
この私がしっかりと見えている。
瓶の色で微妙に変わった幼いときの空の青色を思い出す。





幼い頃、夏にはよくラムネを飲んだ。


ラムネの栓を開けるのは幼い子どもでは無理だと、必ず
大人がラムネ専用の栓あけでラムネのふたになっている
ビー玉を中に押し入れてくれた。


ポンという音とともにシュワーという炭酸の音。幼い私は、
飲み口からあふれているラムネがもったいないと思っていた。
少々重くて厚手の瓶であったので、両手でしっかりと握って
飲んだのを憶えている。


ラムネを飲むとき、瓶のくぼみにうまくそのビー玉を引っかけ
て飲まないと、なかなか中のラムネは飲めないのだ。


要領の悪い私は、ビー玉をなかなかくぼみに引っかけられず、
中のビー玉が飲み口をすぐにふさいで、ラムネを全部飲んで
しまうのに時間がかかった。


母の介護を始めた頃は、不安だらけだった。
母はこれからどうなるのだろう。母の死を考えると、
いたたまれなくなった。


私はこれからどうなるのだろう。おしめもうまく替えられない。
食事も上手に食べさせることができない。何をやって
もうまくいかない。


自分のイメージ通りに動かない母に、いつも苛ついてもいた。
母の病が、私の未来に壁のように立ちはだかっていた。
ラムネの瓶の中のビー玉のように邪魔で邪魔でしょう
がなかった。


そう思って、認知症という「病」のことばかり考えていたから
だろうか、認知症に関する本を何冊も何冊も読んだ。
認知症のことをやっているテレビも全て録画して見た。
その中に、答えがあるような気がして、繰り返し読み、
何度も何度も見た。


でも、答えはその中にはなかった。この詩も知識なんて。」
と思っていたのもその頃。  


その頃、私は小学校で教員をしていた。授業の中で子ども
ができないことや教室の内外で日々起こる子どもの問題
に手を焼いていた。


何をやってもうまくいかない。自分のイメージ通りに
動かない子ども達に、いつも苛ついていた。


子どもの問題もまた、ラムネの瓶の中のビー玉のように
邪魔で邪魔でしょうがなかった。その問題を排除すること
ばかりを考えていた。


授業のやり方や問題行動への対処の仕方の本を何冊も
何冊も読んだ。母の認知症を考える時と同じように、
子ども達の問題や「できないこと」にばかり目がいっていた。


ある日、昼休み、子ども達の無邪気に遊ぶ姿を見た。
子ども達の動きは伸びやかだった。子ども達の顔は
輝いていた。子ども達の問題行動にばかり目がいき、
この子ども達を「見つめること」を忘れていたと、
私は思ったのだ。  


その帰り、母の病院へ行った。


病気や方法、技術にばかり目がいって、母そのものを
私は忘れているのではないかと思った。


それから、「病」ではなく、「母」そのものをしっかり見つめる
ようになった。そうしている内に、認知症なんて老いの一つ
の形でしかないと思えるようになった。


母が老い、死へ向かっていく。それを息子の私が支える。
至極当たり前のことを、私はしているだけなのだ。
そう思ってから母の認知症自体も邪魔だとは思わなくなった。


知識も、私にとっては母のために役立てるものになった。
母を見つめ、母を感じることがどれほど大事か、そこから
方法は幾通りも生まれてきた。


そこに答えはいくつも見つかった。  


私はビー玉をなかなかくぼみに引っかけられず、ラムネ
を全部飲んでしまうのにとにかく時間がかかった。


しかし、今思えば、瓶を回したり、傾けたりしながら、
その邪魔なビー玉をくぼみに引っかけようとすること自体
がとても楽しかったような気がする。


その楽しさやできる喜びがあったから、飲みにくいのに
何度も何度もラムネを飲んだのかもしれない。


母の介護もそうだ、邪魔だ邪魔だとか、もう嫌だ嫌だとか
思いながらも今まで続けてこれたのは、そこに喜びが
あったからかもしれない。


その時には、いたたまれなかった時もあったが、
今思うと知らぬ間に喜びや充実感を感じていたように思う。
母の介護も人生も、邪魔だと感じることや抵抗がある
からこそ、楽しいのだ。


楽しいとまで思わないまでも、充実しているのだ。
それを避けて、そこから私が逃げていたら、私の人生
には充実感や喜びも少なかったと思う。


邪魔だ邪魔だと思いドタバタしながらも、自らの人生を
引き受けて生きてきた。そうしている内に、自らの人生の
答えがふと明確に見えるときがあった。


それこそ、喜びであり、幸せであるような気がするのだ。


・・・



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