妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・森羅万象










命あるものは必ずいつかこの世から旅立っていか
なければならないことは分かっている。


しかし、唐突に訪れた死に対しては、「旅立つ」という
言葉はちょっと似合わない。「奪われた」、
そう思えてならない人もたくさんいると思う。  


自分の思いのままに、自分の人生ドラマの終幕を
下ろすことができる人って一体何人くらいいるのだろう。
もちろん周囲の人も納得いくカタチで。  


そう考えると、そう多くはいないのではないか。
自分の人生なのになぜ? 


死というものが突然訪れるからか。いやいや、
そういう死もあるけど、ある程度、余命が予測
できる病気もある。


それでもやはり死を考えることは怖いし、その
ことについて語り合うことは、ある意味、縁起が
悪いということでタブー視されてきた。


何といっても自分の死を自分で段取りする文化が
この国にはない。  


先日、すごい映画を観た。


助監督として映画制作に従事してきた砂田麻美さん
(33)が、初めて自ら撮影・監督・編集をした
ドキュメンタリーである。


何がすごいかと言うと、胃がんと診断され、余命宣告
まで受けた自分の父親に完全密着して亡くなるまで
カメラを回し続けたと言う。


映画の題名は『エンディングノート』  


主人公は、熱血営業マンとして60年代から約40年間、
この国の経済を支えた典型的な元企業戦士・砂田
知昭さん。


定年退職し、これから好きなことをして楽しもうと
思っていた矢先にステージ4のがんが見つかった。


毎年欠かさず健診を受けていたのに。67歳のとき
だった。


砂田さんは現役時代、何事も事実を正確に把握し、
自分できちんと段取りして物事を進めないと気が
済まない性分だった。


そんな気質からか、死を宣告されたとき、死に至る
までを「人生最後の一大プロジェクト」と称して、
自分で段取りを始めた。


そのために書き始めたのが「エンディングノート」
だった。


「それは遺書なのですが、遺書よりはフランクで公的
な効力を持たない家族への覚書のようなものです」
とナレーターは語る。  


映像を説明するナレーションは砂田さん本人が書いた
文体になっているが、読んでいるのはカメラを回して
いる娘の麻美さんだ。  


冒頭のシーンはいきなり葬儀場。「本日はお忙しいなか、
私事(わたくしごと)で御足労いただき、誠にありがとう
ございます」。故人が参列者に語り掛けるという、
何ともユーモラスなナレーション。  


砂田さんは自分の葬儀場も自分で決めた。


クリスチャンでもないのに、車中からいつも目にして
いた近所の教会を訪問して、神父と面談。
「最期はここでお願います」。


なぜ教会にしたのか。娘にだけ真相を語った。
「一番リーズナブルだったから」  


葬儀のとき、案内状を出す会社関係の名簿も、
電話連絡すべき人の名前もエンディングノートに書き、
長男に託した。  


学童前の、まだ小さな孫たちと遊ぶときは気合を入れた。
孫たちはいつも笑顔で登場していた。


しかし、映画も終盤に差し掛かり、家族に別れの
言葉を言うシーンではそうはいかない。


幼い孫たちも弱り切ったジージともう別れなければ
ならないことを感じ取り、ただただ、涙、涙。  


カメラはさらに夫婦のプライバシーまで追い掛ける。
「もう撮らないで」と母親から言われ、娘は病室を出る。


しかしカメラは回っていた。子どもたちには恥ずかしく
て聞かせられない言葉を奥さんに言う。
今まで一度も言ったことがない言葉だった。


「愛してる」  


決してラブラブの夫婦ではなかった。
「生き方上手」だったかと言うと、そうでも
なかったのかもしれない。


それでも生前の「段取り上手」が「死に方上手」
に繋がった。


カメラは回らなくてもいいから、こんな最期を
迎えられたら最高だと思った。 ・・・・










国際児童図書評議会世界大会において、美智子皇后が
された講演を収録したものである。


美智子皇后の初めての講演とあって、テレビでも放映
され大好評だった。  


皇后は子供時代に読まれた様々な本やその読書体験を
回想されながら感謝をこめて語られた。   


「振り返って、私にとり、子供時代の読書とは何だった
のでしょう。


何よりも、それは私に楽しみを与えてくれました。
そして、その後に来る、青年期の読書のための基礎を
作ってくれました。


それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼を
くれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、
橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていく
ときに、大きな助けとなってくれました」      


皇后が少女時代に繰り返し読まれた本の中に新美南吉
の童話「でんでんむしのかなしみ」がある。   


一匹のでんでんむしはある日、自分の背中に悲しみが
いっぱい詰っているのに気づく。


でんでんむしはその悲しみに押し潰されそうになり、
友達のところへ助けを求めに行く。


「わたしはもういきていけません」  
すると、友達のでんでんむしは言う。
「あなたばかりではありません。わたしのせなかにも
かなしみはいっぱいです」  


次に尋ねた友達もその次の友達も、次の友達も
同じことを言う。


そして、でんでんむしは気づくのである。  
悲しみは誰もが持っている。自分も悲しみをこらえて
生きていかなければならないのだと。


皇后は願いをこめて語られた。  


「悲しみが多いこの世を子供が生き続けるためには、
悲しみに耐える力が養われると共に、喜びを敏感に
感じとる心、


又、喜びに向かって伸びようとする心が養われること
が大切だと思います」       


平成12年は「子ども読書年」だそうだ。子供も大人も
読書の良さを深く味わい知る年になるようにと願う。  


子供たちが悲しみに耐えうるしっかりした「根っこ」
を持つために。生きる喜びに向かう強い「翼」
を持つために。・・・・





子供の心を育てる言葉があれば、腐らせていく言葉
もある。同じような状況にありながら、子供への言葉
かけによって、まったく違う結果を生むことがある
のではないだろうか。  


例えば、夏の暑さの中、水道工事をしている人たちの
脇を二組の親子が通りかかった。  


はじめの親は子供に言った。  
「こんな暑い時に外で働かなきゃならないって大変よ。
あなたも勉強をがんばらないとそうなるわよ」   


恐らく、こういう言葉を聞いて育つ子供は、汗水流して
働くことをさげすむようになる。そして、きつい仕事や
勉強を嫌い、ひたすら自己の安楽を優先させていく
若者になるだろう。  


一方その後通りかかった別の親は子供に言った。
「こんなに暑い時でも働いてくださるおかげで、
私たちはお家でいつもおいしいお水が飲めるのよ」


後の子供は、水を飲む時にきっと母親の言葉を思い
出すだろう。そして働くことの意義を知り、まわりの
人々に感謝できる若者に育つに違いない。  


子供に学校へ持っていく物に記名をさせる時の言葉
かけである。


ある親は子供に言う。  
「名前を書いておかないと、学校で自分の物が分から
なくなるでしょう。物がなくなって困るのは、
あなたなのよ」


別の親は言う。  
「名前を書いておくと、すぐ誰のか分かるから友達も
先生も助かるのよ。名前を書くのは面倒だけど、まわり
の人への思いやりだとお母さんは思うの」   


この二人の子供の名前の書き方は当然、違ってくる。


はじめの子は、自分に分かればいいと乱雑に書くか、
あるいは書かないですませる。  


後の子は、友達や先生が見て分かりやすいようにと
丁寧に心をこめて書くようになる。      


大人が何気なくかける言葉を子供たちは正面から受け
止め吸収していくものだ。  


どのような言葉かけが子供の心を豊かに育てるのか、
知っておくのは意義があるだろう。  
そういう言葉の花束を持てればと思う。・・・・








「たった一言エピソード」


私が主人の妹の友達という事もあり、知り合いました。
私は京都、彼は仕事で広島という長距離恋愛でした。


その頃(昭和48年)は週休2日制でもなく彼が京都に
日帰り、または土曜日が休みの日に会いに来る。
時には岡山辺りでよく会ったものです。


知り合ってまだ、6ヶ月でしたが、京都の東山の
ドライブウエイで京都の夜景を見ながら彼の言った言葉が、


「こちらに来てくれる、片道切符で」でした。


私は、最初はデートの約束かと思いましたが片道切符
というのが気になって、別の言葉で言って欲しいと
せがみ、結婚して欲しいといわせました。


今思うと、片道切符のほうがロマンチックだったの
かなあと思い出します。


現在、定年にもなり、子ども3人が次々結婚して
ゆきますが、子ども達はどんなプロポーズの言葉を
交わしたのか、聞いてみたい気もしますが、


聞くと私達の事も言わねばならず、このことは2人の
思い出としてとっておきます。 ・・・・






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