妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・一考編











私の両親はろう者である。全く耳が聞こえず、手話で話す。
ろう学校に通い、寄宿舎で育ち、ろう者同士で結婚し、
聴覚障害者協会(ろう協)会員だ。我が家の中はろう
文化である。


聞こえる娘に“ことば”をどうやって身に付けさせるか、
耳の聞こえない母はとにかく考えたようだ。
“ことば”が遅れると困るということを、まわりから
相当言われたらしい。このときの“ことば”は、
音声日本語を意味する。


母は当時働いていなかったが、私を保育園へ入れた。
市役所へ行き、「娘に“ことば”を覚えさせたい」
と強くお願いしたようだ。


母は日本語が苦手だった。どうやって市役所職員と話
をしたのか、今となっては確認することもできないが、
必死にやりとりしたんだろうと想像できる。


聞こえない母親の願いは受理され、私は保育園へ入ったが、
私の記憶にあるのは「喋らない子」と先生に心配された
こと、「お昼寝しない子」と言われた記憶が残っている。


私にとって保育園は、嫌いではないが楽しくない
場所だった。聞こえる他の子どもたちと、どうやりとり
したら良いか全く分からなかったからだ。


おとなしく、喋らない子どもだった。無理もない、
そのときの私は言語を持っていなかった。ちなみに、
現在の私は喋りすぎるくらいよく喋る。


「昔はおとなしいってよく言われたよ」と言っても、
今では誰も信じてくれない…。


「娘に音声日本語を覚えさせなければ!」ということ
には必死で取り組んだ私の母。しかし、肝心な部分が
抜け落ちていた。手話である。


手話を教えるという概念が全く無かった。


親に考えが無いのだから、親から手話を教わるなんて
ことは私も意識したことが無い。しかし、見よう見まね
で簡単な手話は自然と覚えることができた。


どんなに声を出しても親には通じないと、子どもながら
に理解する。無駄なことは子どもだってしたくない、
手話の方が伝わりやすい。


母が音声で言っていることは分かるので、私は“分かった”
・“分からない”の手話は多用したと思う。何より、
表情は強めに出していたと思う。Codaがろう者のような
表情が作れるのは親譲りだ


不思議なのだが、私は今でも親のする手話の形が頭に
入ってこない。意味しか入ってこないのだ。
親との会話だけはいまだに声で言われたか手話で言われ
たかも分からなくなる。


他に“自分手話モード”(親以外のろう者と話すとき)と
“手話通訳モード”があり、適宜頭の中で切り替えている。
これは、私の場合に限りだけれども。他のコーダが
どうなのかは分からない。


聞こえない両親は、聞こえる私と弟のためにたくさんの
レコードと辞典を買ってくれた。カセットテープも本も
いろいろ買ってくれた。


自分たちが声で話せないからと、本当にたくさんの物
を与えてくれた。私も弟も何度も何度も同じレコード
を聞き、同じ本を繰り返し読んだ。


喋ることは苦手な私と弟だったが、おかげで知識だけ
は増やすことができた。弟はいつも昆虫図鑑や乗り物
の本に夢中だった。


レコードは童謡が多かった。本は百科辞典と、
日本昔ばなしのシリーズ。今思えば、両親の深い愛情
の証だったのだ。


まんがだけは禁止された(読んだけど)。
「まんがは読むとバカになる、コーラを飲むと
骨が溶ける」と母がよく言っていたのを思い出す。


懐かしい。今思えば、どこからそんな情報を聞いて
きたのだろうか。携帯もスマホもない時代だった。
FAXもまだ無かった。・・・・


しかし、なぜか手話を教えるということを両親は
しなかった。聞こえる子どもに手話は必要ないと思った
のだろう。


亡き母に聞くことはできないので父に「なぜ私に手話
を教えなかったの?」と聞くのだが、「さぁ?」と
首をひねるだけ。


「考えたこともない。見ていれば覚える」と手話で言う。
…見ているだけでは覚えられない…。手話で話しかけ、
手話で答えさせないと手話はできるようにはならない。


会話はことばのキャッチボールだ。これは手話も音声
日本語も同じである。大人が話しかけないと、会話が
できない子どもが育つだけだ。


そして、手話はちょっとした表情や指差しで通じて
しまうのが、良い点でもあり悪い点でもある。


大人コーダによくいるのがこちら。
◇親が何言ってるかは分かるんだけど、自分の言いたい
 ことが手話でできないコーダ。
◇親以外のろう者が何言ってるか分からないコーダ
手話での会話が親とだけだと、こうなってしまう。


子どもだった私は、親が言ってることを「はいはい、
分かった分かった、うるさいなー」くらいにしか聞いて
なかったので、簡単な手話しかできなくなった。


全く手話ができない訳ではないけれど、そのような
コーダは、「手話できる?」と聞かれると「できない」
と答えるコーダになる可能性が高い。


令和という年号が発表されたとき、平成のときとは違い
手話通訳者が付いていた。あの場面はろう者にとっても
Codaにとっても、それまではあり得なかった画期的で
素晴らしい場面だった。


家庭の中だけのことばだと思っていた手話が、社会に
認知されてきている。


手話はコーダにとって、親と自分を繋ぐための大切な
“ことば”なのだ。


手話そのものはまだまだでも、世の中には手話という言語
があるということを、聞こえない人がいるということを、
聞こえないとはどういうことなのかを一緒に考えてくれる
人たちが増えた。


すぐにとはいかないが、確実に少しずつ変化している。
どうか、これからのコーダたちは手話の素晴らしさを
楽しんでもらいたい。


最近はコーダだと告げただけで喜んでくれるろう者が
増えた。「両親/ろう」と伝えると、「コーダ!」
とろう者が手話でやってくれる。確実に社会は変わって
きている。


苦しいのは自分たち家族だけではなく、聞こえなくて
困ることを一緒に考えてくれる人が世の中に大勢いる
ことを、コーダにはたくさん感じとって欲しい。


ちょっとだけ手話に興味を持っていろいろ知ると、
その世界の広さに驚くだろう。


ろうのお父さん、お母さん、どうかコーダにたくさんの
愛情を注いでほしい。物を与えてもらえることも確かに
嬉しいけれど、やっぱり“ことば”が欲しい。


聞こえないからと諦めないで欲しい。今はまだ
子どもでも、コーダが大人になったとき、親子で
手話コミュニケーションができたならば、それは
とても幸せなことだと思う。


手話で喜びも悲しみも共感しあえる家族が増えて
ほしいと願いつつ、聞こえる私は今日も手話をする。


・・・











あぜ道の ひがん花よ 悔やむなよ
ここに出てきたことを ここにその姿で
出なくてはいけなかったことを


たとえ今は葉がなくても まわりの花もない名もない
雑草が 葉になってくれているじゃないか
たとえ毒があるとののしられても 優しく手折り
胸に抱いてくれる 少女がいるではないか


黄緑色の 一筋の空への思い 秋の中
ひがん花 葉のない自分を 深く生きろよ
赤く生きろよ ひがん花の 赤を生きぬけよ
赤・赤・赤 赤を生きぬけよ


全国各地に講演に行く。その帰りに母にお土産を
と思うのだが、饅頭を買って帰っても母は食べる
ことができないし、置物では数が増えると病室で
は邪魔になるしと、


迷っていたらキューピー人形のことを思い出した。
母が認知症を患ってすぐの頃だ。


母はキューピー人形を肌身離さずもっていた。
外を散歩するときも、便所に行くときも、
食事するときも、もちろん徘徊するときも、


いつも裸のキューピー人形を抱いて歩いていた。
人目を気にして、私は母から人形を取り上げるのだが、
ふと気がつくといつの間にか母は自分の子どものよう
に人形を大切に抱いていた。  


そのことを土産物屋で思い出してから、キューピー
人形のキーホルダーを土産に買い求めるようになった。


全国にはいろんなキューピーがある。
北海道の雪うさぎキューピー、
茨城の水戸黄門キューピーや納豆キューピー、
東京の都庁キューピー、
名古屋の金の鯱キューピー、
広島のお好み焼きキューピー、
大分の関サバキューピー。


母はたぶん喜んでくれていると思うのだが、それよりも
同室の方や看護師さんなどが喜んでくれるので、
調子に乗って講演に行くと忘れず買ってくるようになった。  


よく見ると、どれも全く同じ裸のキューピー人形に
いろんな色や形のフェルトを貼って作っただけの
ものなのだ。


裸のキューピー人形が、そのご当地のコスチュームを
被って、そのご当地のPRの役割を担っているという
わけだ。


キューピー人形のように、人もそれぞれ役割や立場を
担って生きている。漁師、教師、医師、看護師、農家、
作家、銀行員、大工、音楽家などいろんな職業もそうだが、
一人の人間も父親であり、母親であり、子どもであり、
時には介護する側であり、介護される側にもなりえる。  


その役割や立場を担った人間から、小さなフェルトの
部品を一枚一枚はいでいく。仕事とや肩書きという
フェルトを脱ぎ、家庭での役割を脱ぎ、男女という
性別も脱いでいく。


すると、人間の存在そのものに行き着く。


裸のキューピー人形になる。さらにそこから、
認知症の母は、言葉を脱ぎ捨て、歩くことをやめ、
食べることをやめ、全てを手放しながら「いのち」
そのものになろうとしている。


純粋な「いのち」として、今母は生きている。  
SOUL FLOWER UNIONというバンドの歌「満月の夕
(ゆうべ)」の歌詞に、


「解き放て いのちで笑え 満月の夕(ゆうべ)」とある。
「解き放つ」とは、「全てを自ら脱ぎ捨てる」こと。
つまり、それは、手放すということ。


手放し空っぽになった手には、もっと人生に大切な
ものが満ちてくるのだと、


この歌を聴くといつも感じる。たまには、自分の
役割や立場を脱ぎ捨てて、物なんかすっかり手放して、
この世界を見つめてみる。


すると、見えてくるものがあるのではないかと思うのだ。  
「満月の夕(ゆうべ)」を聞きながら母の病院へ向かった。


彼岸花を見つけた。葉もない、花びらもまばらになった
不格好な彼岸花だった。ただ、黄緑色の茎だけが一筋、
空へその思いを届けるかのようにスッと伸びていた。


手を施さないと生きていけなくなった母に似ていると
思った。彼岸花は、その花が朽ちて後、冬の初め頃に
やっと葉が出てくるのだそうだ。


そして、その線状の葉は冬を越し春には枯れてしまう
という。  


母という彼岸花に葉が出るまでは、私が母の葉になろう。
そして、冬という「いのち」の終わりの季節を、その
「いのち」から目をそらさず、しっかり見つめよう。


そうすれば「生きる」ことの何かが分かるのではないかと、
一輪の朽ちかけた彼岸花を見て思った。


母の病床に行くと、ベッドの上の母も棚の上の
キューピーもただじっと一点を見つめているだけだった。


・・・





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