妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・歌物語














デビュー曲の「わたしの城下町」、翌年の「瀬戸の花嫁」と
大ヒットし、順風満帆な歌手人生のスタートを切りました。


ところがご本人は、曲のイメージと実際の自分とのギャップに
悩んでいたとか?  


大ヒットしたことは、歌手 冥利みょうり に尽きる、とても
ありがたいことでした。ですが、同時に、日本的な女の子
という曲のイメージが、小柳ルミ子自身のイメージとして定着
してしまいました。


歌うときは直立不動で、手を上げるのが精いっぱいといった
感じだったのが、実際もそうなんだろうと思われて
しまったんです。


大ヒットしすぎて、イメージが付いてしまったわけですね。  
そうしているうちに、他の歌手にはない、自分の強みである
踊りをやらせてもらえないことに、だんだん不満が募るよう
になりました。


私は何のために、3歳の頃からダンスの練習をしてきたん
だろう。踊れることが私の切り札だと思っていたのに、
踊るチャンスがない。  


なのに会社からは、「ルミ子、ダンスとかミュージカルとか
考えるな。日本ではそんなの商売にならないぞ」って言われて。


もう十分、叙情歌謡歌手でやっていけるのに、なぜ踊りだ
なんて面倒くさいことをやりたがるのか、分かってもらえ
ませんでした。


「これで私は変われる」 転機になった映画出演


転機になったのが、映画出演ですね。萩原健一さんと共演した
「誘拐報道」、そして翌年には大胆なヌードが話題になった
「白蛇抄」。


ヌードは事務所にも内緒だったんですって?  


はい。渡辺プロの晋社長は、デビュー当時から本当に私のこと
をかわいがってくださっていたんです。それはそれは手塩に
かけた、目の中に入れても痛くないルミちゃんが、ヌードだとは
何事かと、激怒されました。


ですから、「晋社長の死期を早めたのはルミ子だ」って、
みんなに言われました。


それだけ、自分の殻を破りたいとの思いが強かった。  


そうです。当時、どんな曲を出したら売れるのか、スタッフ
みんな試行錯誤していた時期でした。


私には、このまま歌謡曲歌手で終わりたくないという思いが
強くありました。 これは自ら小石を投げて、波立たせるしか
ないと考えていた時に、誘拐報道の話が舞い込んで
きたんです。


知り合いの関係者から「監督がどうしてもルミ子ちゃんを
相手役に使いたいと渡辺プロに申し入れたけど、ほぼ
門前払い。何とか台本だけでも読んでくれ」と頼まれました。


事務所を通していてはラチが明かないので、じかに依頼
されたわけですね。  


台本を読んで、「これで私は変われる」と思いました。
きらびやかな小柳ルミ子のドレスを脱ぎ捨てて、生活感
あふれる、ほとんどノーメイクに近いリアルな役です。
これで変われると思ったわけです。


白蛇抄の話も、実は誘拐報道の撮影中に、監督からお話を
いただいていました。原作を読んでいてくださいと。  


私は多面的なアーティストでありたいんです。洋と和、静と動、
淑女と悪女とか、両面が背中合わせであるアーティストに。


自分のことは自分が一番よく分かっているので、自分で自分
をプロデュースしていかないと、流されちゃうなって
思ったんですね。


離婚問題の真相は「墓場まで持って行きます」


ブログには、ご自身のことを「かつてはスキャンダルの女王
と呼ばれ」なんて書くなど、自虐的な記述もありますね。


結婚、離婚問題とかいろいろありました。  
事務所から独立したのは、結婚したせいでとよく誤解
されますが、全然違います。


マネジャーが現場につかなくなったのが、そもそもの
きっかけです。  


私は性格的にとことん我慢するんです。友達には、なんで
ルミ子はそこまで我慢するの、もう嫌なら辞めればいいし、
そこまで思い詰めて考える必要ないよって言われますけど。


事務所を辞めたのも、縁あったことを大事にして我慢して
我慢して、それでも改善されなかったんだから、もう仕方
ないよね、という感じでした。


独立後、2年間はキー局のテレビに出ることができなかった。
いわゆる干された?  


封建的な世界ですよね。ただそのときも、次にスポットライト
が当たる時までの充電期間だと考えて、歌のレッスンや
バレエ、タップダンスの練習にも通いました。ものは考え
ようなんですよね。


その後の離婚問題では、1億円の慰謝料を要求したとかで、
またまた、バッシングが。  


自分が気に入って結婚した相手ですし、相手のあることなので、
この話については、口にチャックをして、墓場まで持って
いきたいと思います。


真実とは全然違うんですけど、私がそこで反論したところで、
もっと大きなことになってしまうので。


「ながら」の筋トレ、柔軟、ストレッチで体形維持


もう何十年とかけて、太りにくい体質を作ってきました。
筋力を鍛えることと、ストレッチ、柔軟。これだけです。


サッカーの熱狂的なファンとして有名です。きょうも明け方
までご覧になっていたようですね。睡眠時間は大丈夫なん
ですか。  


全然、大丈夫です。それよりも、サッカーの試合をライブで
見ない方が、気になって具合が悪くなってしまいます。
ストレス発散は、何と言ってもサッカーのおかげですね。


小柳ルミ子さんは、福岡県福岡市にて誕生しました。
家族構成は、両親との3人家族の一人っ子です。
小柳さんの実父は、小柳運送店という店を経営していました。
ですが、小柳さんが3歳の時に結核で他界。


以後、小柳さんの母は7歳年下の男性と再婚をしています。
継父を実父と思って育った小柳さんは、小学校5年生のとき
に実父ではないと知り、ショックを受けたそうです。


小柳さんの母は、愛子さんといい、若い頃は歌手になるの
を夢見ていました。 ですが、その夢は叶わず、娘にその夢
を託します。


小柳さんがお腹の中にいる時から、「女の子を産む!
歌手にする!」と言っていたそうです。 そんな小柳さんは、
母の一心の夢を背負い、幼い頃から歌手になるための
習い事を多数こなします。


バレエ、ジャズダンス、タップダンス、歌、三味線、ピアノ、
日本舞踊、そしてサインの練習のために習字も習って
いたそうです。


小柳ルミ子さんは、宝塚音楽学校に進学。 宝塚音楽学校
は超難関の音楽学校。 数々のスターを生み出してきた
名門校です。


小柳さんは、40倍もの競争率を制し、成績5位でこの名門校
に合格をします。


この時、同校の先輩である梓みちよさんの知人を介し、
渡辺プロダクションに「歌手になりたい」と願い出ます。


そんな渡辺プロは、「宝塚を首席で卒業したら歌手にする」
と約束。 そして、小柳さんは見事、宝塚音楽学校を首席で
卒業します。


その後は「夏川るみ」の芸名で、宝塚歌劇団に入団。
2か月間、劇団にて活動後、退団をし、約束通り、歌手
としてデビューを果たします。


そして「わたしの城下町」で歌手デビュー後は、大ブレイク!
その年の紅白歌合戦にも出場し、スターへの階段を駆け
上っていきます。 以降も歌手、そして女優としてトップスター
として芸能界に君臨。 ・・・・










コシノジュンコさん(78)。「一卵性母娘」と呼ばれるほど親しく
なった2人を結び付けたのは、ショートボブの髪形、目元を
強調したメークなどお互いによく似たファッション感覚だった。



ブルゾンさんと出会ったきっかけはいつ、
何だったんですか。


渋谷で開いた私の誕生パーティーにブルゾンさんが来て
くれたのが最初の出会いです。


実はその数日前に彼女が私のブティックに来ていて、残念
ながら私は不在にしていたんですが、誕生パーティーがある
ことを知ったブルゾンさんが『ぜひ参加したい』とわざわざ
足を運んでくれました。


誕生会は会費制のサルサパーティー。
会場内は音楽がガンガン鳴っていたし、お客さんが大勢
来ていたので、それほどゆっくりとは話せませんでしたが、
ブルゾンさんの方から丁寧にあいさつしてもらいました。


髪形もメークもなんだか私によく似ていたし、会ってすぐに
『面白そうな人だな』と思ったのが第一印象です」


まだブルゾンさんがブレークする前のことですね。


「ブルゾンさん(岡山県出身)は芸能人を目指して上京したとき、
雰囲気が私によく似ていると周囲からよく言われていたそうです。


それがきっかけで私のファッションやスタイルを意識する
ようになり、『いつかコシノジュンコさんに会いたい』と思う
ようになってくれたらしい。


それまでブルゾンさんのことはよく知りませんでしたが、
名前が個性的だし、おかっぱのヘアスタイルやメークも
私に似ているので『フィーリングが合いそうだな』と感じました。


面識もないのに私に会いに来るという行動力自体が
すごいことでしょう。とても好感が持てました。


当時、彼女はタレントとしての将来に多少の迷いがあった
ようなので、『そのスタイル、とってもすてきじゃない。
よく似合っているから、そのままでいいんじゃない。
応援するわよ』なんてアドバイスしたのを覚えています。


実際の会話がドコモCMに、


「24時間テレビ」マラソンを応援


年が明けてから「キャリアウーマン」などのネタが大ブレーク
しましたね。 「ビックリしました。


テレビを見ていたら、ブルゾンさんが2人のイケメンの男性
(with B)を従えて『35億……』とつぶやく面白いネタをやって、
大受けしていたのですごくうれしかった。


笑いが知的だし、人間的にも素直で頑張り屋でいい子
なんですよ。そしたらNTTドコモのCMの話が広告代理店
から来て、なんとブルゾンさんの母親という設定で共演する
ことになってしまった。


私、CM出演は、3度目ですが、決められたセリフを話すのが
どうも苦手なんです。カンペを出してもらっても目が泳いで
演技が不自然になってしまう。


でも今回は『いいのよ、ちえみはずーとこのままで』とか、
『とってもすてきよ』とか、実際にブルゾンさんと交わした会話
がそのままセリフになっていたのですごく楽にできました。
撮影も1時間ほどで終わりました」


ブルゾンさんは17年8月の「24時間テレビ」(日本テレビ)の
チャリティーマラソンで90キロを見事に完走しましたね。


「あのときはテレビの前でハラハラしながら応援していました。
マラソンのゴール地点の日本武道館まですぐに飛んで
行きたいくらいの気持ちだった。


90キロを完走するなんてすごい忍耐力。
放映の数日後に私のブティックに来てくれたので、
『ブルゾンちえみさん 完走オメデトウ』と書いたゴールテープ
を用意して一緒にお祝いしました。


90キロも走ったんだから、筋肉痛でとても歩けないのが普通
でしょうが、彼女は平気でスタスタと歩いていたのでその体力
に驚きました。


学生時代に陸上競技をやっていた影響もあるんでしょうね。
ブルゾンさんの大胆な行動力や不断の努力が、多くの人の
感動を呼び、今の彼女の成功につながっていると思うと本当
にうれしいです。


苦労している場面も見ているから、心から祝福したい気持ちで
いっぱいです。ただ、51歳も離れているから、娘というよりは
孫という感じですが……」


お笑いトリオ、ロバートの秋山竜次さんも架空のクリエーター
になりきるギャグシリーズでコシノさんによく似たキャラクター
を演じていますね。


「あれは絶対に私を意識していますよね。秋山さん自身からは
いままで何のコンタクトもありませんが、今春、ある会合で秋山
さんの弟さんに偶然にお会いしたとき、


『初めまして、ロバートの秋山の弟です。いつも兄がコシノさん
のまねをしていて大変お世話になっています』と挨拶して
くれました。


私、いろいろな方からものまねされても全然、抵抗はあり
ません。遊びの感覚が大好きだし、ありがたいことだと
思っています。


振り返れば、タイガースやスパイダースなどの衣装デザインを
手がけたのも、篠山紀信さん、宇野亜喜良さん、寺山修司
さんら文化人と親しくなったのも、すべて人との何気ない
出会いがきっかけでした。


ブルゾンさんのように才能を秘めた若者たちに送る
メッセージはありますか。


「自分から心の壁を決して築くなということですね。
人間は知らず知らずのうちに、未知の世界や人に対して
見えない壁を築き、居心地の良い自分の世界にこもりがち
になるもの。


でも重要なのは、いかに目を外に向け、積極的に足を踏み
出すか。ブルゾンさんも、思い切って行動する勇気や努力を
積み重ねたからチャンスをつかんだように、様々な人に
出会ってこそ初めて自分の運命も開けてゆく。


自分の才能や運命を切り開くためにも、どんどん挑戦を
続けて欲しいですね」 ・・・






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