妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・THE ライフ












日本の出生数が90万人を割れました。出生期の女性が
減ったことが大きな要因です。


ですが、これだけは知ってほしい。産まれてくることができ
なかった赤ちゃんがこんなにもいることを…


戦後間もない1948年7月13日に公布・施行された。
そのときは「優生保護法」という名称だった。


お腹に宿った子が、親にとって不都合な場合、母体の保護
を目的として中絶を認めるという法律である。  


戦前・戦中の「産めよ、殖やせよ」政策の影響で増えすぎた
人口を抑えようという政府の思惑があった。


「1人の女性が5人も6人も産むのは健康上問題がある」
と産児制限の必要性を訴える女性団体の主張もあった。


また、強姦による妊娠件数も少なくない時代だった。
「中絶やむなし」の風潮は、確かにあった。  
翌年には「経済的な理由」が認められ、一気に中絶件数
は増えていった。  


その後、この法律を巡って経済団体や宗教団体、障害者
団体が異議を申し立て、約半世紀にわたり激しい議論が
展開された。


国会に何度も改正案が提出されては廃案となった。  
1996年にやっと国会を通過し、現在の名称になった。


中身を見てみると、4条から13条、16条から24条にかけての
条項が「削除」と明記されている。激しい議論の爪痕が見て
取れる。  


そして、「妊娠の継続、または分娩が母体の健康を害する
おそれがある場合」、「暴力によって妊娠した場合」、
「経済的な理由」、この三つのケースに限って、人工妊娠中絶
は認められることになった。  


ただ、法律はいかようにも解釈され、運用される。
平成18年9月号の『生命尊重ニュース』に掲載された
広島大学の金澤文雄名誉教授のレポートによると、


その前年の中絶件数約31万件のうち、95%が「経済的理由」
によるものだった。  


ところが、中絶経験者に「中絶の理由」を聞き取り調査した
別の報告書によると、「経済的余裕がない」「相手と結婚
していない」「仕事や学業を中断したくない」「相手との将来
が描けない」「育児に自信がない」「これ以上子どもは
ほしくない」など理由は様々で、・・・


「母体の健康を害するおそれがあった」のは6.3%に
すぎなかった。  


かくして法律が施行された1948年から今日までの約70年の
間に、生まれてくることができなかった胎児は7600万人を
超えるそうだ。  


かつて「人のいのちは地球より重い」と言った総理大臣がいた。
建前では皆「この世の中にいのちより大事なものはない」
という。


日本人のいのちに対する定義の中に「胎児」は入って
いないのだろうか。  


1973年、現在の中央教育審議会が創設される前、その準備
段階で設置された総理大臣の諮問機関「文化と教育に関する
懇談会」の席上、委員の1人だったNHKアナウンサー(当時)
の鈴木健二さんがこんなことを発言していた。  


「胎内に受精卵が着床した瞬間、生命は誕生し、この時点
からすべての人間はあらゆる種類の良い教育を受ける
権利を持つ」(『生命尊重ニュース』より)  


確かに生命は胎内から始まっている。戦前、生まれた日を
1歳の誕生日としていたのは、お腹の中にいた十月十日も
ちゃんと年齢にカウントされていたからだ。  


中絶は、やむを得ないケースもあると思う。だから頭ごなしに
「悪」と言っているのではない。「こんな悲しいことはない」
と言っているのだ。  


「生めない」「育てられない」という現実や不安があることを
考えると、そこに何らかのサポートがあったら、


年間約18万人、1日約500人の赤ちゃんの大半は、
生まれてくることができる。  


出生率の向上や子育て支援は今や政治の最重要課題の
一つである。これらの問題に取り組むとき、どうかこの数字
を前面に出して議論していただきたい。  


author:日本講演新聞・水谷もりひと社説 より・・・・












私が結婚した年の暮れ、今から20年前、実家にいた兄が
亡くなった。まだ死ぬには早すぎる歳だった。


父と母より兄が早く亡くなるなんて想像したこともなかった。
葬儀の時にはずっと涙が止まらなかった。普段泣くことなんか
あまりなかったので、夫は驚いただろう。


亡くなった兄と私は7歳違う。私と姉とは10歳も年が
離れている。小学校低学年の頃は、サザエさんみたいな
関係かと思っていたが、どうやら違うと中学年で気が付き、


小学校高学年のころに母から、ステップファミリーだと知ら
されたような記憶がある。


私がそれを知ったころ、すでに20歳を過ぎていた姉は、
細面の美人で私の憧れだったし、兄は高校の生徒会長で
モテモテで、剣道が強くて、自慢の兄だった。


ごく普通の家族だと思っていたのが、そうではなかったと
知って、「驚き」と「やっぱり」が入り混じる不思議な感覚だった。


父はもともと教員で、兄と姉の実母は看護師で、父が結核で
サナトリウムに入院していた時に知り合い、結婚したが、
その後離婚したそうだ。


離婚した際に、父の生家の旅館は兄と姉の実母がそのまま
住み続けて、父は家を出た。ところがその後、実母が急死
したために、幼い兄、姉が残された。


旅館業は回らなくなり、当時教員をしていたものの、校長と
上手くいっていなかった父が、教員をやめて旅館業を継ぎ、
兄と姉を育てることになった。


しかし、その時すでに、父は私の母と再婚して私が生まれて
いた。母は悩んだだろう。しかし、教師を辞めて、2歳だった
私を連れて、父と継子と一緒に暮らすことにしたのだそう。


母はその後、中学生になった私に、教師を辞めるんじゃ
なかった、とよく言っていた。私もそう思う。


私は、物心ついた頃からいろいろな違和感があって、
でもそれが何なのかずっと分からなかった。 例えばお正月、
親戚の人が年始の挨拶に来るとき、兄姉を父方の親戚
みんながちやほやと可愛がり、私が話しかけられることは
少なかった。


母方の親戚とは全く違うことが不思議だった。
私がたぶん4年生くらいで兄は高校生、姉が独立した頃、
私にとっては家がすべてだった。たくさんの本、ピアノがある
自分の居場所だと思っていた。


そんな中、父方の親戚が兄に「全部あなたのものになるの
だからね」「跡継ぎはあなただからね」など言うのを聞くたびに、
私は「自分の居場所はここじゃないんだ」「私には何も
ないんだ…」と心の奥がざわざわしていた。


父方の親戚の人たちは、私が何も分からないと思っていた
のかもしれないが、そんなことはない。そして彼ら親戚の人を、
成長するにつれてどんどん苦手になった。


一方、母方の親戚にはとても可愛がられていた。
夏休みになると母の実家の寺には従兄妹が集合した。
母の弟の子供が男子三人、妹の子供も男子三人、
母の姉の娘が一人、そして私だ。


幼稚園児、小学生が8人もお寺に集まり、御御堂に布団を
並べて泊まった。叔母は大変だっただろうと思う。


同じような年代の子供が8人で、お寺の裏に流れる小川で
遊んでヒルにくっつかれたり、歩いてすぐの海で遊んだり、
竹林の中を走り回ったり、薄暗い御御堂の裏でかくれんぼ
をしたりした。御御堂のぬれ縁でみんなでスイカを食べて、
べたべたした手を庭の鹿威しで洗って叱られた。
子供の頃、毎年繰り返された思い出は私の宝物だ。


現在、私は夫と子供1人、3人で暮らしている。
父方の親族との付き合いはほとんどないし、今後も付き合う
ことはないと思う。


兄が亡くなり父が亡くなったので一気に縁が薄くなった。
今にして思えば、親戚が相続についてずけずけと介入する
のなら、いっそ旅館は親戚が買い取って経営すればよかった
のだと思う。


兄にすべてを相続させると言っていたのは、後妻に入った
母には何もない、と言いたかったのだろうか。母もまた、
私よりももっと疎外感を味わっていたに違いない。


もしも、父も母も教員のまま、旅館は経営しないし、兄姉とは
一緒に暮らさない、という決断をしたら、私はもっと楽天的な、
子供らしい子供でいられただろう。


夫とは結婚するときに一つだけ約束をした。
「私は夫が不安になるようなことは一切しない」そのかわり
「夫は絶対に浮気をしない」もしも破ったら「即離婚」という
約束だ。


しかし、子供が生まれてから、この約束はあまりにも短絡的で、
極端ではないかと思うようになった。だから「即離婚」はしないし
「再婚」もしない。


それはステップファミリーを子供の立場で経験した私の、
息子への約束だ。







年配の女性が、全く知らない東北の地にお嫁に来て、
3人の子供を育てていた二十代の思い出を、ある新聞に
投稿していた。


……買い物帰りの夕方、2人の幼子の手を引き、背中
には乳飲み子。


母親は土手をとぼとぼ歩いていた。よほど疲れた顔をして
いたのだろう。


向こうから来た、作業服のおじさんがすれ違いに様に声を
掛けた。


「母ちゃんえらいな。だけどもうちょっとの辛抱だよ。
もうちょっとがんばれよ。もうすぐ楽になるからな」


そう言っておじさんは通り過ぎた。
若い母親の目から涙が溢れて止まらなかった。


知らない土地で、知らない人に掛けられたほんの
一言に支えられてここまで生きてきた。


今の自分があるのはあの時のおじさんのあの
言葉のおかげだ……






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