妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・歌物語













「居酒屋兆治」(1983年)は女優として初の本格デビューに
なりましたね。


私が女房役では納得できない …「最初はかたくなにお断り
していたんです。だって私、プロの女優じゃないし、健さんの
大ファンでしたから。


健さんの女房役を私がやるなんて、一人のファンとしても
絶対に納得できなかった。


でもプロデューサーが来て『女優ではなく、加藤登紀子
として出てほしいんです』と熱心に説得されたので、『
そこまで言ってくださるなら』とお引き受けすることに
しました」


なぜ素人の加藤さんを起用したのでしょうか。


「これは推測ですが、映画の中で函館の居酒屋主人を演じた
健さんが、暴言を吐いた客を我慢できずに殴って警察に捕まり、
私が出迎えに行くシーンがあるんです。


私、実生活でも学生運動のリーダーだった藤本敏夫と
獄中結婚し、接見したり、出所を出迎えたりしていましたから、
そのイメージが皆の頭にあったんじゃないでしょうか。


警察署を一緒に出て、並んで波止場を歩くシーンで私がふと
物思いにふけっていると、健さんが私の顔をのぞき込みながら
『(ご主人のことを)思い出すんですか……』と突然、
おっしゃったので驚きました」


インタビューでビックリ質問


任侠映画「昭和残侠伝」シリーズ(65~72年)の主役だった
健さんは左翼学生たちのヒーローでしたからね。


「そうなんですよ。反帝全学連委員長だった藤本も熱狂的な
ファンで、そのしぐさまで熱心に研究してマネしていましたから
……。


健さんは、そんな学生運動家たちに自分の映画が広く支持され
ていたことをかなり意識していたようです。藤本の葬儀
(2002年7月死去)にも、一周忌にも、お花を贈っていただき
ました。とてもうれしかったです。


私、映画の中で何も演技をしていないのに、スタッフのほか、
珍しく降旗康男監督までが『とても良かったですよ』と褒めて
くださった。


皆さんが藤本のイメージをダブらせながら映画の中の私を
見ていたような気がします」


夫の藤本さんが映画を間接的に結び付けたわけですね。


「そういう部分はあったと思います。でも私に出演依頼が
来たのは、ほかにも伏線があります。実はその数年前、
雑誌のインタビューで健さんにお会いしているんです。


健さんは降旗康男監督の『冬の華』(78年)を撮影中で、
私の新曲『時代おくれの酒場』も聞いていただきました。


そんな縁があったので、『居酒屋兆治』で私が健さんの
女房役で出演し、『時代おくれの酒場』が主題歌になった
のかもしれません」


健さんへのインタビューでは何を聞いたんですか。


「私、困ったことに、誰にでも平気でとんでもないことを聞い
ちゃうタイプなんです。


健さんには『どこでもいいから、隠し子をつくったらどうですか』
なんてぶしつけな質問をしてしまいました。


今から振り返ると、よくそんな大胆なことを聞けたなと思い
ますが、健さんは日本の宝ですからね……。
その遺伝子は絶対に残しておいた方がいいと思ったんです」


健さんは江利チエミさんと離婚した後、独身を貫きましたからね。
反応はどうでしたか。


「すると、怒られるわけでもなく、意外にも本人が面白がって、
『それ、いいね。じゃ、隠し子、つくっちゃおうか……。
あの娘なんかどうだろう?』なんて笑いながらノリノリで
答えてくれました。


おかげでその場は大爆笑。健さんって、無口なイメージが
あるけど、普段はよくしゃべるし、とても陽気で冗談好き
なんです。


ただ人への気配りはきめ細かいし、とても心が温かい人。
それは強く印象に残っています」


映画出演で演技の極意はつかめましたか。


「クランクインで私、ひどく緊張しちゃって、セリフを言った後、
『キーが少し高かったかしら』なんてつぶやいてしまった。


そしたら健さんが『キーなんて気にしないでくださいよ』と
ゲラゲラ笑い出したんです。


『演技なんてしなくていいですから。そこで遊んでいてください』
とも言われた。それで気分が一気にほぐれて、後の撮影は
楽に臨めるようになりました」


「健さんがすごい名優だなと感心したのは、ここぞという演技
は1度しかやらないこと。終盤に2人でやり取りする長回しの
シーンがあって、最初はどうせ練習だろうと思って気軽に
やっていたら、『はい、OKです』と言われてビックリ。


あっさり本番が終わってしまった。『え、これでいいの?』
とこちらが戸惑ったくらい……」


『居酒屋兆治』は歌も思い出深いですね。


函館の温泉旅館で皆で宴会したんですが、私は健さんが
主演した『網走番外地』の主題歌を弾き語りで歌ったんです。
それで『はい、2番をどうぞ』ってマイクを手渡したら、なんと
健さんがそのまま歌い始めた。


『ああいう場面では健さんはめったに歌わないんですよ』と
周囲が驚いていました。そんなこともあり、健さんに映画の
中で『時代おくれの酒場』を歌ってほしいと願いしたら、
すんなり快諾してくれました。


こうして健さんの歌声が映画のエンディングに流れることに
なったんです」


貫禄あった加賀まりこさん、立ちたくない理由は二日酔い


加藤さんは東京大学演劇研究会出身ですが、もともと演技に
興味があったんですか。


「ええ、かつて女優を夢見た時期もありましたね。発声練習や
身体訓練に励みながら、女優、衣装係、小道具を掛け持ち
していました。


出演3作目かな。英国の劇作家アーノルド・ウェスカーの
『大麦入りのチキンスープ』で主役も演じています。
英国の下町の肝っ玉母さんの役。


あまり知られていませんけど、実は『居酒屋兆治』に出る前、
渡哲也さん主演の日活のヤクザ映画『拳銃無宿 脱獄の
ブルース』(65年)にも歌手役で出ているんですよ」


テレビドラマはどうですか。


「『お多江さん』(68年TBS系で放映)というホームドラマに
加賀まりこさん、中山千夏さん、淡島千景さん、加東大介
さんらと出演したこともあります。


加賀さん、中山さんとはいつも一緒。よく飲み歩いていたので
面白かった。加賀さんは私と同い年だけど、堂々としていて
貫禄がすごいんです。


たとえばドラマの立ちげいこで、演出家が『すみません、
加賀さん。立ってやってもらえませんか』と頼んでも、
『なぜ立たないといけないの? 私、立たなくていいと
思います』なんて全然言うことを聞いてくれない。


演出家はオロオロするばかり。でも、本当は二日酔いが
理由で加賀さんが立ちたくなかったことを知っていたから、
私たちは陰でクスクス笑っていました」 ・・・・












大阪湾へは商店街から約1キロ。今では近代的な商業モール
や多目的ホールなどが立ち並ぶが、当時は海水浴もできる
白い砂浜が広がっていた。


海のはるか向こうに六甲の青い山並みも見える。
私は大好きなお母ちゃんと一緒にいられるうれしさもあり、
時間がたつのも忘れて砂遊びに興じていた。


お母ちゃんは黙って海を見つめている。1時間、2時間……。
夕日が西空を朱色に染め、やがて辺りが薄暗くなってきた。


「なあ、はよ帰ろ……」 ただならぬ空気を察したのか、
私はお母ちゃんの顔を見上げて不安げにつぶやいた。


するとお母ちゃんはハッと我に返った表情を浮かべ、
ようやくいつもの明るい笑顔を見せたのだ。


そして砂浜に穴を掘り、「アホー」と叫んでから再び埋め戻した。
それが何を意味していたのか・…。私にはよく分からない。


後で聞いた話だが、どうやら、父はお母ちゃんに隠れて浮気
をしていたらしい。父が出征した後、それに初めて気がついた。


婿養子の父は肩身が狭かっただろうし、仕事ばかりに精を
出す妻に不満を感じていたのかもしれない。


だがお母ちゃんが受けたショックは小さくなかった。
「裏切られた」という深い傷は心に長く残ったようだ。
砂浜で見せた寂しそうな横顔が今も目に焼き付いている。


ところが数年後、お母ちゃんが灼熱(しゃくねつ)の恋に
身を焦がすことになる。


相手は仕事で知り合った紳士服の仕立屋。しかも妻子がある
男性だった。


相手の家庭を考えると心境は複雑だったが、私たち三姉妹は
陽気で優しいこの男性のことを「おっちゃん」と呼び、すぐに
懐いてしまった。


戦死した父の面影をどこかに求めていたのかもしれない。
おっちゃんは我が家をちょくちょく訪れ、お母ちゃんと晩酌や
夕食を楽しむようになった。


いつ来るかはお母ちゃんの顔を見れば大概は分かる。
ほんのりと頬が上気し、妙に艶っぽくなるからだ。


仕事を早めに切り上げたお母ちゃんが鼻歌交じりに豚の
酒蒸しや水炊きを作り、熱かんを付けている。


おっちゃんは私たち姉妹を見つけると、優しい笑顔をさらに
崩して財布からお小遣いをくれた。だから私たちはおっちゃん
が来るのを楽しみにしていた。


中学の頃、私は恥ずかしい事件を起こした。


映画「ローマの休日」をまねて、店先でふざけてスクーターで
遊んでいたら、無免許運転で警官に捕まってしまったのだ。
身元引受人として迎えに来てくれたのがおっちゃんだった。


「もうあかんで……」。細かく理由も聞かず、静かに私の
手を握ってくれた。その時、新しい父親ができたような気が
して、ちょっぴりうれしかったのを思えている。


とはいえ、おっちゃんの奥さんや子どもさんが家の近所に
住んでいたから、私たちの居心地はやはり悪かった。


大人の事情は詳しく分からないが、おっちゃんは正式には
離婚せず、長年、お母ちゃんと一緒に夫婦のような生活を
送り続ける。


小さな街では噂が広がるのも速い。先方のご家族も、
さぞかし不愉快でつらい思いをされたに違いない。


そう思うと、何だかほろ苦い気持ちで胸がいっぱいになる。
・・・






×

非ログインユーザーとして返信する