妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・一考編













子育てと介護が同時期に発生する状態を「ダブルケア」という。


通常、子育ては両親が行い、介護は親族が行うのが一般的
だが、昨今、両方の負担が1人に集中することが少なくない。
肉体的にも精神的にも過酷なダブルケアは誰にでも起こり得る。


関東地方に在住の清水陽子さん(仮名・46歳・既婚)
22歳で結婚後すぐに妊娠・出産。生まれた息子は最重度
知的障害・自閉症だった。


夫が職場でのパワハラで鬱病になり、義父と実父は他界し、
実母も重い病気に罹った。





関東地方に在住の清水陽子さん(仮名・46歳・既婚)は、
高校卒業後、銀行に就職。7歳年上の夫と知り合い、1996年
に22歳で結婚。翌年妊娠が分かると、出産のタイミングで
退職することにした。


結局出産の1週間前まで働いていた清水さんだったが、5月に
破水が起こり、産院へ行くと、看護師に「これは(普通の)
破水じゃないよ」と言われて帰宅。


翌日も破水があり、産院へ行くと、主治医に「何でもっと早く
来なかったの? 生まれても、知的障害とか、肺炎とか、
髄膜炎とかが出るかもしれないよ?」と言われ、分娩室へ
向かいながら、内心大パニックになった。


「知的障害とか自閉症は、脳に明確な異常が見られるわけ
ではなく、産後しばらくは違いがわかりません。


しかし成長するにつれて、他の子との差が明確に現れてきて、
『うちの子は何でこんなこともできないの?』と思うことが
多くなっていきました」


息子は、抱っこしてもおんぶしてものけ反るため、おんぶ紐を
すり抜けて落ちてしまいそうで怖かった清水さんは、常に
ぎゅっと強く抱っこしていた。


また、話しかけても、名前を呼んでも相手の顔を見ようとしない。
絵本を見せても、「犬はどれ?」と訊ねても、興味を示さず、
ただ大泣きするだけ。


1歳半検診のとき、まだ言葉が出なかった息子は、小児科へ
かかるようすすめられる。


ところが、脳波を調べたり、CTを撮ったりしても異常は
見られず、「3歳にならないと診断はできないので、それまで
は成長過程を見守りましょう」と医師に言われた。


「当時(1990年代後半)は手元にパソコンもスマホもなく、
医師からも役所の保健師さんからもお母さん友だちからも、
みんな母親の私に気を遣ってか、『どこも悪くないよ』
『普通だよ』と言われてきましたが、それが辛かった。


私も夫も『おかしい』と思っているのに、何がおかしいのかは
わからず、誰も教えてくれず、ずっと悶々としているのが
地獄のように苦しかったです」


銀行員の夫は朝早くに出勤し、夜遅くまで帰ってこない。
清水さんは、朝から晩までグズグズな息子に振り回されて
クタクタになっており、夫が帰宅する頃にはぐったり。


部屋の中は、息子が暴れて壊したり、食事をこぼしたり
したあと、清水さんが疲れ果てて、片付けられずにその
ままになっていることもしばしばだった。


そんな中、息子が2歳になった頃、清水さんは大量に下血。
夫の運転で病院を受診すると、大腸からの出血と分かり、
大学病院に入院することに。


医師から原因はストレスだと言われ、入院中は車で2時間
くらいのところにある、清水さんの実家に息子を預けた。


やがて、3歳が目前に迫る頃、児童相談所を訪れると、
息子をひと目見た児童相談所の所長が言った。


「お母さん、この子は自閉症ですね」 それを聞いた瞬間、
清水さんは所長の手を握り、「やっと言ってくれました! 
ありがとう!」と固く握手をしていた。


3歳になったとき、ついた診断名は、「知的障害を含む
自閉症」。知的障害のレベルは最重度で、言葉が出ず、
人とコミュニケーションが取れず、こだわりが強いという
特徴があった。





息子が3歳で通園施設に通い出すと、清水さんは、
「大好きな100円ショップでゆっくり買い物がしたい」という
夢を叶えようと実行に移した。


息子は数秒もじっとしていてくれないため、商品をゆっくり
見られないだけでなく、レジでお会計するにも、大暴れする
息子を取り押さえながら財布を出して、やっと購入できると
いう感じだったのだ。


ワクワクしながら店に入ると、清水さんは涙が溢れてきた。
「息子が生まれてから、1人でこんなにゆっくり買い物が
できる日が来るとは、想像する余裕さえありませんでした。


通園施設のありがたさを噛み締めつつも、息子が障害児
という現実は重く、涙が止まらなくなりながらも、他のお客さん
に気が付かれないように、存分に買物を楽しみました」


息子は小学校に入学する年に、養護学校に入った。
清水さんは、息子が居ない間に家事や買物を済ませる。


息子は目を離すと何をし始めるか分からず、言葉で注意して
も通じないため、危ないものから遠ざけ、安全な環境を
作ったうえで、気の済むまでやらせるしかない。


些細なことで機嫌が悪くなると、物を投げたり壊したり、
清水さんに掴みかかってきたりすることもあった。





息子が中学生になった夏休み。ずっと家の中にいると息子
が機嫌を悪くなるため、買物にでも行こうかと車に乗ったとき、
ルームミラーに写った自分の顔に一瞬目が止まる。


口が異様に曲がっていたのだ。「あれ? なんでだろ。嫌だな、
変な癖がついちゃったかな」。そのときは特に気にもとめず、
そのまま出かけた。 しかし夜になると、だんだん不安に
なってくる。


顔の右側だけ下がってきて、右目は瞬きができない。
口の右端が半開きのまま閉じないため、飲み物を飲んでも
こぼしてしまう。


深夜に帰宅した夫に「絶対おかしいよ。病院に行きなよ」と
心配され、「脳が原因だったらどうしよう?」と動揺する。


翌朝、行きつけの内科に電話したところ、「ああ、それは
耳鼻科なので、耳鼻科で相談してみてください」と言われ、
近所の耳鼻科へ行くと、「入院ですね」と言って大学病院
への紹介状を書かれた。


「耳の中の神経がストレスで壊れてしまったらしく、表情が
動かせなくなっていたようです。治療は、強いステロイドを
大量に点滴で投与し、監視が必要になるため、入院しない
といけませんでした」


入院中は、車で1時間半ほどのところで一人暮らしをしている
義母が来て、息子や夫の世話をしてくれた。


「息子は中学生くらいまでは、常にイライラしている感じでした。
気に入らないことがあるとパニック状態になり、地団駄を
踏んで、窓ガラスをバンバン叩いて怒っていました。


一番ひどかったのは、15歳の時です。


虫歯の治療の後、麻酔が切れて痛みが出てきたせいで
パニックになり、テーブルやテレビなど、リビング・ダイニング
にあるものをほとんどなぎ倒して暴れました。


私は身の危険を感じて外に避難し、そろそろ落ち着いた
かなと思って玄関を開けると、息子が血まみれで立って
いました」


息子は、割ったガラスのコップで手を切り、その手であちこち
触ったため、家の中はまるで殺人事件現場のよう。


冷蔵庫の引き出しの手をかけるくぼみには、血が数ミリ
溜まっていた。 清水さんは真っ青になり、すぐさま夫に
電話する。


仕事中だったが、電話に出た夫は救急車を呼ぶよう言った。
救急車が到着すると、清水さんは事情を説明。救急隊員は
血だらけの息子を見て、「最近子どもの虐待が多いため、
決まりなので、念のため家の中を見せてもらいますね」
と言って家の中を確認。血のついたコップを発見し、
「このコップですね」と言い、テキパキと応急処置をした。


病院に到着すると、息子は暴れて傷口を縫えないため、
包帯を巻かれて終了。仕事帰りの夫と落ち合い、3人で
タクシーに乗って帰ると、大惨事の後片付けをした。





清水さんの義父は、40代でベーチェット病を発症。
発症以降、闘病を続けてきたが、70代に入ってから急激に悪化。


清水さんは障害を持つ息子を抱えながら、義父の病院への
送迎や病院手続きなどをする義母をサポートした。


夫には姉がいるが、関西に住んでいるため、あてにできない。
息子が中学生に上がる頃(2010年頃)、義父は肺がんを併発し、
帰らぬ人となった(享年78歳)。


その頃から清水さん(当時36歳)は入浴中、発作的に強い
不安に襲われることが増える。


「ふと、息子と自分の将来について考えると、強い不安に
襲われて、まるで今現在、自分が死んだような気持ちになり、
息子を1人にしてしまう恐怖感で耐えられなくなりました」


しばらくして夫(当時43歳)が転勤になり、上司からパワハラ
を受け始めた。夫はストレスから精神のバランスを崩し、
心療内科に通い始める。幸い夫の味方は多く、深刻な状況
にはならなかったが、主治医に夫が清水さんのことを話した
ところ、「奥さんのほうが心配だから連れて来てください」
と言われた。


清水さんは気が進まなかったが、障害の程度を判定する
障害者区分認定を受けるために、息子を心療内科に連れて
行く必要があったため、ついでに自分も受診。


清水さん自身は自覚がなかったが、医師は清水さんの不眠を
見抜き、睡眠導入剤と抗不安薬を処方した。


ところが、息子の養護学校卒業が迫ると、清水さんは再び
強い不安に襲われ始めた。


「養護学校は、子どもも親も同じ境遇の人ばかりで居心地が
良く、ふと、『もうすぐ卒業か、せっかくできたお母さん友だち
との交流も減るだろうな』と思ったら、急に恐怖心が湧いて
きたのです」


そこで清水さんは、「働きに行こう! 新しいコミュニティが
できるし、お給料ももらえて、役に立つこともできる!」と
思い立つ。


清水さんは週3~4日、大好きな100円ショップでパートとして
働き始めた。 「息子や夫の世話をしても感謝されませんが、
お客さんからは喜んでもらえます。


仕事に行くと気持ちがシャキっとするので、私にとっては
すごくいい気分転換になりました」


しかし2017年。再び夫(当時51歳)が転勤になり、新しい上司
からパワハラを受け始める。前支店では味方が多かったが、
今回はほぼ全員が上司側につき、夫は苦しんだ。


それでも夫は半年ほど頑張っていたが、適応障害と鬱病の
診断書が出されると、夫は問題の上司に診断書を提出し、
1年間の休職に入った。


そして2018年末。会社から今後の選択肢を提示され、
夫は退職を選んだ。









「臭い」  


眠れず真夜中海へ行った。海の臭いが鼻を突いた。
死んでいるのか生きているのか。明か暗か。不安なのか
安心なのか。希望なのか絶望なのか。喜んでいるのか
悲しんでいるのか。ゼロなのか無限なのか。愛なのか
悪なのか。黒なのか透明なのか。…


真夜中の海はそんな臭いがした。


翌日、母の胃に穴を開けた。
母に無断で母の胃に穴を開けた。
そこから直接胃へ食事を入れるために。


この管の奥には、母の胃の中の暗闇が、真夜中の
海のように広がっているにちがいない。


母がしっかりと私の手を握って離さない。
今日から母の意志とは関係なく母は生かされていく。


味わうこともなく、噛むこともなく、飲み込むことも
ない自分が、なぜ生きているか?そんな疑問も
母にはわくはずもなく。  


「母さん手術ご苦労さん。今日から元気になって
元に戻るぞ。」顔を寄せて自分で自分を励ますように
母に声をかける。


「何言ってんだ」と母がゴポッとゲップをした。
口から臭う独特の臭い…。真夜中の海の臭いがした。  


スパゲッティ症候群という言葉がある。


決してスパゲッティを毎日食べずにはおられない病気と
いうわけではない。身体中にチューブやセンサーなどを
体にさしこまれた重症患者のことを嘲弄(ちょうろう)して
そう呼ぶのだそうだ。


気道チューブ、導尿バルン、動脈ライン、サチュレーション
モニタなどの重なりをスパゲティの麺に見立てているの
だろうが、つながれたうえ、揶揄(やゆ)されたのでは
重症患者にとってはたまったものではない。


このような管につながる場合、意識をなくしているか、
判断力を失っている場合が多いからだ。


つまり、スパゲッティ症候群という病的傾向の主は、
それを判断する側である家族であると考えるのが道理
だと思う。  


そういう意味では、私はスパゲッティ症候群ということになる。
母が食事をせず亡くなろうとするとき、母に胃瘻をつないで、
母を「生かされている」存在にした。


理想が機械による長生きではなく、自然な状態で死を迎える
というQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の考え方もよく分かるし、
自分の場合も自然な状態で死を迎えたいと思う。


しかし、母のこととなると簡単にはいかなかった。  
認知症の母を、私の住む街に連れてきた。
この病気は環境が変わると病気も進む場合が多いと
聞いていた。


案の定、母もこの例にもれず、片言で喋っていた言葉も
なくし、歩かなくなって車いすの生活になり、食べ物を嚥下
(えんげ)できなくなった。


母はみるみるやせていった。頬もこけ、二の腕は骨に
皮がぶら下がっているようになった。


そこで、胃瘻(いろう)造設の話を医師から聞いた。
その時、「胃瘻はどうされますか?」という医師の質問に、


私は驚いた。胃瘻を取り付けて、母を生かすのが当たり前
だと思っていたからだ。


「食事をしないということは死を迎えたことなんです」
と医師は続けた。  最終的には、胃瘻の造設をお願いしたが、
胃瘻の施術の前の夜まで悩んだ。


私が幼い頃、母といっしょにテレビを見たことを思い出した。
テレビの中の管につながれた植物状態の女性を見て、
「あんな状態になるまで生きていたくない」と母は言っていた。


そのことを思い出したけれど、胃瘻の造設を断ることが
できなかった。


「母さんいつまでも生きていてくれ」という思い。
亡き父に母の介護を頼まれて、母を死なせるわけには
いかないという思い。


お父さんはあんなに一生懸命介護していたのに、
息子は介護を放棄してお母さんを死なせたと思われる
のではないかという人の目も気になった。


母もこの朦朧(もうろう)とした意識の中で生きるより、
早く亡くなった父に会いたいのではないかとも思った。


認知症の母に、リビングウイル(尊厳死を求めて、事前に
延命を望まないという意思)を確認しようにも確認できる
はずもなく、いろんな思いが頭の中をぐるぐると回り続け、
施術の当日まで私は迷い続けた。  


母にとっての尊厳ある死は、胃瘻造設のあの時では
なかったのかと、今でも思うときがある。そして、
母のリビングウイルは、幼少の時のあのテレビを見て
の母の言葉ではなかったかと。


胃瘻造設以来、私に母は生かされてきたのではないか
と落ち込むときがある。でも、私にはあの時母を死なせる
ことはできなかった。


自然死こそ尊厳死である。


このことは重々分かっていたけれど、母を死なせることは
できなかったのだ。  


病院のベッドに横になり、私が声をかけると私を見つめて
声を上げる母がいる。そんな母の髪を解き、足をさすりながら、
「母のリビングウイルも変わることもあるだろう」と自分に
言い聞かせる。


そして、いつも胃瘻を造設してからのこの10年が頭をよぎる。
胃瘻を付け、生かされてからの母の「生」は決して無駄
ではなかった。


寝たきりの「そこにあるだけの存在」になってからも、
母は私に、認知症や介護を通していろんな経験をさせてくれた
。私を人間として育ててくれた。


言葉のない、ただ私を見つめるだけの母。これもまた、
人の「生」の立派な有り様だとつくづく思う。


スパゲッティ症候群だった私には、こう思うことがせめてもの
救いなのだ。  


先日、舌根が落ちて呼吸が困難になり、心房細動が続く母の
状況を医師から聞いた。脳の機能低下などから、突然呼吸が
止まることも考えられるので、その場合人工呼吸器を
どうするか?との相談もあった。


「母はこれまで一所懸命に認知症という病気と闘ってきました。
もうゆっくり休ませてあげたい。」と言って、人工呼吸器を断った。


そう言った後、「でも」と私が迷っていると、「今、すぐに決め
なくてもいいんです。気持ちが変わったら教えてください。」
との医師の言葉が心強かった。その言葉に、救われた
気がした。


人の気持ちは、移ろいやすいもの。確認しようもないが、
テレビを見ての母のリビングウイルも今はどうなのか
分からない。


私は、「自分の場合も自然な状態で死を迎えたいと思う」
と書いたが、今でも迷っているのだ。 ・・・・


・・・





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