妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・特別編














中学校を卒業したサキとトモ子は、それぞれ希望する
高校に進学し、3年生になりました。


中学時代、ともにソフトボール部で活躍していた二人でしたが、
別々の高校に進学し、それぞれソフトボールを続けました。


サキは、ある公立高校でエース兼キャプテンとしてチーム
の中心でした。しかし、全国大会を目指すようなチームでは
ありませんでした。


一方、背丈がぐんと伸びたトモ子は、県内有数のソフトボール
強豪校に進学しました。


しかし、自信が持てない性格がもたげてきたのか今一つ、
選手としてアピールできず、いつも補欠でした。


全国大会へとつながる、ある夏の大会でした。


サキのチームは前々日、早々に敗退したものの、トモ子の
チームは順調に決勝にコマを進めていました。


レフトのレギュラー選手がけがをしたため急遽、先発で
出場することになったというトモ子からのメールで、サキは
応援に駆け付けました。


決勝の相手はいつも優勝を争うライバル校でした。
全国大会の切符を懸けて、お互い一歩も譲らず0対0
のまま、7回の最終回を迎えました。 


トモ子のチームは、相手チームのエースに完全に抑えられ
ていました。しかし、最終回の表、エラーで出塁した打者が
足を絡めてこの試合はじめて3塁に達し、スクイズで執念
の1点を奪ったのです。


その裏です。相手も必死です。2アウトになりながら、
連続ヒットとフォアボールで満塁となりました。


サキはトモ子だけを応援していました。 というのは、
緊張の続くゲームで見せるどこか不安そうな、自信なさ
そうなトモ子を感じ取っていたからです。


「トモ子、がんばれ……あと一人だ。トモ子、がんばれ…」
相手チームのランナーは、ピッチャーが投球するたびに、
走るしぐさでけん制します。打者もファールで粘ります。


しかし、最後の打者が打ち上げたボールは、ふらふらと
レフトにあがりました。イージーフライです。 サキは、
「勝った……」 と思いました。


レフトの守備についているトモ子は、ゆっくりと落下地点に
移動し、捕球しようとグラブを構えました。


その時でした。トモ子は、グランド内の小さなくぼみに
足を取られ、転んでしまったのです。無残にも、ボール
は転んだトモ子の傍らにポトリと落ちたのです。


最終回、ツーアウトからの大逆転勝ちに狂喜する
相手チームを前に、トモ子はしばらく立ち上がることが
できず、チームメートに支えられてなんとか、ゲームセット
の挨拶に並んだのでした。


その後は、気丈にふるまっているように見えるトモ子でした。
しかし、サキは幼い頃から知っているトモ子の心中が
痛いほどわかりました。


試合が終わって、誰もいなくなった球場の外で、トモ子は
一人、しゃがみこんで泣いていました。かける言葉も
見つからないサキでした。


トモ子は泣きながらサキに言いました。
「サッちゃん、応援してくれたけど……わたし…」
「でも、精一杯やったじゃない……」
トモ子は泣きじゃくるばかりでした。


しかし、声を振り絞って、 「サッちゃん、わたし……今日で
ソフトをやめる……いつも、みんなに迷惑をかけて……
サッちゃんがいないチームでソフトをする力なんか、
わたしにはなかった……」


サキは、いつまでも泣きやまないトモ子の肩を抱きながら、
家まで送っていったのでした。


その後、サキには、トモ子がソフトボールを一切やめたこと、
目標を失ったトモ子の生活が乱れはじめていることが、
聞えてきました。


サキは高校を卒業した後、かねてから夢見ていた
婦人警察官の道を志しました。


約1年間の警察学校での研修を積んだあと、晴れて警察官
となり、生活安全課に配属となりました。


その日は、夜勤でした。ゲームセンターから、不良少年が
酔ってゲームセンターに居座り、他の客に迷惑をかけている、
と通報があり、先輩の男性警察官とゲームセンターに
行くことになりました。


着くと、5,6人の若者がタバコを吸って、ゲームに興じて
大騒ぎをしていました。若者らは、警察官の姿を見つけると、
その場から逃げ去りました。


しかし、先輩警察官は、その中の一人の女の子の腕を
つかんで逃がしませんでした。 「この子を確保していろ」
そう言い残して、逃げた若者を追いかけました。


サキは、暴れる女の子が逃げないようにしっかりと羽交い
絞めにしていました。 「放せよっ!」 その声に聞き覚えが
ありました。いや、声を聞くまでもなく分かりました。
トモ子でした。


酒とタバコのにおいをプンプンさせています。
サキは羽交い絞めにしたままつぶやきました。


「……トモ子……」
トモ子も、自分を後ろから羽交い絞めにしている警察官
をサキと分かり一瞬、動きをとめましたが、すぐにまた
暴れて 「おい、お巡り、なんでオレの名前を知ってるんだよ、
放せ……放せよ」


仲良しだったトモ子を今、羽交い絞めにしている状況を
サキ自身が理解できませんでした。


「放せ、放せよ……。オレを知っているんなら、放せよ」
トモ子も警察官がサキだと分かっていながら、サキの
名前を呼ぶことはありませんでした。


お互いに、この状況を理解できないでいたのです。


それでも一瞬、サキはトモ子を放そうか、と思いました。
暴れて逃げられたことにすればいい、と頭をかすめました。


しかし、 「トモ子、ごめん……できない。……放せない……
トモ子、ごめん…。」 涙があふれてきて止まりませんでした。
やがて、先輩警察官が戻ってきました。


「若いから、逃げ足は速いな、逃げてもすぐ身元は
バレるのに。あ、ちょっとあなた、何歳?」 トモ子に
聞きましたが、トモ子はそっぽを向いて暴れています。


サキは羽交い絞めにしたまま代わって答えました。
「19歳です」 「知り合いか?」 サキは、ただうなずきました。


先輩は、なおも暴れるトモ子を見て 「パトカーに乗せるまで、
つなぐか?」 縄か手錠をかけて逃げられないようにするか、
という先輩の言葉に・・・・


サキは、 「やめてください。おねがいします。
私がつれていきます」 と懇願したのでした。
警察署に着いてから、トモ子は少しずつ落ち着いてきました。


トモ子に補導歴はなかったので、保護者を呼んで飲酒と
タバコについて注意をし、引き渡すことになりました。


トモ子がサキに言いました。 「……お巡りになってたのか…」
落ち着きを取り戻したトモ子は、はじめてサキに向き合い、
話しかけました。しかし、これまでのようにサッちゃん、
と呼びません。


今、グレている自分が、仲良しだった頃と同じようにサキの
名前を口にすることはできなかったのです。


サキは応えました。 「…トモ子……おかしいでしょ?……
私、小学生の時にトモ子に罪を着せようとして、私の体操着
をトモ子の服袋に入れて……


そんな私が偉そうに警察官なんて……おかしいよね……」
トモ子は何も言いませんでした。 しばらくして、トモ子の
お母さんがやってきました。


先輩が補導に至った事情を説明して、今後は保護者として
しっかりと監督するようにと伝えました。


先輩が席を立つと、すっかり落ち着きを取り戻したトモ子
はお母さんに 「…ねえ、このお巡りさん……」 とサキに
視線を促しました。


サキは少し驚きながらも 「サキです。この私が警察官に
なってここにいるのは、おかしいのですが……」


「あっ、サキちゃん、サキちゃんだね。立派な警察官に
なったんだね。トモ子も少し見習ってほしい。


うちのトモ子はソフトボールをやめてから、荒れてね……」
その時でした。 「遅くなって、すみません」 と、急いで入って
来たのは、マツダ先生でした。


「誰が呼んだの?」 驚いたトモ子が聞くと、お母さんは
「私がね、お願いしたの。


トモ子がもとのように戻ってほしくて……」
サキも驚いて 「マツダ先生!サキです」
「おー、サキか、警察官になったと手紙をもらってたが、
まさかここで会うとはなぁ……」


トモ子は、何も言わずに涙を浮かべています。
マツダ先生は目に涙をうかべながら、トモ子に話しかけました。


「……トモ子、…トモ子、何ともないよ。一歩だけ踏み
外しただけだ……私が悪いんだ…小学校のとき、トモ子は
クラスで一番、気持ちも体も小さかった。


そんなトモ子に、何か自信を持たせなきゃいけないな、って
思ってたけど、それができないまま卒業させてしまった……
ごめんな、トモ子…


でも、トモ子、何ともないよ。きっと、踏み外した一歩をもと
に戻せるから、トモ子ならできる。トモ子のことはよく分かって
るから…。何ともないよ……」


マツダ先生は、子どもたちがどんな悪さや失敗をしても
(何ともないよ) と、言うのが口癖でした。何ともない、
大したことはない、と悪さや失敗を受け入れ、子どもたちを
安心させるのでした。


それを思い出したのか、これまでこらえていたトモ子の涙が
一気に吹き出しました。 「せ、せんせいーっ!!」 嗚咽
とともに、声を上げて泣き出したのでした。


お母さんも、サキも泣きました。
サキの涙は、それでもトモ子に申し訳ないという気持ちと、
自分はこのまま警察官をしていられるのだろうか、
という迷いの涙でもありました。 ・・・・・」











白駒妃ひとみ登美さんという方がおられます。
彼女の著書『感動する日本史ー日本人は逆境をどう生きたか』
に、東北大震災で被災者の支援をした米軍将校の言葉が
紹介されていました。


「支援物資を持って避難所を訪れた私の目にまず飛び込んで
きたのは、着の身着のままで数日間過した人々の、
憔しょうすい悴し切った表情だった。


まるで地獄を見るようだった。みんなどれだけお腹を
空かせているのだろう?やっと届いた支援物資を、
みんなが我先に奪い合うのだろうか…。


ところが、私の予想に反して、被災した人々は、誰も取り乱す
ことなく、整然と並んだのだ。私はそのことにまず衝撃を受けた。


『何故私たちがこんな目に遭わなければならないの!』
と怒りをぶつけられても仕方がないと覚悟していたのに、
支援物資を受け取った人々は、誰もが深く頭を下げ、
笑みさえ浮かべて、感謝の言葉を口にする。


抗あがらえない運命に対して、静かに服従する人々の姿に
私は深く感動した。


ところが、しばらくして私は「ありがとう」のほかに、避難所の
人々が共通の言葉を口にしていることに気がついた。
彼らは何と言っているのだろう?


気になった私は、その言葉の意味を通訳に尋ねた。
『私たちは大丈夫です。でも、この避難所の外には、私たち
よりもっと寒くて、もっとお腹を空かせた人たちが
たくさんいます。その人たちに先に届けてあげて下さい。
私たちはその後で大丈夫ですから』と、語る通訳の言葉に
私の心は震えた。


この地獄のような光景の中に、本当の天国があった」
米軍将校の言葉を紹介した白駒さんは次のように
述べています。


『この世は対立する二つのものによって成り立っている』
とするのが二元論です。


二元論に従えば「天国と地獄」というのは対立するものです。
でも私たちは、もう気がついているのです。


天国と地獄という相反するものが存在するのではなく、
本当はこの世に生きる私たちの心ばえ一つで、この世が
天国にもなるし地獄になるということを……


みんなが自分の事しか考えていない状況は、この世を
地獄に変えます。たとえ物質的に豊かでも、そこに生きる
人々の心が貧しければ、この世は地獄です。


反対に、私たちが互いを思いやり、ゆずりあい、与え合って
生きれば、この世は天国になります。


「こう生きれば、この世が天国になるよ」という天国の
モデルケースを体現すること、そしてそれを日本から
世界に発信することが私たちの役割ではないか。


先人たちが大切に育んできた、日本人らしい素敵な生き方
の中に、私たちが幸せに生きるためのヒントが溢れている。


白駒さんは天国と地獄は相反するものとして存在している
のではなく、私たちの心ばえ一つで、この世は天国にも
地獄にもなると仰っていますが、これは「縁起即実相」、
「二即一」(二つであって一つ)、「一即二」(一つであって二つ)
と観る仏教の物の見方、考え方に大変近いものがあります。


こんな話があります。
  
ある信者がお釈迦さまに「地獄と極楽はどこが違うの
でしょうか」と尋ねるのです。


するとお釈迦さまは「それならば今から地獄、極楽で
食事が始まるから、その食事風景をみればよく分かるぞ」
そう仰ると、まず地獄の食事風景を見せるのです。


そこでは痩せ細った亡者が 1 メートルもあろうかという箸
を使って、必死の形相で食べ物を口に運ぼうとします。
しかし箸が長いためどうしても口まで届きません。


いらだつ亡者は、周りの人の食べ物にまで手を出しますが、
勿論、食べることは出来ません。そのうち、亡者同士の
罵り合いが始まり、またたく間に食堂は怒号の渦巻く
争いの場と化していました。


続いてお釈迦さまはその信者に極楽の食事風景を
見せるのです。


極楽の食堂は地獄の食堂同様、食事の内容も長いお箸も
変わらないのです。ところが極楽の人々はガリガリに
痩せ細った地獄の亡者と違って丸々と太っているのです。


その食事風景はというと、お互いに長い箸で食べ物を
つまんでは、「どうぞ、どうぞ」と向かい合っている人に
食べさせているのです。


極楽の食堂はまことに和やかな空気に包まれていました。
食事風景を見終えた信者は、地獄極楽の違いをはっきり
と知ることが出来ました。


そうです!「自分さえよければ…」という自分の事しか
考えないその心の貧しさが地獄を作り出していたのです。


一方、いつも相手の事を思いやり、相手の喜びを私の喜び
としていく、そんな心の豊かさを持った人々の住む世界が
極楽だったのです。


だから同じ長い箸を使っても、それが争いのタネなることも
あれば、逆に喜びのタネになることもあるのです。
地獄極楽は表裏一体の世界なのです。二つであって一つ、
一つであって二つ。白駒さんの仰るこの世は天国にも地獄
にもなるというのはこのことなのです。


そうして白駒さんは、被災者の素晴らしい生き方
(他を思いやり、慎ましく、礼節を失わず、感
謝を忘れない)を見て、それはすでに私たちの先人が
大切に育はぐくんできた生き方であり、その生き方を世界に
発信していくことが私たち日本人の果たすべき役割だと
仰っています。


お釈迦さまは、この世界はあらゆるものが縁よりあい支え
あって(縁起)成り立っている、だからその道理に従って
生きなさいと仰いました。


そうして他を思いやる同悲同苦の心が生まれるのです。
・・・・・





年間およそ3万の人が自殺している。


事業の失敗、家庭の崩壊、多額の借金、癌宣告、介護疲れ、
人の裏切り、孤立感。


追いつめられて、「できない」「ムリだ」「だれも信じられない」
「孤独だ」と思いこんだとき、死を選ぶのかもしれない。


中古車販売会社の社長・大山氏も覚悟を決めた一人だった。
自分には1億ほどの生命保険をかけていた。


中古車販売の事業が振るわず、銀行からの借入金の負債や
取引先の未払いなど6億円の債務があった。


しかし、最後の一線までは踏み切れない。 悶々とした日が
続いていた。すでに、42歳の大山は円形脱毛症になっていた。


ふと入った本屋で立ち読みして衝撃を受け、自宅に買って
帰り一晩で読み通したのが、「上杉鷹山(ようざん)」について
書かれた本だった。


上杉鷹山の事績に勇気づけられて、大山は「生きよう」
と思った。


上杉謙信以来の名門米沢藩は、財政赤字で借金が膨れ、
収入の15万石すべてを返済にまわしても百年以上はかかる
状態だった。


明和元(1764)年、ついに藩主上杉重定は、幕府へ版籍を
奉還したいと尾張藩主徳川宗勝に相談した。


どうにもやっていけないから、いっそ領地をすべて返上する
と前代未聞の話を持ち込んだのだ。


驚いた宗勝は、考え直すように説得したうえで重定を隠居
させ、九州の遠縁の高鍋藩から養子を入れ、藩政改革を
進めようとした。


その養子が上杉治憲(はるのり・鷹山)だったのである。
鷹山は改革を進める。だが小藩出身の養子であることから
改革方針は軽んじられて、格式にこだわる家老たちの
反対にあう。


重臣らの非協力のなか、自ら倹約を徹底した。
粗末な木綿の服を着て、一汁一菜の食事で通した。
さらに華美な儀式や慣習を質素にした。


荒地の開墾を行い、漆(うるし)やこうぞなどの特産物の
育成をした。 人を派遣して学ばせ、織物や紙すきの技術導入
も図った。


不要な組織の整理で、藩士たちの無駄な城勤めからの
解放を進めた。 手が空いた下級藩士たちは、開墾や
特産物の栽培に力を注ぎ、武家の婦人たちは織物や
紙漉きに精を出した。


やがて藩内の産物や加工品が藩外や江戸でも
売れるようになった。


ようやく財政改革の成果が出そうになってきたとき、
武士が百姓町人の真似をするなどもってのほかと、
改革を快く思わない重職7名が連署して改革阻止の
行動に出た。


しかし改革に期待を寄せる下級武士団から鷹山は
支持され、この改革妨害を乗り切った。


「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、
成らぬは人の為さぬなりけり」
鷹山はこの歌を残している。


「できない」と諦めるか。「できる」と考えられるか。
「できる」という意識に立つ。この意識は、
その人の人格から現れる。


上杉鷹山は、幼いころから細井平洲(へいしゅう)という
学者について学んだ。 藩主たるもの、どういう考え方と
行いをしなければならないかを教わり、人格を磨いた。


・・・ アメリカの35代大統領ジョン・F・ケネディは、
日本人記者団に尊敬する日本人は誰かと質問されて、
上杉鷹山と答えたエピソードがある。・・・






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