妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・THE ライフ











キャッシュレスにコードレス、ボーダーレス……。「レス」
(less)は「~がない」という意味の、英語の接尾辞です。


「老後レス」は「老後がない」ことを表す言葉になるわけですが、
辞書にはありません。実は造語なのです。 ・・・・


「高齢者」は65歳以上を指します。また登場する人物の
年齢は取材時点のものです。





ハードな仕事なのに、なぜ高齢者ばかりなのか


道路工事やビルの建築現場、あるいはショッピングモールで
必ず見かけるのが制服に身を包んだ警備員の姿です。


炎天下でも雨の中でも、朝から晩まで立ちっぱなし。
かなり体を酷使する仕事です。しかし彼らの多くに共通
するのは、決して若くないこと。それどころか、高齢者が
非常に目立ちます。


なぜなのでしょうか。


ここに「老後レス社会」のリアルな断面を見ることができます。
警備員は、70歳以上の就労が増え続けている職種の1つ
だからです。


柏耕一(かしわ こういち)さんは73歳。ある日のこと、
風雨が吹きすさぶスーパーマーケットの建設予定地で、
柏さんは、セメントを運ぶ大型トラックを誘導していました。


「交通誘導員」と呼ばれる、警備員の代表的な仕事です。
コンビニで買ったレインコートでは完璧な防水ができず、
お尻まで濡れてしまいます。


「年に数回あるかないかのキツイ現場。それこそヨレヨレに
なりました」と話す柏さんの日給は9000円。なぜ厳しい現場
に出続けるのか尋ねると、こう答えてくれました。


「65歳を過ぎると、警備員以外で雇ってくれるところがない」
かつて柏さんは書籍の編集プロダクションを経営し、
300冊以上を手がけてきました。


10万部以上売れたベストセラーが90冊あるとのこと。
そのキャリアは30年に及びます。 「調子のいいときには、
給料と経費を合わせて年に1000万円くらい使えていました」


ところが、こうして公私の区別が曖昧になった意識が
放漫経営につながります。競馬にのめり込み、不動産など
への投資も失敗。


そのツケは、税金約2500万円の未払いという形で回って
きました。会社の信用はガタ落ちで、収入があっても
銀行口座は税務署に差し押さえられます。
働く意欲は薄れ、売り上げも激減していきました。


自営業で国民年金の加入期間が長かったこともあり、
年金は夫婦で月6万円ほど。自宅を手放した後に移った
アパートの家賃6万6000円を含め、生活費を稼がなければ
なりません。


そして、手っ取り早く稼ぐために残された道が警備員の
仕事だったのです。 職場は「70歳以上が8割」 柏さんの
“警備員デビュー”は68歳のときでした。


しかし警備会社で働いてみて、自分よりも年長の70歳以上
が8割を占めていることを知り、驚いたそうです。なかには
80歳を超える人もいました。


80歳を超えた警備員の実例を紹介しましょう。千代栄一
(ちよ えいいち)さん、85歳。2020年4月まで、警備員として
働いていました。


職場は千葉県内のパチンコ店で、駐車場に出入りする車の
誘導が主な仕事です。早番(午前7時半から午後3時半まで)
か遅番(午後3時半から午後11時半まで)のシフトで月に
20日働き、月収は18万円ほど。


所属していた警備会 社の面接を受けたのが、ちょうど80歳
のときでした。「働かせてくれるのは75歳までと言うから、
サバを読んだ(笑)」と打ち明けます。


もともとは左官業を営み、最盛期には80人の職人を束ねる
親方でした。大手ゼネコンの仕事を請け負って、東京タワー
などの建設に携わったことも。


しかし、連帯保証人となった知人の負債を肩代わりするため、
自宅も手放す羽目になってしまいました。


年金は受給しているものの、娘と暮らすアパートの家賃と
生活費の不足分を補うには、働き続けなければなりません。
そこで警備会社の面接に臨んだのです。“年齢詐称”は、
やがてバレてしまいますが、まじめな仕事ぶりが評価され、
そのまま働くことができました。


ところが、2020年からのコロナ禍で、職場だったパチンコ店
が休業。千代さんの仕事はなくなり、警備会社を辞めざる
をえなくなりました。


その後、ハローワークにも通ってはいますが、「年齢の壁」
のせいで、なかなか仕事が決まりません。
高齢者歓迎の求人でも、「75歳が上限」が多いのが現実
なのです。
働いて稼げなくなったので、家賃の安いアパートに
引っ越しました。


コロナ禍は前出の柏耕一さんも直撃しました。
政府が緊急事態宣言を出していた2020年4月の出勤日は、
たったの3日です。


当時、柏さんの現場は千代さんと同様、大手パチンコ店。
主に駐車場に出入りする車の誘導をしていました。
1日2交代制で、4人の警備員がシフトを組み、週末の
出勤もあるほどだったそうです。


ところが、4月7日からパチンコ店が突然、事前予告もなく
閉店してしまい、それ以降の仕事が完全になくなったのです。


続く5月も、ゴールデンウィークと緊急事態宣言の影響で、
出勤日数はわずか7日。4月と5月の収入は、合計で9万円
に激減しました。


コロナ禍でも警備員の需要は堅調だった しかし
緊急事態宣言解除後、状況は一変します。


2020年5月下旬、柏さんの勤務シフトが通常に戻りました。
仕事は水道工事の現場での交通誘導です。1日のタイム
テーブルを見てみると。


・午前5時 起床 ・午前8時 現地到着、着替え
・午前9時 仕事開始
・午後6時 終業
・午後8時 帰宅


このハードな勤務が20日間も続きました。つまり警備員
という仕事の需要が回復したのです。いや、以前にも
増して求められるようになったと言えるかもしれません。


職業別の有効求人倍率が、その事実を物語ります。
緊急事態宣言が出た2020年4月以降の有効求人倍率を
「全職業」と、警備員を含む「保安の職業」で比較して見ると。


やはり警備員という仕事の需要は、コロナ禍でも総じて堅調
でした。その理由を、柏さんは次のように分析します。


「交通誘導の主たる仕事場は、ガス管や水道管の入れ替えや
建設現場、電線の点検・架設などで屋外が多く、『3密』には
なりにくい。また、コロナのような大きな外的要因にも左右
されることが少ないのは、人々の社会生活に密着した
必要不可欠な仕事であることじゃないでしょうか」


高齢者が警備員に占める割合は驚くほど高く、そしてその
割合は年々、上昇し続けています。 警察庁が毎年発表する
「警備業の概況」によると、2019年末時点で全国57万人の
警備員のうち、60歳以上は45%です。さらに70歳以上が
増加しつつあり、全体の15%にまでなりました。
つまり警備員の7人に1人以上が70歳以上なのです。


工事やイベントで警察から道路使用許可を得るために、
施工業者は、道路規制図を添えて警備員の配置を書き込み
申請します。このとき、安全が確保される人数が配置されない
と許可が出ません。


また、もし後から配置されていないのが見つかると、業者が
処分されます。 こうして生まれる雇用が、「年金の足しに」
と働く高齢者を支える構図が見て取れるようです。


「一億総活躍」と「自助」の陰で 2019年度にハローワークで
新たに登録した65歳以上の求職者は、約59万人に上り、
10年前の2倍近くに迫る勢いです(厚生労働省の統計から)。


安倍晋三前首相は在任中、「一億総活躍」というスローガン
を掲げ、高齢者らの就労を促す方向に舵を切りました。
2019年10月4日に召集された臨時国会の所信表明演説で、
安倍氏はこう語っています。


「65歳を超えて働きたい。8割の方がそう願っておられます」
「(高齢者の)豊富な経験や知恵は、日本社会の大きな
財産です。意欲ある高齢者の皆さんに70歳までの
就業機会を確保します」


「リタイア」「楽隠居」「余生」「悠々自適」…。これらのフレーズ
が、次第に遠のきつつあるようです。


まさしく「老後がない」=「老後レス」社会が忍び足で
近づいています。


菅義偉首相は、目指す社会像として「自助・共助・公助」
を掲げ、次のように述べました。


「まずは自分でやってみる。地域や家族が互いに助け合う。
そのうえで政府がセーフティーネットでお守りする」 ・・・












守本早智子(62)は、余命1週間と告知された84歳の母親を、
病院から自宅へ引き取った。


料理上手で、食べることが大好きな母が、点滴だけの
病院生活で元気を失っていたからだ。


在宅医療に加え、終末期の人と家族に寄り添う看取り士の
支援も受けながら過ごした、2カ月半を振り返る。



「コーヒー飲む人?」


三味線を製造販売する店舗奥のリビングで、守本早智子
が職人や家族にそう尋ねた。手を挙げる職人たちの後方、
和室8畳間の介護用ベッドで、84歳の実母・玉津玲子も
黙って左手を挙げていた。


「母はいつも2、3口程度。それでも、みんなと一緒に飲み
たがりましたね。私たち家族も自宅ではなく店舗で夕食
をとり、焼肉でも鍋物でも、できるだけ母にも同じものを
食べてもらいました」(早智子)


できれば家族が過ごすリビングに介護用ベッドを置き、
終末期の人とだんらんを共有する。これは一般社団法人
日本看取り士会が勧める、最後の時間の過ごし方でもある。


母・玲子はそのベッドから家族などの会話に耳をすませ、
夏には窓ガラス越しに花火を楽しんだ。


母親が余命1週間と告知されたのは同年8月初頭。
約4年前にわかった病名は進行性核上性マヒ。
脳内の神経細胞が減少し、嚥下や歩行障害が進行する
難病だった。


「コロナ禍で面会禁止になって約半年ぶりに再会した母は、
まるで骨格標本みたいでした。顔色は悪いし、目はよどみ、
話すこともできなかった。


誤嚥することが増えて食事を禁じられ、水の点滴だけで
かろうじて命をつないでいたせいです。退院させることに
迷いはありませんでした」(早智子)


面会禁止になる前は早智子が病院の夕食時に介助に通い、
時間をかければ、かろうじて自力で食べられていたからだ。


「残り1週間の命なら、もう治療も薬もいらない。せめて私の
料理を母に食べさせて、最期はこの腕で抱きしめて看取りたい」
早智子の思いに家族も賛成し、約2カ月半の在宅介護が
始まった。


病院での水分のみの点滴からミキサー食に替えて1カ月も
続けると、母親はみるみる元気を取り戻した。


骨と皮だった顔に色つやが戻り、目には生気が宿り、
プニョプニョとした手触りの肉が体に戻り始めた。すると、
短い会話も交わせるまでに回復した。


食べることは生きること・・・


早智子は母親の復調に痛感させられた。 食べたものを喉に
詰まらせるのが嚥下障害。それを防ぐためにミキサーにかけ、
ドロドロにしたのが「ミキサー食」だ。


だが、見た目が悪く食欲をそそらない。そこで違う食材も
混ぜて本物のハンバーグや焼肉のように形や色を整え、
本物のソースやタレをかけて仕上げるのが「再形成食」。
手間はミキサー食の2倍はかかると早智子は話す。


「焼肉なら、ひき肉と卵に、はんぺんとお麩の粉を加えて
ミキサーにかけ、肉1枚相当分の量を成型シートに流し込ん
でラップに包みます。


レンジで一度蒸し固め、フライパンで軽く焦げ目をつけ、
焼肉のタレをかけて完成。


家族の夕食も焼肉にして、母は肉を焼く匂いを一緒に
嗅ぎながら大満足でしたよ」


在宅介護の後半、


在宅介護が1カ月半を過ぎた頃、早智子の予定が立て込み、
母親に近くの病院に3日間短期入院してもらったことがある。
その際、見た目の復調ぶりとは裏腹に、血液検査で心不全
などの危険性を指摘された。


しかし早智子はブレなかった。 「在宅医の先生と同様に、
その病院にも『治療も投薬も一切しません』とお伝えしました。
今後も母には食べたいものだけを食べてもらいます。
結果、寿命が仮に1週間短くなっても構いませんからって」


早逝した長男の介護経験を母親に生かす


その固い決意は、早逝した自身の長男への後悔とも
つながっていた。 早智子は息子の良平を、2010年10月
に弱冠20歳で亡くしている。


良平は14歳で白血病を発症。一度は症状が消えたりしたが、
その後も二度の白血病などを患った末だった。


1日でも長く生きてほしい。早智子は自分の思いが強すぎて、
良平に辛い治療や投薬を強いてしまったのではないか。
そんな後悔をずっと引きずっていた。


「良平の最後は自力で食べられない状況でした。でも、
母は亡くなる当日の昼食まで食べられた。


良平への後悔をふまえ、食べることが大好きだった母の
価値観と生き様を見てきた私が、たとえ寿命を縮めても、
大好きなものをできる限り食べて、母らしく生き切って
ほしいと思ったんです」


母親の意思も確認済みだった。長男を在宅介護した経験
もあり、痰の吸引やオムツ交換の手際は、一般的な看護師
より数段上だったと、元看護師で看取り士の清水直美は話す。


「お母様が食べ物を喉につまらせた場面も見ました。
早智子さんがすぐに抱き起こし、吸引機の管を入れやすい
角度に背中を傾ける。するとご主人の泰夫さんか、長女の
彩子(あやこ)さんが、吸引機の管を口腔内に的確にさし入れ、
つまらせたものを瞬時に吸い取る。


完璧な連携プレーにビックリしました」 でも、圧巻なのは
その後なんですよと清水が続ける。


早智子さんが「お水飲める?」と確認し、母親がうなずくと、
まずは水を少量飲ませる。母親が飲むと、「どうする? 
まだ食べたい? 」と再び聞き、母親がうなずくと、食事が
すぐに再開された。


母親の食べること、娘の食べさせることへのただならぬ執念
を感じさせる光景だったという。


「病院の看護師なら誤嚥されるのが怖いから、食事は
中止します。お母さんも喉につまらせると息ができず、
苦しいですしね。


でも、ご家族の愛が、母娘の揺るぎない信頼が、看護技術
や経験をはるかに上回っているから、喉につまらせた直後
でも食べさせられるんですよ。


ご家族でここまでできるんだって、私はもう完全に圧倒
されました」(清水) 約13年間、臨床の現場で働いていた
元看護師の清水は、興奮気味にそう強調した。


むしろ痰の吸引が家族には怖くてできないからと、在宅介護
を諦める人たちも多いのに、だ。 看取り士の清水が、
早智子らに看取りの練習を実施したのは同年9月下旬。


早智子と夫の泰夫、長女の彩子、彩子の長男で小学2年生
の奏人(かなと)が参加した。


子どもも家族の1人として尊重するのが守本家方式。
清水に看取りの作法についての説明を聞き、家族で交互
にやってみた。


「まるで答え合わせみたいでした、


ひ孫も参加した大切な練習極め付きは、彩子の頭を自分
の小さな両膝にのせた小2の奏人。


彼は、「ありがとう」「大丈夫だよ」と言いながら、母親の顔を
小さな体で抱きしめた。すると奏人はふいに涙目になり、
1階に一人降りて行った。


すぐに追いかけた彩子によると、ひーばぁ(玲子)だけじゃなく、
母の彩子さえも死んでしまうんじゃないかと急に悲しくなったが、
その場で泣いてはいけないと思ったという。
彩子は半時間ほどかけて、息子に穏やかに話した。


「人も動物も生まれたら、必ず死ぬものなんだよ。
ひーばぁもその旅立ちに向けて準備をしているの。だから、
みんなでこうしてそばにいるんだよ。


死ぬことは怖いことではないし、恐れるものでもない。
奏人も初めて練習して悲しかったり、怖かったりしたかも
しれないけど、大切な練習だからね」


奏人は納得したかのように、そっかぁとつぶやいた。
この経験が後で生かされるとは、誰も考えもしなかった。


それから約1カ月後のある夜、昼食にクリームパン1個を
完食した母親は、夕食前までよく眠っていた。


早智子がふと血中酸素濃度計を見ると、数値が通常の
90台後半から80、さらに70台へ急速に下がり始めた。


早智子は近所にいる長女の彩子を呼んできてほしいと
夫に頼み、自身は在宅医と訪問看護師に連絡。


早智子は介護ベッド上に急いで座り、その膝枕に母の頭
をのせる態勢をとった。そして顔を近づけて呼吸を合わせる。
看取りの作法だ。


奏人にはひーばぁの右手を握って、と伝える。
「ひーばぁ、大好きだよ、ひーばぁ」 奏人は早智子の前に立ち、
大人たちが先日やっていたとおりに声がけを始める。


「ひーばぁの舌ベロが、白くなってきたよ」
「唇が真っ白、お顔も真っ白になってきた」
「あっ、目を閉じたよ」


抱きしめている早智子には見えないだろうと思い、
ひーばぁの刻一刻と変わる表情を伝えようと、
小2の彼が懸命に言葉をくり出している。


「ありがとうー、あなたの娘でよかったよぉー!」
早智子も母親の体を抱きしめながら最後に声を張り上げた。


LINEのメッセージに残された言葉


その後の通夜は、にぎやかで明るいものになった。
実は、早智子は息子の良平が亡くなる際、母がとった
言動でどうしても許せないことがあり、以来ずっと心から
消せずにひきずっていた。


しかし、母を抱きしめながら「ありがとう」と言っている間に、
その思いが全部きれいに消えるのを感じたという。
「母へのマイナスの感情も、一緒に看取ってくれるんですね」


早智子は通夜を終えた後、25歳下の看取り士の清水の
LINEにそう送信した。 ・・・・・






全盲の詩人、佐藤浩さんが、
児童詩誌『遠くへ行かないでお母さん』のあとがきに、
次のようなお話が紹介されていました。


私がある小学校へ講演に行った時のことです。終了後、
座談会の席でY先生から次のような質問がありました。
受け持ちの小学四年生の子がこんな詩を書いたのです。


 お母さんが 車に はねられた
 お母さんが 病院の 霊安室にねかされていた
 お母さんを 火葬場へつれていった
 お母さんが 骨に なってしまった
 お母さんを 小さなはこに入れた
 お母さんを ほとけさまに おいた お母さんを 毎日 
 おがんでいる


私はその子に「お母さんは一回書けばそれでわかります。
だから二行目以下のお母さんは書かなくてもいいよ」と。


しかし、その子はどうしても分かってくれないのです。
こんな時はどう指導したらいいのですか?。


私は即座に答えました。
「その子の気が済むまで何回でも書かせてあげてください。
詩の形を整える前に、その子の悲しみも分かち持って
みてください。


そうすれば、なぜお母さんが一回ではダメなのかが分かる
と思います。もしその子がお母さんを百万遍書きたかったら、
百万遍書かせてあげてください」


小さい子供さんは、嬉しい時も、悲しい時も、ほめられた
時も、寂しい時も、「お母さん、お母さん」と、その名を
呼び続けます。


呼んでいるのは子供ですが、呼ばせているのは母親の
愛情です。


この詩を書いた子供さんもお母さんの深い愛情に包まれ
育てられたはずです。そのお母さんのいなくなった、
あまりの寂しさに、あまりの悲しさに、


この子は「お母さん、お母さん」と何度も何度も書き綴らず
にはおれなかったのです。書き綴るその子の心の中に、
お母さんは生き続けています。


書いているのは子供ですが書かせているのは
お母さんの愛です。 ・・・・・






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