妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・一考編














子育てと介護が同時期に発生する状態を「ダブルケア」という。
通常、子育ては両親が行い、介護は親族が行うのが一般的
だが、昨今、両方の負担が1人に集中することが少なくない。


肉体的にも精神的にも過酷なダブルケアは誰にでも起こり得る。


自閉症の息子と鬱病の夫、体が不自由な実母・義母との
5人同居生活 2020年1月。


9年前に夫を亡くして以降、一人暮らしを満喫していた89歳の
義母が庭先で転び、肩を骨折。肩にボルトを入れる手術を
受けるため、入院することになる。


生活が不自由になった義母は、手術前と手術後の合計半年間、
関東地方在住の清水陽子さん(仮名・46歳・既婚)の家で同居
することになった。


4LDKの自宅内には、最重度知的障害・自閉症の息子(22歳)
と、その介護を一手に引き受ける清水さん、上司による
パワハラで鬱病になり休職中の夫(52歳)の3人家族、


さらに清水さんの母親(69歳・脳梗塞の後遺症で言語障害)、
そして義母という5人の同居生活が始まったのだ。


清水さんは炊事・洗濯だけでなく、「息子には恥ずかしくて
頼めない」という義母の背中を毎晩流し、頭を洗って
あげるなど、献身的に介助した。


幸い嫁姑仲は良く、義母は、自分が入院しても見舞いにも
来ず、お盆とお正月くらいしか顔を見せない娘(清水さんの
義理の妹)のことを「あの娘はダメね」と、不満をこぼした。


母親と義母も、ちょうど20歳の年齢差があるためか、お互い
好意的だった。


コロナの第1波も去った7月になると、義母の肩は完治し、
自分の家に帰宅。再び母親と夫と息子、4人での暮らしに
戻り、一息ついたのもつかの間、義理の母は鬱病を
患ってしまう。


月に2回、心療内科への通院が必要になり、退職した夫が
様子を見がてら連れて行くようになった。


コロナ第3波が始まった11月、母の認知機能が急激に
低下した 。さらに追い打ちをかけるような出来事が起こる。


母親が「お腹が痛い」と訴え始めたのだ。清水さんは心配し、
母親と同じ部屋で眠っていたが、夜中に何度も起こされ、
早朝に嘔吐で目が覚めた。


「これはまずい」と思った清水さんは、息子を施設に預けると、
母親を連れて病院へ。母親は脾臓が腫れて、炎症を
起こしていた。血液検査の結果も良くないため、そのまま
入院に。


医師には、「2週間ほどで退院できる」と言われたが、その
3日後、突然母親の意識がなくなり、別の病院へ転送。
さまざまな検査をしたが異常は認められず、夜には元の
病院へ戻った。


医師によると、症状は安定したが、認知機能の急激な低下
が見られているとのこと。現在も予断を許さない状況だ。



清水さんの息子は22歳になった。現在も、朝晩の歯磨きと
入浴は清水さんが全介助し、食事と服の着替えは一応自分
でできるが、食事は手づかみで、服は前後ろや裏表になって
いることが多い。


「息子は今でも大きな建物に入るのが嫌で、入ると大絶叫
します。食べられるものがすごく限られていて、好きな
ものでもパッケージや味がリニューアルすると、途端に
食べなくなってしまいます。


睡眠もまとまらず、夜中や早朝に起きてしまうこともしば
しばです」 息子は現在、障害者福祉施設に通っている。


軽度の障害者は簡単な作業を行うが、障害が重い息子は
作業量が少なく、主にレクリエーションをしてお昼ご飯を食べ、
掃除をして帰ってくる。


機嫌よく通ってくれる間はいいが、夏に大好きな水遊びが
中止になると、機嫌が悪くなり、2カ月ほど通ってくれなかった。


一方、夫は回復傾向とはいえ、うつ病で心療内科に通院を
継続。現在は国家資格取得を目指して勉強中だ。


「息子が小さかった頃、夫は仕事で朝から晩までいなくて
基本私のワンオペ。肉体的にも精神的に参っていた私は、
夫を気遣うこともできず、会話もありませんでした。


障害のある子の親御さんは離婚率が高いのですが、
うちはよく離婚しなかったなと思います」


お笑いコンビU字工事の漫才…


私が笑うと、息子の精神も安定 養護学校でできたママ友
とは、現在も、同じ悩みを共有してきた戦友のような仲だ。


「ママ友とよく、『私が倒れたらどうなるんだろう?』っていう
話をしているんです。みんな、障害のある子どもに頼れ
ないことはわかっているので、『最悪みんなで一緒に
住まない?』って話してます」


睡眠障害や軽い鬱を患っているとはいえ、清水さんから
感じられる明るさやおおらかさは、長い間苦労や不安を
経験し、その時々に自分で考え、解決や納得をしてきた
からこそ得られた賜物のように思う。


「息子はテレビがついているとすぐに消してしまうのですが、
15~16年ほど前に偶然お笑いコンビ・U字工事の漫才を
見て笑ったところ、息子もつられて笑い、それからは
お笑い番組は見るようになりました。


私が笑うと息子も笑い、息子の精神も安定しました。
彼らには感謝しています。当時は笑うことを忘れるほど
辛かったけれど、今は、めったにできない経験をしてきた
からこそ、ちょっとやそっとじゃ動じない落ち着きや、
人間としての深みが得られたのかなと思えるように
なりました」


そんな清水さんの癒やしは、息子が7歳のときに持ち帰って
きた金魚から始まった、淡水魚と海水魚の飼育だ。


水換えが大変だが、やり終えると気持ちがスカッとする
という。 「今は、気になることがあったらインターネットで
調べることができますが、私が息子を生んだときは、
まだパソコンもスマホも普及していませんでした。


最近、『うちの息子の小さい頃の話を書いたら、今の
お母さんたちの助けになるのでは?』と思い、ブログを
始めました。私のように育児で悩んでいるお母さんがいたら、
『大丈夫よ』と声をかけてあげたくて……。


徐々に療育制度が整いつつあるので、お子さんに必要と
される分野の療育を、躊躇せず、1日も早く受けさせること
が大切だと思います」


これから息子と夫、2人の母親の4人の介護をすることに


一人っ子の清水さんは、確実に母親の介護をすることになる。
すでに89歳の義母も、いつ要介護状態になってもおかしく
はない。夫の姉はあてにならず、清水さんが介護をする
可能性は高い。


しかし清水さんには、最重度知的障害の息子がいる。
子育てと介護でダブルケアだが、実際はたった1人で
息子と2人の母親、夫も入れれば4人の世話をすることになる。


集中する負担を、少しでも軽減することはできないだろうか。


2018年にソニー生命保険株式会社が実施した
「ダブルケアに関する調査」によると、全国の大学生以下
の子どもを持つ30歳~55歳の男女1万7049人に、“子育て”
と“親(または義親)の介護”が同時期に発生する状況
である「ダブルケア」について聞いたところ、
全体で約3割の人がダブルケアを経験していた。


ダブルケア経験率は年齢が上がるにつれて高くなり、
50代女性では約4割以上が経験していた。さらに、
ダブルケアに対する備えとして行っている(いた)ことを
聞いたところ、「特になし」が4割近く。


「ダブルケアに対する備えとして行っておいたほうが
良かったと思うこと」の1位は、「ダブルケアの分担について
親族と話し合う」だった。


多くの人が、ダブルケアに対する備えをしないまま、
ダブルケアを経験することになってしまっていることが伺える。


また、ダブルケアのキーパーソン205人に、キーパーソンと
なった理由を聞いたところ、男性は約6割が「自身の希望で
主に関わりたい(関わりたかった)」と回答しているのに対し、


女性は「自分以外に主に(介護)できる人がいない
(いなかった)」が6割強と、「自身の希望で主に関わりたい
(関わりたかった)」の4割強を上まわる結果となった。


多くの人が準備期間なしでダブルケアに突入する 加えて、
ダブルケアラーの8割近くが「公的介護サービスは不十分」、
7割強が「公的子育て支援は不十分」と回答。


清水さんも、ダブルケアに対する備えなどする間もなく、
ダブルケアをキーパーソンとして経験することになってしまった。
もちろん、ダブルケアの分担について親族と話し合う
暇などなかった。 ダブルケアについて話せる相手は
なかなかいない。


清水さんには、「難しいかもしれないが、優先順位をつけて、
何よりも自分を大切にしてほしい」と伝えずには
いられなかった。 ・・・・


・・・











「あざ」


寝かせるところがないので
立たせたまま母のおしめを換(か)えた
換えているとタラーッとよだれが
しゃがんだ私の頭にたれてくる
次から次にたれてくる


こんな時よだれなんかたらすなよ
おれの母さんなんだろうと母をにらみつけた


なぜか母はうろたえて よだれをのどに詰まらせた
息の出来ない母 私もうろたえて
何度も何度も母の背中を叩(たた)いた


母の右腕を 私の右手で ギュッと握って母を支え 
背中を必死で叩いた


その夜は 寝る前布団に寝かせて体を拭(ふ)いた
たれたオッパイを持ち上げ 皺(しわ)をのばしながら拭く
両足いっぺんに持ち上げて 尻の近くの溝(みぞ)を
注意深くきれいに拭いた


右腕には青あざがある 私が必死に握った
母の右腕に青あざが背中にもあるのかもしれない
背中は見ずに体を拭いて母に軽く頭を下げた


母に布団を掛(か)けると母は
布団の中からスッと手を出し
私の手をしっかり握ると安心したように
眠った





詩の中で、「母をにらみつけた」というのがいけなかったのか、
「お母さんに対する攻撃的な詩は書いてほしくないです。
心を高いところにおいて、いろんなことを受け入れましょうよ。」
というメールをもらったことがある。


アドバイスいただいたように、心を落ち着けてしっかり母の
介護をしようと毎日毎日思い直すのだが、私は認知症の
母をなかなか受け入れることができなかった。  


一度「心を強く保つ」の中でも触れたが、この詩は初めて
公衆便所で母を立たせたままオムツを替えた時のことだ。
苛ついてオムツを床にたたきつけた時の様子を
書いたものだ。


前述では、大声を出し、替えている側からオシッコをし、
ウンコの付いたお尻を触ろうとした母の様子を書いたが、
実はもう一つドタバタがあった。


しゃがんでオムツを替えていると、私の頭にヨダレが
次から次にたれてきた。


にらみつけると、母は驚いて唾液をのどに詰まらせたのだ。
息ができなくなった母の背中を必死に叩いた。やっと、
息ができてホッとしたのはつかの間、またオシッコを
私に向けてする母。


混乱し苛立った私は、大小便がたっぷりたまったオムツ
をトイレの床にたたきつけたというわけだ。


その後、母のお尻をきれいに拭いて、トイレの床を拭き
ながら「こんなことしなきゃよかった」と後悔した。
車に戻った母は気持ちよさそうに眠っている。


「何で俺がこんなことしなきゃならないんだ」と涙が出た。
これで、この詩のドタバタは全て。  


母に苛立つ自分が嫌になった。母に優しくできない自分自身
を責め続けた。眠っている母に苛立ったことを詫びた。


寝るとき、私の手を握ってくる母を見て、母は私に詫びてる
のではないかと思った。そう思うと、認知症という病気を
患いながらも、必死で生きている母に申し訳なく思った。


亡くなった父がどんな思いであのドタバタを見てたかと思うと、
明日からは決して苛立たず、母に優しくしようと思った。


それから、何度苛立ったことか。あれだけ自分を責め
悩んだのに、またイメージ通りにならない母を見ると
苛立つのだ。


何度、床にオムツを投げ捨てたことか。そして、
何度母に詫びたことか。


しかし、父が亡くなり十数年もこの繰り返しを続けていると
少しずつではあるが、苛立つことが少なくなってきた。
オムツを替える要領もよくなったのもあるのだが、
少々のことには動じなくなった。


自分のイメージ通りに動く母を望んでいた頃は苛立ちも
多かった。母をどうにか変えようと思い続けていたときには、
自分を責め、母に苛立つことの繰り返しだった。


でも、病気を抱えて必死に生きる母の姿を十数年見続け、
母を変えることより母を受け入れ、自分が変わることの方が
簡単だと、ある時思った。


それから、苛立ちや怒りという振り子の揺れが少しずつ
小さくなっていっているように思う。


その揺れが収束する場所に、心穏やかな自分が住んで
いる場所があるような気がする。  


人は一朝一夕には変わりはしない。しかし、少しずつでは
あるけれど、確実に人は変わることができる。


母との介護の中で、母に励まされ、母に教えられ、
母に育てられたと思う。他のことにおいても辛抱強く
なったような気もする。


これがメールの感想にあった「心を高いところにおいて、
いろんなことを受け入れましょうよ。」ということかと。


でも、今でも私は認知症の母を見て苛つくときがある。
なかなか、ヒョイと心を高いところにおけそうもないのだ。


・・・





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