妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・森羅万象










中日新聞に、「わけあり記者」という新聞記者さんがいます。


政治部もベルリン特派員などを歴任され、現在は編集委員
をされています。


過労で休職し、その後両親が要介護になり、自らも
パーキンソン病を発病されたいうたいへんな事情を
抱えて生きて来られたことから、そう自称されて
いるのです。





第二波の8月に、「わけあり記者」さんは高校時代の同級生
を突然死で亡くしました。


毎年、盆暮れに集まる仲間だったので、「それじゃ、また今度!」
と言って別れるのがいつものことだったそうです。


「来年もまた会える」と信じて。 ところが、「来年」は
来ませんでした。このコロナ禍、今年は事情が違った。


「今年は我慢だ」「来年があるじゃないか。どうしても、
今年会わねばならない理由もないし」と、お盆に集まるの
を控え、「不要不急」に仲間で協力したのだといいます。


ところが・・・訃報が。


「わけあり記者」さんは、こう疑問を呈します。
郷里の友人や家族、恩ある人、縁深い人に会うことは、
「不要不急」なのか否か。


普通の年でも、会えるチャンスは限られる。50歳を超えれば、
急な葬祭の知らせに驚くこともある。


その友人とは、あっけなく会えなくなってしまったというのです。


こんなニュースもありました。


田舎の年老いた両親に会うため帰郷したら、車にいたずら
書きをされた。玄関のドアに、「帰れ」と貼り紙がしてあった。
いわゆる自粛警察です。


「自分がこんなに我慢してるのに」 「もし、お前が原因で
ウイルスが広まったら」 ・・・・


「いけない」とわかってはいても、不安が募って心のブレーキ
が止まらなくなってしまうのでしょう。


では、故郷の両親に会いに行くのは、「不要不急」に当たる
のか否か。「わけあり記者」さんは、自らの両親の介護の
経験から、こんなことを綴っています。


それは、「匂い」だったと いいます。


母親が父親の介護をする「老々介護」が始まった頃のこと。
母親に認知症の症状が出始めた。


「わけあり記者」さんがお盆に帰省した時に、玄関に入るなり、
すえた匂いに気付いたそうです。


それは、台所の買い物袋や、いつ調理したかわからない鍋。
母親の認知症が相当に進んでいることを目の当たりにし、
真剣に介護に向き合う大きなきっかけとなったそうです。


つまり、帰郷したから「匂い」に気付けたというのです。
ここでの「匂い」とは、「気配」とか「雰囲気」という、いわゆる
「第六感」の「匂い」ではありません。


いくら、リモートで画面や声で、両親と話ができるように
なったといっても、この「匂い」は「会わないと」わから
ないのです。


私も・・・。母が父の看病・介護をしていた時のことです。
朝、会社へ出掛ける前と、帰宅してすぐに、隣接する両親
の住む母屋へ顔を出すのを日課にしていました。


母親に「ただいま」と言うと、「おかえりなさい」と言ってくれる。
しんどい時には、その声もか細いし、顔色がよくないのです。


反対に、体調はよくてもイライラしていることがありました。
「どうしたの?」と尋ねると、父親への愚痴を泣きながら
一気に喋り出す。


「話を聞く」ことがストレス発散には一番の効き目があります。
顔を見るだけで、なんとなく「匂い」が伝わって来たのです。


コロナ禍の状況下で外出は控えた方がいいことは、
誰もが承知しているでしょう。


でも、故郷に帰ることが、単なる親孝行ではなく、
肉親の「命」を救うことに繋がるケースもあるのです。


だから・・・「年老いた両親のいる人は、コロナのことなど
意識せず、帰省した方がいいですよ」と勧めるわけでは
ありません。かといって、「自分の我慢が、みんなのため」と、
帰省を止めるよう促す気持ちもありません。


どっちも、間違ってはいないし、どっちも正しいと思うのです。
数学や化学、物理の問題では、正解は一つです。


でも、これは人の心の問題です。正解を求めることがおかしい。
一人ひとりに、一つひとつの家族に、それぞれの事情があり、
それぞれのの人生があるのです。


他人がとやかく言えることではないと思うのです。
「わたしは正しい」けれど、「あなたも正しい」という、
「おもいやり」の心で人と接することができたなら、
イジメや差別も無くなるのではないかと。


author:2020.8.14 付中日新聞朝刊










私は貧しい農家の子として生まれました。
きょうだいは6人いて私は4番目。
父は大酒飲みで、たくさん晩酌をしていました。


私が小学4年生の時だったか、
父が酒を飲んで分からんようになって帰ってきて、
しばらくして玄関で目を醒ました時に、
「百姓は貧乏じゃ。なんぼ働いても貧乏じゃ。


だから頼むけん、おまえはこれから心を入れ替えて
勉強して学校の先生になれ。おまえは勉強したら
先生になれる」と泣きながらそう言うんです。
それで私は頑張って学校の先生になろうと思いました。


高校3年生の時、担任だった国語の先生が
「いまは女性の体育教師が不足しとるから、
大学に行って体育教師の資格を取れ」と。


だけど、私は学校の授業で一番苦手なのが体育だったの。
体育さえなかったら、高校生活はパラダイスだと
思っていたんです(笑)。


そうしたらその先生が「おまえが体育が苦手なのは
分かっとる。だけど、体育が苦手な人間が先生になれば、
体育が苦手な生徒を全部好きになれる。


得意な教科の教員になると、苦手な生徒の心が見えん。
嫌いな科目の先生になることが立派な教師になる
秘訣だ」とおっしゃる。


船乗りになった兄が幸いにも学費を用立ててくれて、
東京の日本女子体育短期大学(現在の日本女子
体育大学)に進むことができました。


1年生の時は「あなたは体育ができんから、荷物を
まとめて帰りなさい」と何回も言われました。


でも不思議ですね。「負けてなるか」と朝4時に起きて
誰もいない体育館でバレーボールやバスケットボール、
跳び箱などの練習をしていると、6か月で皆から褒め
られる学生になったんです。


不可能は可能になるものなんですよ。
これは命懸けでやってみないことには分からない。


最初に勤めたのは東京の田園調布の中学校でした。
いまでは考えられませんが、60年以上前の田園調布
には金持ちの子と貧しい家の子の両方がいて、私は
貧しい子供たちのためにおにぎりを持って通勤
していました。


教室で皆がお昼ご飯を食べる時、一人の男の子が
じっと下を向いている。


「あんた、先生のご飯食べてくれる? 
先生はお昼ご飯は苦手なの。
恥ずかしかったらトイレで食べてもいいよ」
とそっとおにぎりを渡すと、
「いいんですか」と言って1人でトイレで食べていました。


12、3歳の子というのはものすごくお腹が空くんです。
その子とは東京でたった1年間の出会いだったんです。


その子がいまも年に1回は千葉から愛媛に遊びに
来ますよ。


「先生が僕を一人前にしてくれた」と言って。
人間はね、自分が欲さえ持たなかったら、
やったほどのことは必ず自分に返ってくる。


だから、どうか「こんなことをして何になるだろう」
などとは思わないで、誰かのために何かやって
いただきたい。それが一番の願いですね。・・・・






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