妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・一考編













Twitterでとある人のツイートを読んだとき、自分の中に
閉じ込めていた記憶が溢れだした。


自分がコーダ(Children of Deaf Adults)であることを
思い知ることになった、


コーダとは『耳の聞こえない親を持つ聞こえる子ども』のこと。
私の両親は、まったく耳が聞こえず、補聴器は使わない。
手話を言語とし、ろう文化の中で生きる『ろう者』だ。


私の高校進学のとき。ろう学校出身の耳の聞こえない両親に、
何をどんなに相談しても『分からない』と言われた。


親戚は近くに住んでおらず、頼れる聞こえる大人は私の
まわりには誰もいなくて、当時15才で私は人生に絶望した。


今のようにスマホもパソコンも無い時代だったため、
調べようもない。15才の私はどうしたらいいか困り果てた。


だがどうすることもできなかったため、それまでどおり
まわりの同級生と同じようにした。


現在は全県1区の高校受験だが、当時は地域の総合
選抜制で、受験後成績順に3つの高校に振り分けられた。


家から10分の行きたかった高校ではなく、隣の市の
遠く知らない高校に合格した。


高校くじにハズレた私。


合格してからその高校を初めて見に行った。
それでも入学したが、中学と高校では訳が違う。
2年の途中から私は学校に行かなくなった。


聞こえるけども聞こえない親との生活を送ってきた
私には、意味が分からない高校生活だった。


中学校とは全く違う。その頃にようやく自分とまわりの
子との圧倒的な違いに気が付いた。


『親が口を利いてくれるんだ!色々教えてくれるんだ!
親が守ってくれるんだ!私は守ってもらったこと
なんか無い!!』


それまで私は、全て自分一人で何もかも決めて生きてきた
つもりだった。だが実際は、何も分かっていないまま16才
になっていた。


三者面談もあったと思うのだが、覚えていない。
おそらく私自身も無意識の中で「親に言ってもどうせ
分からない。私が決めること。」と割りきっていたのだ
と思う。


『生きる』ということがどういうことなのか、何も分かって
いなかった。手話も日本語も、今考えればほとんど分かって
いなかった。言葉が話せているようで、本当の意味では
話せていなかったと思う。


だが耳の聞こえない母は『この子は聞こえるから大丈夫』
だと信じきっていた。


手話は全くできないに等しい状況。つまり私は誰ともまともに
話したことがない、誰とも話すことのできない16才に
なっていた。


聞こえるけれど話せない。このときの私は『聞こえるろう者』
だった。それに気がついてくれる大人は誰もいなかった。


学校に行かなくなった私を母は叱った。「何故!」と
何度も泣いた。


説明したくても自分の気持ちを言葉にして説明する言語力
は16才の私には無かった。手話ではさらに不可能。
「行きたくない!」の一点張り。


「聞こえるのに何故!」と困惑する母。
泣きわめく母と娘。
意思疎通できない母と娘。


そんな中、母が入院した。ガンだった。
当時ガンだとは知らせず、母は治ると信じて疑わないまま
病気は進行し、47才で亡くなった。


17才の私の誕生日は、母の告別式の日となった。


思い起こせば、母は入院する前、学校に行かない娘を
病気ではないかと病院へ引っ張って行った母。
だが、そこでのやりとりも私がすべて母に通訳しなければ
ならなかった。


自分が辛い中でも、自分のことの通訳をして母に伝えなけれ
ばならなかった。 「この子は聞こえるから大丈夫」という呪縛。
「聞こえる人はなんでもできる」と信じきっていた母。
私はそれが苦しかった。


確かに聞こえてはいるから何でもできるチャンスはろう者
より多い。だが、私は『言葉』を教えてもらってこなかった。


聞こえない親が人と会話している姿をまともに見たことが
なかった。聴者に話しかけられても、分かったふりをして
頷く姿ばかり。


田舎なので、同じろう者と会って話す姿を見た記憶が
あまり無い。話していたとしても、手話が分からなかった
私は手話を見なかった。


そもそも大人の話など、子どもには興味が無い。
私は人との接し方が分からないまま大人になっていった。


外食の際の注文すら、私には物凄くハードルが高い、
声の出し方、声の大きさ、喋るタイミング。…難しかったし、
苦しかった。


どう考えても私は『聞こえるろう者』だった。聞こえる人が
あんなにも早く音声で会話できる意味が分からなかった。
何のためにそんなに喋るのかも分からなかった。


『心』というものも知らないまま、私は大人になっていった。
『朝起きてご飯を食べて学校へ行く。帰宅しテレビを見て
夕食後、宿題をしてお風呂に入って寝る。』これの繰り返し
だったように記憶している。


『会話』が無かった。『会話』することを知らなかった。
『会話』することにどんな意味があるのかなんて考えも
しなかった。


食事はきちんと与えられていたし、欲しいものは買って
貰えた。はた目から見たら生活自体は何も問題無さそう
に見えただろう。


親もやるべきことはやっていると思っていたに違いない。
しかし、私は大切な『言葉』を得ることができなかった。


『心』もよく分からなかった。だから私は今でも自分の
気持ちがよく分からないときがある。


ろう学校の寄宿舎育ちの両親が結婚し、家庭ではどんな会話
をして過ごすのか知らなかったのだと思うが、それにしても
我が家は会話が無かった。


ろう者でもお喋りな人がいるというのは、後に手話を学び
始めてから分かったことだった。それまで『ろう者は話を
しない人』だと思い込んで、私は生きてきた。 ・・・


・・・









「四つ葉の幸せ」


四つ葉のクローバーは見つけると幸せが訪れるという。
小さい頃からいくつもいくつも四つ葉のクローバーを
見つけては母がしおりを作ってくれたが幸せは
そうやすやすとは訪れなかった。


幸せとは訪れるのではなく 心の中に見つけるものだ。
そう気づいて 四つ葉のクローバーを見つけるように
心の中に幸せを見つけ続けた。認知症の母との
一日一日の中でも。


クローバーについては続きの話がある。
五つ葉は金銭上の幸せ。
六つ葉は地位や名声を手に入れる幸せ。
七つ葉は九死に一生を得るといったような
最大の幸せを意味すると。


五つも六つも七つもいらないなあと思う。
四つ葉で十分だと思う。


母のしおりには言葉が添えられている
「四つ葉を手にすることより 四つ葉を見つけることを
楽しみなさい」と。


「四つ葉」を「幸せ」と置き換えて 母の言葉を読んでみる。
『この手の空っぽは きみのために空けてある』


パソコンで「幸せ」という言葉を検索したら、とにかく多量の
「幸せの詩」が見つかった。こんなに書いていたかと驚く
ほどの数だ。


ずっと幸せを感じたのであれば、私は「幸せの詩」は
書かなかっただろうと思う。幸せをあまり感じなかったから、
いや、「幸せ」が何なのか分からなかったから、詩の中で
「幸せ」を私は追求した。


日付を見ると、母を介護始めてから書いたものが
大部分だった。詩という形で、介護という生活の中に
どんな幸せを見つければいいか、自問自答を繰り返していた。


思い通りにならない自分の人生にもがき苦しみながらも、
そこに一筋でもいい希望の光を見つけたかったのだ。
でも、私には、「幸せ」が何なのか長いこと分からなかった。


そんなある日、「お前の人生は不幸せだなあ」と言われた。
そう言われても、ぴんと来なかった。自分の人生が不幸だと
思ったことがなかった。


確かに、母が認知症になり、介護を引き受け、離婚をし、
再婚した妻を乳癌でなくし、めまぐるしくいろんな出来事が
私のまわりに起こった。


確かに、辛く悲しい思いもいっぱいした。幸せが何か
全く分からなかった。でも、それは不幸ではなく、
私の人生そのものなのだ。


その人は、不幸せを出来事や人生の状況だと思っている
に違いなかった。しかし、むしろその人の言う「不幸な」私の
人生の出来事一つ一つを私は誇りにさえ思っていたのだ。


この人の言葉が、私の人生を見つめ直すいい機会になった。
認知症の母との介護の日々こそ、思い通りにならないこと
の連続だった。そして、その一つ一つを私なりに乗り越えると、
それが自分の自信になった。


重荷を背負い歩くのは、骨が折れる。しかし、精神の
足腰を強くしてくれているという実感があるのだ。
自らの人生を引き受けることこそ幸せかもしれないと
この頃思うようになった。


私に起こる人生を引き受け、乗り越えると、また目の前に
自分の人生が開けていく。それが幸せなのかもしれない
と思うようになった。つまり、幸せは人生の結果ではなく、
その過程にあるように思うのだ。


お金持ちになることが幸せだと思っていたときもあった。
偉くなるのが幸せだと思っていたこともあった。しかし、
私にとっての幸せとは、どうもそこら辺ではなさそうなのだ。


自分のできることで人を支えること。人の幸せを助けること、
それこそが私の幸せのようだと母との日々を振り返って思う。


詩「そよ風のような幸せ」


母が死に向かって 一歩一歩 歩いている
私は見えない幸せを探して 一歩一歩 歩いている


時には私の道を 母の道に重ねて歩く
いつか必ずと言える 幸せが見つからない
死に向かっている母の中に どんな幸せを
見つけていけばいいのか


母の死を見つめている私の中に
母とのどんな幸せを願えばいいのか
食べ物を飲み込めなくなった母
やせ衰えてしまっている母
胃瘻を通すことになった母
こんな毎日に どんな幸せが待っているというのか
死が待っているだけじゃないか


口を閉ざし、何も食べない母と それを見て困惑している
私に 寝たきりの隣のお婆ちゃんが 「心配ですね 
お母さんもがんばってね」と励ましてくれた


母が私を見て笑ったそよ風のような微かな幸せを感じた


目指す幸せなどいらない 母が死にたどり着くまで
母と一緒に 生きていることに 幸せを感じていけば
これが幸せなのだ


そよ風のような幸せを 感じていけばいい
それでいいのだ


「青空という幸せ」
  
幸せは 青空のようなもの。
ずっと青空だったら 青空のありがたさも
美しさも こんなには感じない。


雲が流れ 雲に覆われ 青空は見えなくなり
時に雨が降り 青空を待ちこがれて
やっと青空の美しさに 心打たれる。


母の介護の中で 苛立ちという雲が出て
悲しみという雨が時に降ることで
その後ろに広がる 青空のような本当の幸せが
私にはしっかり見えてきたようだ。


青空は ただ頭上に広がっているもの。
幸せもまた ただあるもの。
求めるのではなく 気づくものなんだ。


・・・





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