妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象













通学、通勤しながら家族の介護を担っている若者
「ヤングケアラー」。


存在は知られていながら、人数や実態は長い間把握
できないままでした。


しかし、2020年3月、公的統計を応用して分析する
「オーダーメード集計」によって、新聞社が15~19歳の
ヤングケアラーの存在を可視化しました。


新聞社の分析によると、家族などの介護を担っている
15~19歳の若者は推計37,000人(2017年時点)。


そのうち約8割が通学しながら、週4日以上、勉強と介護
を両立させていました。


以前、高校1年生の時から8年間、父親の介護をした
経験がある男性・Tさん(仮)に話を伺ったことがあります。


突然の病気で倒れたTさんの父親は、半身マヒ、認知症となり、
日に日に介護は大変になっていったそうです。


当時、すでに介護保険制度は始まっていました。
当時50代だった父親は第2号被保険者です。


しかし、まだ16歳だったTさんも、当時50代だった母親も、
日々の介護に必死で、『介護保険のことには数年間、
思い至らなかった』と話していました。


朝、トイレが排泄物で汚れているのを掃除してから登校する。
夜は、家を出て行こうとする父親を止めるために、
玄関で寝る。そんな時期もあったとのこと。


学校に行けば、友人たちは勉強のこと、部活のことなど、
高校生らしい会話を当たり前のようにしています。
父親の介護に追われる自分の生活とのあまりの違いに、
到底、介護の話などできなかったと言います。


周囲に話もできず、支援も受けられず、ただ必死で母親
と二人で父親の介護を続ける日々。 話を聴いていて、
こちらの方が、胸がつぶれそうな思いになりました。


「自分は、まだ役所に頼るほどの状態ではない」


介護のあまりの大変さに、Tさんは一度、何か公的支援は
受けられないかと、学校帰りに制服で役所に聞きに行った
ことがあったそうです。


しかし、そのとき窓口の担当者には 「話はわかったけれど、
今度、お母さんと一緒に来てくださいね」 と言われたとのこと。


「制服を着た子どもが来たのでは話にならない、と思った
のでしょうね。そのとき、ああ、まだ役所に頼るような状態
ではないんだな、と思ってしまったのです。


だから母にも一緒に行ってほしいとは伝えませんでした」
とTさんは、当時を振り返って話してくれました。


さすがに今、どこの役所でもそのような対応をすることは
ないと思います。その当時も、感度の高い窓口職員で
あったら、対応は違ったのではないかと感じます。


しかし不運なことに、Tさんはそのとき、介護保険とは
つながれないままでした。


大学に進学しても、日中の介護を担い、大学と自宅を
往復するだけの日々が続きます。


ようやく介護保険制度とつながったのは、介護を始めてから
3年半がたった頃でした。


ヤングケアラーが感じる『介護以外のつらさ』とは?


ヤングケアラーとして介護を続けた日々を振り返り、
「介護生活もつらかったが、誰にも相談することも愚痴を
こぼすこともできなかったことが本当につらかった」と
Tさんは話していました。


大人であっても、介護のつらさは介護経験がない人に
話してもわかってもらえない、だから話す相手を選ぶ、
という声をよく聞きます。


ましてや、青春まっさかりの友人たちに介護の話をしても、
共感してもらうことは難しいことでしょう。


だからこそ、閉ざされた生活の中で介護を担っている
ヤングケアラーには、気持ちを受け止め、ねぎらい、
評価してくれる人の存在が本当に必要なのです。


ヤングケアラーには、親や祖父母など年長者のケアをして
いる人だけでなく、障害を持つ兄弟のケアをしている人も
います。


小さい頃から当然のように親と一緒にケアを分担している
ケースもあり、本人もそれが当たり前の生活になっている
場合もあります。


しかし本来、享受できる様々な楽しみをあきらめざるを
得ないこと、そしてそれを嘆くことに罪悪感を覚えざるを
えない環境もあり、問題はより深刻かもしれません。


また、ヤングケアラー問題の大きな課題は、実態把握が
難しいことです。本人たちは介護を担っていることを語り
たがらず、表面化しにくいのです。 ・・・・


そんな中、2020年3月、埼玉県が全国で初めて
ヤングケアラーを含むケアラー支援の条例を制定しました


author:宮下公美子








私は熊本地震への復興支援祭りに行きました。
そこで、お祭りの最後に金魚すくいを楽しみました。


もう八時を過ぎていたので、私が一回終えたところで閉め
始めたお店の人から、「今日が最終日だし、復興を願って
好きなだけ持って帰っていいよ」と声をかけられ、


金魚を二十二匹ももらいました。


その場で大喜びした私は、ひしめき合って泳ぐ金魚の
入ったいくつもの袋を握りしめ、意気揚揚でした。


もちろん金魚をそれだけすくったこともなければ、
もらったこともなかったからです。


しかし、帰宅した私は一転、まだ汗をかいたままなのに、
信じられない夏の寒さを感じました。


育てるための水槽さえ用意してありませんでした。
金魚にとって致命的となる水道水のカルキを抜く
だけでも一晩では間に合いません。


仕方なく、袋に入れたままにしておきました。もうその時の
私は、嬉しかった気持ちなど一切なく、ただ、怖くて
不安な気持ちが心の中をぐるぐる回っていました。


次の朝、袋の中で一匹がなくなっていました。
私は、たった一晩の命だった金魚のお墓を作りました。


その日なくなったのは幸い一匹でしたが、二週間後には、
七匹がいなくなりました。これだけ沢山の命を預かった
自分が失敗だったと痛感しました。


今、生きているのは一匹です。生きていてくれてありがとう
と思います。あの日私は、命のはかなさを学びました。


命は、はかないものです。それは、金魚でも人でも同じだ
と思います。だからこそ大切なのです。


あの日からよく考えるようになりました。限りある命の重み
に胸が苦しくなります。金魚すくいもしていません。


命に責任を負いたくないわけではなく、忘れたくないからです。
改めて、優雅に泳ぐ一匹の金魚、その心に染みるはかなさ
の中に、大きな命の輝きを見ます。  


誰もが一度は経験したことがあるに違いありません。
生き物を飼うと、必ずと言っていいほど「別れ」時の時の
「悲しみ」に出逢います。


でも、同時に、「命」の尊さも学びます。
金魚の「命」と、人の「命」を素直に結び付けられること。
素晴らしいです。


震災復興支援のお祭りに導かれたのでしょう
・・・・





ぼくは学校へ行くために毎日バスに乗る。
ぼくが乗るバス停は始発駅から二駅目だ。
そのため車内はまだ空席が目立つ。


ぼくは、小さい時から乗り物が好きで、その中でも好き
だったのがバスであった。そのため、バスに乗る時は、
必ず運転席が見える一番前の高い席に座っていた。


そんなある日のことだ。車内が、だんだんと混んできていた。
すると、一人のおばあさんが、乗ってきた。


そのおばあさんは、杖をつきながら乗ってきて、とても
大変そうだった。そのためぼくが 「この席、座りますか?」


と聞くと、おばあさんは、 「いいです。私、その席は、高くて
座れないから。ありがとう」 と言われた。


ぼくは、そのおばあさんが、かわいそうでたまらなかった。
そんなことを思っている間に、駅に着いてしまった。


翌日、ぼくは、バスの中で、あのおばあさんのことを思い出し、
いつもの席ではなく、後ろの方の席に座ることにした。


そして、案の定、杖をついたおばあさんが乗ってきた。
そして、ぼくが、 「座りますか?」 と聞くと、 「ありがとう」
と言って座っていただいた。


これが、ぼくの日課となり、おばあさんとも仲良くなった。
最初は、おばあさんに声をかけるのも、ドキドキした。


しかし、今となっては、最初の勇気のおかげで、今では、
おばあさんとお話する仲になっている。


言葉がけの力は、ぼくも気持ちがいいし、おばあさんも
きっと嬉しかったにちがいないと思うと、人の気持ちを
動かす、すごい力を持っている。・・・・    


誰もが一度は経験したことがあるはずです。
「電車で席を譲ればよかった」
「道に迷っている人に声をかければよかった」と。


チラリと後悔はするものの。ほとんどの人が、そのことを
すぐに忘れてしまうものです。


それが、もう翌日から実行に移すとはすばらしいです。
その姿勢、生き方に見習わねば。 ・・・・






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