妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象













その女性は、母親から虐待を受けて育ちました。
母親自身も幼少期に虐待を受けた影響から、重度の
精神疾患を抱えており、女性は小学生の頃から母親の
ケアをしてきたといいます。



キレやすい母との毎日は地獄のようだった
亜希さんは、両親と妹の4人家族でした。小さい頃から、
母親は「怒るとものすごく怖い」と感じていたそう。


例えば彼女が6、7歳の頃には、こんなことがありました。
「視力が悪くてメガネをつくることになったんですけれど、
そのとき母親が錯乱状態になっちゃって。


母親自身もメガネでいじめられた経験があったせいで、
たぶんいっぱいになっちゃったんです。それで私と心中しよう
としたのか、私を包丁で刺そうとしたんです。
とにかく刃物をもって暴れまわっちゃって」


娘のメガネで、錯乱? 


亜希さんにとっては、そう驚くことではなかったようです。
母親は「自分が受け入れられない現実があると、急に
スイッチが入り、刃物をもって暴れまわる」のが日常
だったからです。


子どもたちを殴る蹴るは当たり前で、寝ているときに急に
耳を引っ張られたり、お風呂で突然冷水をかけられたり
したことも。刃物で流血したことも、慣れるほど「よくあった」
といいます。


父親は「問題に向き合わないタイプ」でした。


「父親の足音が聞こえるだけで母親がパニックになる」ので、
最初は亜希さんと妹で両親が顔を合わせないように対応
していましたが、亜希さんが10歳の頃から父親がアパート
を借りて家を出て、そのまま現在にいたるということです。


母親自身も幼少期に自分の父親からひどい虐待を受けており、
そのことを亜希さんに繰り返し語っていました。


勉強中でもなんでも、つねに聞き役を求められるのは負担
でしたが、「うるさい」などと言えばまた暴れだしてしまうので、
「とにかくひたすら我慢」して聞き続けていたといいます。


病院で母親が受けた診断は、うつ病、パニック障害、
境界性パーソナリティー障害など。


とくに、亜希さんが小学校高学年だった頃は「キレやすく、
毎日が地獄のようで、包丁や放火にビクビクしていた」
と振り返ります。


しかも母親からは宗教的な虐待もあり、さらに両親からの
性的虐待もあったとのこと。


母親の症状が悪化したきっかけのひとつは、祖母との
同居でした。虐待を受けていたときに助けてくれなかった
祖母に対し、母親は当然よい感情をもっていなかったの
ですが、その祖母がアルツハイマーになったのです。


事情により数カ月間、亜希さん一家と同居したところ、
「母の暴動が毎日のように起き始めた」のでした。


「携帯で電話がかかってきて『今、どこどこのビルの屋上
にいるから』とか。電話越しに『そんなこと(飛び降り)しないで』
と言って、とにかく説得して帰ってきてもらったりして。


あとは刃物で手首を切ったり、家の2階のベランダから飛び
降りたり。死ぬとかじゃないけれど、骨折とか。母としては、
いっぱいいっぱいだったようです」


ときには家族に激しい他害行為をして、警察を呼ばざるを
えないこともありました。


「でも母は、自分がしたことを全部なかったことにして、事実
をすり替えちゃうし、平気でうそをつく。でも、本当に記憶が
入れ替わっているんだと思うんです。


だから、母がひどいことをしたから私たちが警察を呼んでも、
自分が被害者だと思っているので、話がまるで通じない。
警察の方には親子げんかだと思われてしまうので、
児相などに保護されたことは一度もなく、ただ耐える
しかありませんでした」


家事全般も、小学生の頃から亜希さんが担っていました。
母親の症状が最も重く寝たきりだった頃は、トイレや食事
の介助までしていたといいます。


母はパニック障害でもあったため、電車に乗る際や、
通院、買い物に付き添うこともたびたびありました。


このように家ではつねに神経を張りつめていた亜希さん
でしたが、中学校では「地域に知れわたるほど」の
いいじめも受けていました。


2年生のときに転校したものの、転校先の中学でもいじめの
ことは知られており、再びいじめられるようになってしまいます。
ストレスの影響か、亜希さんの心身にはだんだんと異変が
出てきました。


パニック障害になって動悸がしたり、唾液恐怖(唾を飲むこと
が気になる)になったり、ヒステリー球(のどから食道にかけて
詰まった感じがする)の症状が出たりするようになったのです。


高校は近くの進学校に入ったのですが、次第に教室にいる
だけで「動悸や唾液のことで頭がいっぱいになって、足裏に
脂汗をかいたり、全身に冷や汗をかいたり」するように。
もう、勉強どころではありませんでした。


「アルバイトして貯めたお金で心療内科のクリニックに
通ったりしていました。本末転倒というか、滅茶苦茶なんで
すけれど(笑)。


でもそこで出してもらった薬も強すぎちゃって、授業中に
眠ってしまったりして。もうフラフラな状態で、どうにかこう
にか卒業できた、みたいな感じでしたね」


残念ながら当時、亜希さんが置かれた厳しい状況を
理解する先生はいませんでした。症状や薬のことを
相談したら「病気を言い訳にするな」と突き放されたことも。


信頼する先生に家の事情を話したところ、「(親との関係
について)お前は間違っている」と笑われてしまったことも
ありました。


高校を卒業後、亜希さんはいくつかの仕事を経験して
きました。いじめの影響もあってつねに人の目が気になり、
さまざまな症状を抱えつつ薬を飲んで、なんとかやって
いたそう。


そんなつい数カ月前、気持ちが少し上向くきっかけがあった
といいます。


「プロレスの、真壁刀義さんってご存じですか? 
タレントもされていて、現役のプロレスラーの方なんです。


私自身、今年に入ってからいろいろあったんですね。
もう人生終わりにしようと思って、首を吊ったんですけれど。
なんかこう諦めきれなくて、ただただ時間を潰すために
YouTubeを見ていたら、その方のチャンネルが『オススメ』
とかに出てきて。それではまっていって、勇気をもらった
感じでした。


真壁さんは新人時代に理不尽なしごきを受け続けていたん
ですけれど、『自分は後輩に同じことはしない』っていう強い
決意があったそうなんですね。


だから真壁さんの後の世代の新人には、そういう理不尽な
いじめがなくなったというエピソードがあって。ネットでその話
を知って、すごく勇気をもらって。


悪いものは次の世代に継承しないという、そういう決意や
覚悟をくれたんです」 まさかの、プロレスでした。
それが亜希さんに大きな力を与えてくれたのです。


「ずっと自分の存在を許せていなかったんです。
母からは『生まなきゃよかった』とか言われて、家でも
学校でも否定され続けてきたので、もはや死にたいとか
じゃなくて、『私の存在をもともとなかったことにしたい』
という感覚があって。


だから、疑問に思うことがあっても、表現なんてしようとは
思えなかったですし。 真壁選手も、プロレスの世界で必要
とされない不遇の時代が長かったんですけれど、そこで
腐ったりあきらめたりせず、ただ淡々とやるべきことを
真面目にやり続けて、結果、花を咲かせている。


それを知ったら、私も自分の存在を責めたりしている場合
じゃないなって。何かにつながらなくても、やれることをやって
いこうと思って。


なぜ、こんなにもハマっているのか。最初は亜希さん自身
にもわからなかったのですが、真壁さんやプロレスから
受け取ったメッセージの意味に気づいたとき、自分でも
腑に落ちたということです。


亜希さんは現在、両親とはほぼ絶縁状態だということです。
母親に対しては、だいぶ前から「わかり合える人ではない」
とあきらめて連絡を絶っており、


数年前には父親からも連絡が来ないよう、携帯電話の
番号やLINEのアカウントを変更しています。


父親は暴力をふるったことはないものの、両親の問題が
子どもに与えた影響をまったく自覚できず、亜希さんに
自分の愚痴を聞かせるばかりでした。


そのうえ、お酒を飲むと亜希さんが傷つくことを告げるため、
もうかかわる必要はないと判断したのです。


「子どものときに『ああ、私、親を子育てしてるな』って、
はっきり思っていたんですよね。生意気ですけれど。
親に教えられたこととか、そういうものが一切なくて。


言われて響いたこととか、『こうやって生きていけばいいんだ』
という受け取れたメッセージが、何一つ残っていない。むしろ
反面教師にすべきことばかり。


私のほうから『こうやって関係性を作っていこうよ』とか、
父と母に働きかけ続けてきたんですけれど、結局は何も
実らなかった。


「家族」に頼りすぎるから、ヤングケアラーが生まれる
ヤングケアラーだったことについては、こんなふうに感じて
いるといいます。


家族だからケアすることが当たり前というふうに、いまは
社会全体が思っちゃっているけれど、個人個人にだって
生活がありますし、人生がある。


だけれど結局『家族のなかで、なんとかしてよ』という制度
だったりするじゃないですか。それはやっぱりまずいな、
というのを一番思います」


取材から5カ月。今月ひさしぶりに亜希さんに連絡したところ、
なかなか連絡がつきませんでした。ようやく話を聞いたところ、
その後、PTSDやうつの症状が悪化して苦しんでいたことを
教えてくれました。


いまは、体調を崩しながらもなんとか働いているといいます。
一進一退で、でもちょっとずつ前に進んでいる、
亜希さんなのでした。 ・・・・










朝日新聞の夕刊(2020.11.13)の一面に、こんな見出しが
ドーンと載りました。


「手話の接客スタバのぬくもり」 東京国立市のスターバックス
国立店では、店員23人のうち、なんと18人が聴覚障がい
があり、主に手話や筆談でお客様の接客を行っている
というのです。


たとえば、店員さんが、
「今日のコーヒーはグアテマラです。ごっゆっりと!」と、
コーヒーと一緒に、黒いボードにサラサラッと文字を書いて
お客様に差し出します。


それを見たお客様は、指で、オーケー!とサインをして
返します。すると、今度は、店員さんが、手刀を着る動作で
「ありがとう」と手話で伝えてほほ笑む。それが、このお店
では「ふつう」なのだといいます。


しかし、それを実践するには、企業としてどれほどの覚悟
と準備が必要であることか。・・・・


耳と言葉が不自由でも、社会で働いている人は大勢います。
でも、なかなか飲食業では、接客を担当することは難しい
のが現実。


本人がチャレンジしてみたくても、最初からバックヤードに
配属になることが当たり前になってしまう。経営者や
マネージャーとしては、お客様のクレームが怖いだけでなく、
「そんなことできるわけがない」と思い込んでしまう。


スターバックスnonowa国立店では、手話がよく見えるようにと、
店内の照明を明るくして、カウンターは低めで表情が映える
白い人造大理石で作られているそうです。


つまり、設計の段階から、聴覚障がいの人達が働きやすい
お店作りをされているのです。これはすごい!企業の並々
ならぬ覚悟が見えます。


注文のレジでは、「私は耳が聞こえません」
「指さしでのご注文にご協力ください」と書かれた
ボードが示されます。


スタバでは細かなカスタマイズができます。例えば、
「カフェラテのソイ(豆乳)で、トール(大きめ)サイズのホットで、
エスプレッソショットの追加。シロップを2ポンプで、
エクストラホット(熱々)にしてください」とか。


そんな注文も、このお店では大丈夫。
無料サービスのハチミツを入れて欲しい時、お客様が
マスクを一瞬はずして声を出さずに大きめの口を開けて、
「ハチミツ」と言えば、くちびるの動きを読み取ってもらえる
というのです。


店員さんは、それに答えて、「ひと回し? ふた回し?」
と尋ねてくれるのです。


ここで、大切なこと。お客様の理解が必要になるのですね。
お客様も、店員さんが耳が聞こえないことを気遣って、
どうやったらお互いに快適にコミュニケーションを
はかれるか考える。けっして、急かしたり、文句を言ったり
しない。


SDGs(持続可能な開発目標)をご存じと思います。
国連の持続可能な開発のための国際目標です。
(1)「貧困をなくそう」
(2)「飢餓をゼロに」
(3)「すべての人に健康と福祉を」
(4)「質の高い教育をみんなに」
・・・など、17のグローバル目標があります。


スターバックスnonowa国立店は、その中の
(3)「すべての人に健康と福祉を」
(4)「質の高い教育をみんなに」
(8)「働きがいも経済成長も」
(10)「人や国の不平等をなくそう」
(11)「住み続けられるまちづくりを」
(16)「平和と公正をすべての人に」
(17)「パートナーシップで目標を達成しよう」
と、なんと!7つの目標の達成に貢献できるものと
思われます。実に、その存在意義の大きいことか。


一人ひとりの「おもいやり」が世の中を変えていく。
たくさんでなくても、ほんの少しでいいのです。
そう、無理なく、自然にできる範囲で。


誰もがどこへ出掛けてもなんの不自由もなく暮らせる
世の中が訪れることを願ってやみません。


※SDGs(持続可能な開発目標)について詳しくは
国連のホームページを参照してください。・・・・





「お弁当の日」というのがある。


生徒に食の大切さを気づかせる食育活動の一環で、
献立、買い出し、調理、弁当箱詰め、そのすべてを子ども
だけでやらせる日である。


実践校は全国に数千校もあるそうだ。確かに食育にお弁当
はとてもいいと思う。



(お弁当の想い出 その1)


高校時代、同じ部活動をしているWという友人がいた。
彼は昼食に菓子パンを食べていることが多かった。


昼に姿が見えなくなることもあった。ある日の昼休み、
僕が何かの用事で部室に行くと鍵が開いており、中に入ると
Wがひざを折り曲げてぼおっと座っていた。


Wは家が貧しく母親もいなかった。
僕は毎日お弁当を食べられることが当たり前だと思って
いた自分の傲慢さに気づいた。


(お弁当の想い出 その2)


僕が以前働いていた会社で、当時五十代後半のMさんが
建設現場でお弁当を取られた。


現場では車に鍵を掛けないことが多かったので部外者が
侵入してお弁当を盗むことが時々起こった。


Mさんには悪いが、財布を盗まれるのと違いお弁当を
盗まれるというのはちょっと滑稽な感がある。
Mさんもみんなと一緒に笑っていた。


でも少し落ち込んでいるようにも見えた。その日の晩。
みんな帰った静かな事務所でMさんが言った。
「弁当箱だけでも返って来ないかな。


実はね、この会社に再就職が決まった時に娘が買って
くれた弁当箱だったんですよ」。そう言って悲しそうに
微笑んだ。 (


お弁当の想い出 その3)


これは妹の結婚式で読み上げられた両親への感謝の
手紙の一部だ。


「恥ずかしい話ですが、私は会社に持っていくお弁当を
お母さんに作ってもらっていました。


『マンネリでごめんね』といつもお母さんは言ったけど、
お母さんのお弁当の味は一生忘れません」


妹の涙声に僕も思わず涙が出そうだった。母を見ると、
意外にも母は毅然と立ち、じっと妹を見つめていた。
その姿がなんだかかっこよく見えた。


ちなみに母の隣にいた父は大泣きしていてとても
恥ずかしかった。 ・・・






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