妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・森羅万象











昭和天皇の理髪師として、23年にわたり陛下にお仕えした
石井幸家氏。


戦争を挟んだ激動の時代を歩み続けた聖の帝・昭和天皇
を間近で拝してこられた日々、その知られざる素顔 ・・・



天皇陛下はめったにお話しなされない。
必要なことは簡潔にいわれるだけである。しかし、
その簡潔なことばの中にしみじみとした思いがこめられ
ていることが多い。


私は陛下の理髪師を23年近く務め、後進に道を譲った。
昨年の大みそか、吹上御所で最後の理髪を終えた
午後6時頃、ご座所前の廊下で、 「在職中、ご苦労であった」
と、陛下からお言葉をかけられた。


最敬礼して頭を上げても、じっと私を見つめておられる。
慌てて、再び頭を下げた……。そんなことを3度も繰り
返したあと、陛下はうしろを向いて歩いていかれた。


私はなんともいわれぬ思いにかられ、ふと初出仕のことが
頭に浮かんだ。


昭和39年、当時、一流の政財界人を常連客に抱えていた
頃で、私がレザー(かみそり)を持った手は、足元を
すくわれようと、天井が落ちてこようと本能的に反転する
と自負していた。


それが、初仕事のときは、陛下を前にして手が震えだし
止まらなかったのである。


私は陛下の前で刃物を持つただ一人の人間かもしれない。
その重責に震えたのである。


この23年間、整髪中、陛下とことばを交わしたことは、
数えるほどしかない。しかし、ずいぶん多くのことを
教えていただいたような気がする。


まず、陛下は、誰に対しても同じ接し方をされる。
相手が入江侍従長でも、一理髪師の私でも同じことだ。
決して区別はなされない。 何よりも礼儀正しい。


陛下は決して「ありがとう」などとはおっしゃられないが、
必ずきちっと足をそろえて会釈なさる。理髪室に入って
こられるときも、終わって出ていかれるときも同じである。


ただ、椅子に座られてからはリラックスされる。
背伸びもすれば、あくびもされる。疲れておいでのときは
居眠りもされる。



理髪の曜日・時間は決まっており、生物の研究をされたあと、
4時半になると必ず研究の手を休められて理髪室においで
になった。


普通の方なら、研究に熱中していれば、ちょっと待って
ほしいということになるが、絶対そのようなことはない。


研究途中で心残りなのか、ブツブツと独り言をいわれたり
もする。それでも時間を違えることはなされない。
その意味では、時間の使い方が大変お上手のように
見受けられる。


もっとも、陛下が時間を変えられれば、多くの者が迷惑を
することをご存じだからかもしれない。従って、周囲の者を
おもんばかって、我慢強く耐えられていることも多いの
ではないかとすら思うときもあった。



心労のあまりか急にフケ、脱毛が増えられたのである。
陛下はしばらく我慢しておられたようだが、ある日、
「かゆい」と一言いわれた。


以来、月2回のご理髪が、毎週交互にご理髪とご洗髪を
繰り返すことになったのである。


いまもこのスケジュールは続けられているが、ご自身の
一言が、大きな影響を与えることをよく知っておられる
のである。



しかし、逆な意味では、掛け替えのない方のお相手を
するだけに、気を使うことも多かった。


まず、自分の健康である。休むことはもちろん、
風邪でもひいて無理して出仕すればお移ししかねない。


私はかかりつけの医者を持って、月に2回は検診を受け、
体調を整えてきた。私が風邪一つひかずにこられたのは、
陛下のおかげといえよう。


次に理髪の道具である。私は考えられるかぎり最良のもの
を使った。しかし、これは私の力ではない。


私のものには、全国各地の名人とものいうべき職人たちから、
最良の作品を無償で送られてくるのである。縁の下の
力持ちとして、その作品に心魂を傾けてくれる。


しかも、みな私の手に合わせ、年齢による変化に合わせて
制作してくれる。その意味では、私も改良のため、どんどん
注文を出す。


こうした、職人とのやり取りが、年々続けられてきたのである。
私の背後には、そうしたブレーンが8,000人はくだらないの
ではないだろうか。


例えば、べっこうのクシを手びきで一本一本ひくなど、材料
でさえなかなか手に入らない時代に、普通では考えられ
ないことだ。それを名人といわれる人が、年に2本、
私だけのために制作してくれてきた。


そうした総和があって、私の理髪は可能だったのである。
3年ほど前、故・入江侍従長に陛下に代わってそうした
縁の下で働く人々にお礼をしていただきたいと、お願い
したことがある。


入江侍従長は、快く引き受けられ、お礼の色紙、掛け軸に
自ら筆を執ってくださった。


〝人間〟という字は、「人の間」と書くが、この字の奥行き
の深さを心の底から実感しているのである。 ・・・・










産んでから初めてわかった、わが娘の重い障害。
母親は、頼れる人のいない異国の地でもがき苦しみ、
絶望の縁まで追い込まれた。しかし、


それをも凌駕する喜びをもたらしてくれるのもまた、
わが子にほかならない・・・・


それに気づき、前を向いて歩くことを選んだ家族の
14年8か月の軌跡を追う。


「わが家には、長女の千璃(せり)が生まれた頃の写真
はありません。千璃が生まれた瞬間、主治医に“NO!”と
カメラを取り上げられてしまったのです」  


愛娘誕生の瞬間をこう振り返るのは、ニューヨーク在住
の倉本美香さん(48才)。


千璃ちゃんには目がない。
無眼球症という障害で、彼女のように両眼ともない症例は、
12万人に1人といわれる。


鼻や口蓋の奇形、心疾患や発達遅滞などの重い障害があり、
このような重度の重複障害は、前例がない。  


美香さんはこう話す。 「相模原の障害者施設で19名の
尊い命が失われた事件は、米国にも衝撃的なニュースと
して伝わって来ました。


『障害者は世の中のお荷物、世の中からいなくなるべきだ』
という容疑者の言葉に、震えました。


体が大きくなって、介護が必要になった障害者を家族だけ
で世話をするには限界があります。施設に子どもを送り出す
親御さん達は、やむなくその結論に達したのかもしれません。


その送り出した先で、我が子が殺傷された気持ちを思うと、
いたたまれませんでした。


『障害者は不幸を作ることしかできない』と容疑者は言った
けれど、千璃の存在は、私達にたくさんのものを与えて
くれています。


千璃が生まれてきて、たくさんの障害を持ってきたことで、
私たちは本当に必要なものは何かを勉強できていると
思います。千璃が存在してくれているだけで意味があります。


千璃とは言葉でのコミュニケーションははかれないけれど、
私はいつも彼女に『生まれて来てくれてありがとう。
生きていてくれてありがとう』と言葉にして伝えています」  


そんな美香さんが千璃ちゃんとの日々を綴った
『生まれてくれてありがとう 目と鼻のない娘は14才になりました』
が出版された。


そこには困難を極める子育ての様子が記録されている。


「ああ、この子は生きたいんだ」 搾乳した母乳を与えるにも、
5~10cc飲ませるのに何十分もかかった。


睡眠を促すメラトニンの体内生成ができず、睡眠時間は
長くて3時間。千璃ちゃんが泣いて起きるたびに、美香さん
も起きて世話をした。


「まさに不眠不休。生後4か月を迎えた頃には、先の
見えない闘いに疲れ果て、千璃を連れてアパートの屋上
から飛び降りようと思ったことがありました」(美香さん)  


死を覚悟した美香さんがドアを開けると、さっきまで
とめどなく泣き叫んでいた千璃ちゃんが、音楽を聴いて
キャッキャッと笑っていた。


「ああ、この子は生きたいんだ」 この瞬間、美香さんに
迷いはなくなった。


目だけで30回を超えた手術代をまかなうためもあったが、
周囲の一部に咎められても、好きだった仕事は
やめなかった。


2年後には長男が誕生。やがて子供は4人になった。  


千璃ちゃんはその後、頭蓋骨を開けて骨を取り出して整え、
また戻すという大手術などを経て、少しずつではあるが、
着実に成長していった。


「わが家は3人の弟妹にとって、障害者と一緒にいるのが
当たり前の環境です。次男はいつか研究者になって、
千璃を治したいと言ってくれています。


どの子も思いやりの深い子供に育ってくれています。
千璃は決して、家族のお荷物などではない。それどころか、
私たちにとっての希望の光なんです」  


今では、成長記録の写真も増えた。千璃ちゃんの成長は、
すべてが家族の喜びに変わるのです。 ・・・・








「たった一言エピソード」


まだ19歳位の就職してすぐの頃、完璧主義で真面目過ぎた
私は、誰よりも強くなって仕事もプライベートも勝ち上がる
事ばかり考えて疲れ切っていました。


そんなある日、友人と食事をしていると友人の携帯が
鳴りました。すると、どうやら私にかわるよう言われた様子。


名前を知っている程度の人から何を言われるのかと
ドキドキしていたら、 「あんな、これだけ言わせて。


上を見を見るのも大事だけど、下も見ないとダメになるで。
持ってる人と比べて落ち込むより、持ってない人と比べて
自分はまだ恵まれてるって思う事も大事やない? 


少なくとも心底心配してくれる友達がおる事に自信は
持ちな」と。 ・・・・


どうやらストレスで痩せ細っていく私を心配した友人が
その人に相談していたようです。


その事にも感動したし、下を見ろと言う言葉に衝撃を
受けました。


同時に不思議と気持ちがラクになっていくように感じました。
自分以上に苦労している人もいる。努力せずにグチばかり
こぼす人もいる。


そんな中で自分は、必死に目指す目標もある。
努力できる環境と信頼できる仲間もいる。
それがどれだけ恵まれているのかを目の当たり
にしたような感覚でした。


それからは悩んだ時にはまず、この言葉を思い出す
ようになりました。そのおかげで自分はまだ頑張れる!
と思えるし、周りに優しくできるようになった気がします。


何より自分の環境に感謝の気持ちを持つようになりました。
あれから10年たって相手はこの会話を覚えてもいない
でしょうが、私にとっては今でも大事な言葉です。
・・・・





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