妄想劇場・流れ雲のブログ

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韓信 [シリーズ] 砂漠を行き、草原を駈ける・西域を立ち去る














韓信 [シリーズ]
砂漠を行き、草原を駈ける ・西域を立ち去る


「なぜ……死因はなんだ」
欣怡は答えた。「お産のあとの経過がよくなかったようで…


…傾国の美人とまで言われた夫人は、病床で崩れたご自分
の美貌を決して陛下に見せようとしなかったそうです。


病に苦しんで化粧もできないお顔を見せてしまえば、
陛下は興ざめしてしまうだろうと心配したのだそうです」


「人が生死の境を彷徨っている最中に、顔が美しいとか
醜いとか…そんな心配をするより妹は自分の健康に留意
するべきだったのだ。


我が妹ながら、何を血迷ったのか……馬鹿なことを言って
意地を張ったものだ」


「将軍さま、そうではありません。夫人は、自分の乱れた
お顔を陛下にお見せして愛を失ってしまっては、将軍さま
と延年さま……お二人の運命を左右してしまうことになる、
そのことをご心配なさったのです。


夫人が最後に残したものは、将軍さまに対する愛情です。
そのことを忘れるべきではありません」


李広利はそれを聞き、悲しみに満ちた言葉を残した。
「なんだと……あいつめ……格好つけやがって……」
李広利の気持ちとしては、早々に長安に赴きたいところで
あっただろう。


遠征は概して成功したとは言えないが、皇帝への復命は
彼の義務でもあった。さらに妹の死を聞かされたとあっては、
弔いをしたいという気持ちを抱かないはずがなかった。


「遺族であるこの私にも、陛下は会わせてくれないのか」
彼は憤っていた。妹を守ることをせず、むざむざ死に至ら
しめた皇帝に対して……


しかし妹の死は病気が原因であることは明らかだったので、
これは八つ当たりというべきである。どこにも向けようもない
怒りの矛先が、皇帝に向けられただけであった。


「陛下にご不満をぶつけても、将軍さまの身が危うくなる
ばかりです。ご自分の気持ちが整理されるまでは、なおさら
お会いするべきではございません。


どうか敦煌で緩やかな日々をお過ごしください。
将軍さまご自身にも養生が必要です」


欣怡は懇願するような口調でそう言った。


彼女は、きっと再会をもっと楽しみたかったのだろう。
しかし現実には、心から笑い合えるような状況ではなかった。


このとき彼女は目に涙を浮かべていたが、李広利はそれに
気付くことがなかった。


機嫌を損ねたままの李広利が立ち上がり、身を翻しかけた
際に、鈴の鳴るような物音がした。欣怡はそれを聞き逃さず、
音の原因を探ったが、それは間もなく明らかになった。


「将軍さま、お腰のその飾りは……前に私がお送りした
ものですね。大切にしていただいて……嬉しい」


それを聞いた李広利は、どう答えるべきか迷ったようであった。
「ああ……これを身につけていることで、ときには困難な事態
に巻き込まれそうになったこともあった。


匈奴の手先に『それをよこせ』と強要されたこともあったのだ。
だが一方で烏孫の王妃に『大事にせよ』と声をかけられた
こともあった。


思い返せば、剣などよりよほど重要な役割をこの耳飾りは
果たしてきたように思う」


「ご迷惑だったでしょうか」
「いやいや、そんなことは決してない。これがなければ、
私は挫くじけていただろう。


これを見ると、帰還すれば欣怡が待っていてくれるだろう
という気持ちが呼び起こされた。


それがなかったら、私はとうに死んでいたに違いない。
砂漠の中で干からびたように……」


「では、お役に立てたと考えてもよろしいのでしょうか」
「もちろんだ。残念なことに妹には再会できなかったが、
私にはまだ君がいる……いや、こういう言い方をしても
差し支えなければだが…君がこうして迎えてくれて
私は幸せだ」


このとき李広利は烏孫公主のことを思い出していた。
帰りたいと思っているのにその場所がない寂しさと不幸。


かつて彼は、公主に対して幸せか否かを問いただしたこと
があったが、彼はいま自分自身にその質問を発し、その
答えを得たのだ。


「欣怡の言うとおり、敦煌にて養生することにしよう。
陛下への使者の件は、太守へよろしくお伝えしてくれ。
それと、宿舎の件も……」


「そんなに心配なさらなくても大丈夫。すべて私とお父様が
取り仕切ってご準備します。


将軍さまはごゆっくりなさってください」欣怡の表情に
ようやく本来の屈託のなさが現れた。これにより我々は、
等しく幸福感を得たのである。
……












地面に立つコチドリが翼をだらりと下げ、翼を引きずるような
しぐさをしている。


近づけば、翼をだらりと下げたまま、なんとか逃れようとする。
追いかければ、コチドリもこちらのようすをうかがいながら、
少しずつ少しずつ逃げていく。


ところが、しばらく翼を引きずりながら移動していたかと思うと、
いきなり飛び立ってしまった。


じつは、この鳥はケガをしていたわけではない。
ケガをしているふりをしていたのである。


これは「擬傷(ぎしょう)」と呼ばれるコチドリの仲間に
見られる行動である。


コチドリは、スズメより一回り大きな体の鳥で、砂浜や河原
などに生息している。砂浜や河原は大きな木が少なく、
木の上のような安全なところに巣を作ることができないので、
砂地の中に巣を作らざるをえない。


そのため、巣とはいっても、砂地にくぼみを作っただけの
粗末なものだ。大きな木も、岩もなく、見通しがよく隠れる
ことのできない環境でヒナを育てなければならないのである。


親鳥は敵が巣に接近すると、警戒の声を上げる。
すると、ヒナはじっと息を潜(ひそ)めて動かなくなる。


ヒナにできることは、ただただじっとして、敵に見つから
ないようにすることだけなのだ。


広い砂地のどこかで、コチドリのヒナがじっと息を潜めて
いるに違いない。 イタチやヘビなどの天敵が巣に近づくと、
親鳥は天敵の前に飛び出して、この擬傷を行う。


そして、傷ついて飛べないふりをしながら、敵の注意を引き、
おとりとなって敵を巣から遠ざけるのである。


自らの危険を顧(かえり)みることなく、子どもたちの命を
必死で守ろうとするのである。 人間であれば、感動的な
親子愛のドラマということになるだろう。


しかし、行動の主は鳥である。本当に、親鳥は子どもを
助けるためにおとりになっているのだろうか。敵の目を
欺(あざむ)くような複雑な行動をとることができるのだろうか。


そもそも、鳥類に人間のような愛があるのだろうか。
コチドリが見せる奇妙な行動は、しばしば学者たちを
悩ませてきた。


コチドリが翼を引きずるようなしぐさをするのは、
傷ついたふりをしているのではなく、パニックになって
飛べなくなっているだけだという解釈もされてきた。


しかし、コチドリの行動を見ると、間違いなく、子どもを
救おうとしているように見える。


現在では、コチドリの擬傷は「利己的な行動である」と
説明される。


生物は個体が遺伝子よりも優先するのではなく、遺伝子の
ほうが個体よりも優先すると説いた。すべての生物の体は
遺伝子の乗り物にすぎず、遺伝子を増やすために、「個体」
という生物の体は利用されている、としたのである。


生命の本質は遺伝子にある。そう考えると、利他的と思えた
生物の行動の多くは説明ができる。


自らの遺伝子は子にコピーをしていくことができるから、
自らの本体を頑(かたく)なに守らなくても、たくさんのコピー
を増やしていけばよい。


次世代にコピーした遺伝子を残すための行動?


コチドリの親鳥が子どもを守ることも、次世代にコピーした
遺伝子を残すためと考えれば、利己的な行動として説明
できるのだ。


自分の身を犠牲にしても、子どもたちを必死で守ろうと
する親鳥。 そんなものは本能である、そんなものは子を
思う親の愛ではない、という言い方もできる。


それは間違いではないだろう。 それでは人間はどうだろう。
私たちは赤ちゃんや幼い子どもを見るとかわいいと思うが、
それには理由がある。


たとえば、人間の子どもは、おでこが広く、目や鼻が顔の
下のほうに配置されている。この配置が子どもである
ことのサインである。


そして、大人はこのサインを見ると、脳は「かわいい」と感じる
ようにプログラミングされている。


そのため、猛獣であるライオンの赤ちゃんを見ても、かわいく
思えるし、キティちゃんのように、その条件を満たした
キャラクターは、かわいく見える。


人間の赤ちゃんや幼児は、大人の保護を受けなければ
ならない存在である。


そのため、人間は子どものうちは、意識的であれ無意識であれ、
子どもらしさのサインをアピールしようとする。


そして、人間の大人たちは、子どもらしさのサインを見ると、
保護しなければならないという気持ちに駆られる本能を持って
いるのである。


大人が子どもを見て、かわいがるのも愛ではない。
言ってしまえば利己的遺伝子のなせる人間の本能である。


あるいは、子どもがいない人にとっては、甥っ子や姪っ子は
かわいい。甥(おい)っ子や姪(めい)っ子は、自分と同じ
遺伝子を4分の1持っているからだ。


つまり、甥っ子や姪っ子をかわいがることは、遺伝子を守る
ことでもあるのだ。もちろん、自分に子どもができれば、
自分の子どものほうがかわいらしくなるものだ。


自分の子どもは自分と同じ遺伝子を2分の1も持っている
存在だからだ。 このように、私たち人間の行動も利己的
遺伝子によって説明される。


私たちの行動は単なる本能?それとも愛?


しかし、どうだろう。それは利己的遺伝子の働きであると
言ってしまえば、あまりに冷たいし、それが本能なのだと
言ってしまえば、あまりに寂しい。


私たちの行動は、単なる本能ではなく愛なのだと信じたい。


コチドリの親鳥は、遺伝子のコピーを持つ子どもが危険に
さらされれば、危険を顧みずに子どもを守ろうとする。


すべての生物は遺伝子の乗り物だとすれば、自分の身を
守るよりも、未来に遺伝子を運んでくれる子どもが大切なのは、
利己的遺伝子にとってみれば当たり前の話なのだ。


しかし、コチドリの親はそれが本能か愛かなどどうでもいいと
言わんばかりに、身を挺(てい)してわが子を救おうと
おとりになる。それがコチドリの親鳥なのである。


それにしても、コチドリの擬傷は命がけである。 何しろ、
そこは自由のきかない地上であり、ヘビやイタチなどは
親にとっても天敵で、動きが速い。その天敵を前に自ら
身をさらすのだ。


実際に敵につかまって命を落とす親鳥もいることだろう。


敵を見つけて、鳴き声でヒナに警戒をうながした親鳥は、
声を上げながら敵の前に躍り出て敵の注意を引くと、
地面にかがみ込んで、大きく広げた翼を引きずりながら
バタバタと震わせて見せるのである。


敵が近づけば、親鳥は向きを変え、ゆっくりと敵から
離れていく。敵に襲われないように、一定の距離を
保っているのだ。


敵のようすを慎重にうかがいつつ、敵が近づけば、
遠ざかり、敵が来なければ、必死に翼を震わせて
敵をおびき寄せる。


少しずつ、少しずつ、親鳥は敵から離れていく。そして、
敵を巣から遠ざけるのだ。少しずつ、少しずつ。
もう少し、もう少し。あともう少しだけ巣から離れれば、
親鳥はパッと飛び立って敵から逃げるのだ。


しかし、今回は敵の方が上手(うわて)だったようだ。
一瞬速くイタチが襲いかかり、親鳥の首元に食らいついた。
そして、親鳥をくわえたままイタチは、走り去っていった。
それで、おしまいである。 ・・・・


コチドリたちの親の行動は単なる本能なのか?


コチドリは必死にヒナを育ててきた。 必死に敵に立ち
向かった。 そんなドラマも、終わりはあまりにあっけない。


残されたヒナたちは、その後どうなるのだろう。
実際のところ、コチドリの寿命はよくわかっていない。
厳しい環境で生きるコチドリは、寿命を全うすると
いうことがほとんどできないのだ。


多くのコチドリたちが、こうしてあっけなく命を落としていく。
コチドリたちは、命をかけて子どもを守る。それがコチドリ
の子育てである。


子どものためには、自分の命は惜しくない。
それがコチドリの親なのだ。


コチドリたちの親の行動は、単なる本能にすぎないの
だろうか。 それを本能だと言ってしまえば、そうなの
かもしれない。


しかし、本能でないと言えば、それが真実かもしれないのだ。
・・・・






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