妄想劇場・流れ雲のブログ

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妄想劇場・一考編











私の両親はろう者である。全く耳が聞こえず、手話で話す。
ろう学校に通い、寄宿舎で育ち、ろう者同士で結婚し、
聴覚障害者協会(ろう協)会員だ。我が家の中はろう
文化である。



小学生の頃、風邪を引いた。
熱が上がってしまい、学校へは行けそうにない。
そうなると私は体より心が苦しくなった。


「どうしよう…」


母に怒られる。それはこっぴどく怒られる。
「風邪なんか引いて!」まず、こう言われるのが嫌だった。
そして次が問題だ。


学校に「お休みします」と電話しなければならない。
誰が? …私が。


風邪を引いて具合の悪い子どもが、自ら学校へ電話しな
ければならなかった。耳の聞こえない母は電話できない。
本当にこれが嫌だった。


聞こえる友人たちは皆、母親が電話してくれるのだそうだ。
たかが電話かもしれないが、友人たちのことが心底
羨ましかった。


「親が守ってくれるんだ…」


幼い頃は何も考えないで学校に電話できた。
だんだんと思春期になり、自分が大人になるにつれ、なぜ
私は親に守ってもらえないのだろうと真剣に考えるように
なってしまった。


風邪を引くと声が出しにくくなることもあるし、実際に声が
出ないときもあった。それを手話で母に伝えるのだが、
母はそのことが全く理解できなかった。


体調が悪いことよりも、母に理解してもらえないことの方が
私にとってはつらかった。


学校への電話連絡の件は、学校側にお願いをし、ファックス
連絡を取れるようにしてもらった。これは私が提案したもので、
母の考えではなかった。


「私のことを守ってくれる人なんて、この世には誰もいない
のではないか」私はそこまで考えるようになっていた。
「なんでこんなに苦しいんだろう」と常に考える小学生時代
だった。苦しいことが日常だった。


6年生のときの修学旅行が決定打だった。


旅先のホテルから皆がこぞって、家に電話をかけたのだ。
「お母さん、あのね…!」電話で楽しそうに家族と話す
友人たち。私はひどく驚いた。


そして一生忘れられない出来事となった。
「こんなに離れていて、親と電話で連絡がとれるの!?」
私には一生分かり得ない感覚だとその時悟った。


離れていても電話すれば声が聞こえる。
聞こえる人にとっては当たり前のことでも、私には不可能
なことだった。


声で親と喋れる安心感が私には無いことが分かってしまった。
親子仲が悪いわけでもない、親が居ないわけでもない、
けれど『聞こえない』ということが親子の距離を遠ざけた。


悲しかった。悔しかった。友人たちが羨ましかった。
でもこの気持ちを母に伝えたら、母はきっと悲しむから
言えない。


今考えれば、耳の聞こえない母が生きるために悲しみを
越えて怒っていたのだろう。母に悲しんだり落ち込んだり
している暇はないのだ。母には子どもを育てなければ
ならない義務があったから。


風邪を引いたときも、私は「大丈夫?」と心配してほしかった
だけなのだが、「学校は休んだらいけない場所!」ともの
すごい勢いで怒られた。


これもきっと娘を思うが故だったのだ。
熱が上がってしまい寝込んでいる娘を、母はきちんと
看病してくれた。


「怒られるのは嫌だから風邪を引かないようにしよう。
自分で電話するのは嫌だから風邪を引かないようにしよう。」


子供の頃、風邪を引いたときはいつも私はこんなことを
考えていた。「お母さんを困らせるのは嫌だから、私は
手のかからない子でいよう。」


私は無意識にこう思いながらずっと生きてきた。
母は困ったときこそ怒るということが分かっていた。
だからこそ私はそう思っていた。
私はつらい気持ちは自分の中に閉じ込めた。


今考えれば、小学生の子どもが自分で「今日は休みます」
なんて電話をかけてくるなんて、学校の先生はどう思って
いたのだろうか。


逆に何も思わなかったのだろうか。
もしかしたら「親が耳が聞こえないかわいそうな子ども」
と思われていたのかもしれない。


「現在の子どもコーダたちはどうしているのだろうか。」
過去の自分を思い出しながら、今を生きるコーダたちに、
私は思いを馳せる。


・・・










幸せは築きあげていくなんて そんな大げさなことじゃなくて
ただ心の中の小さな微笑みだ。
目標でもなければ 目的でもない ましてモノでもなく
楽園でもない。


幸せとはどんな時にでも 微笑むことができる強い心だ。
幸せがあるから あなたは微笑むのではなく
微笑むからあなたは幸せになっていく。


二人で暮らしはじめ あなた達のもとに届けられるものを
しっかりと見つめてみるといい。
お互いの心の中に静かに凪いでいる


輝く海のような微笑みがあれば 言葉でも
人の心でも あなたの周りにおこる出来事でも
あなた達のもとには 幸せが届けられる。


「愛する―それはお互いを見つめあうことではなくて
いっしょに同じ方向を見つめることである」と
サン=テグジュペリは言ったけれど
見つめ合うことも忘れてはいけない。


心は分かりにくいから
相手の瞳の中に自分の微笑みがあるか
いつも見つめ合って確かめた方がいい。


いくつになっても見つめ合い
自分がどれほど相手を幸せにしているかを
いつも感じて暮らす。


幸せは築きあげていくなんて そんな大げさなことじゃなくて
慎ましい日々の暮らしの繰り返し その中で微笑み合うこと
そこから二人の幸せは生まれ続ける。



父はいつも母の顔を見て微笑んでいた。その柔らかな優しい
「まなざし」を通して、介護を考えていきたい。


「お母さん、お母さん」と言いながら、父はいつも微笑みながら
母を見つめていた。母は嬉しそうな顔をして、父に微笑みを
返していた。


父に愛され、受け入れられていると母は感じていたに
違いない。自分が受けいれられているという安堵感、
全てを忘れ去ってしまう中でも自分が支えられているという
安心感を、母は父の微笑みの中に感じていたと思う。


何もかも忘れ、なかなか世界をそのまま認知できなくなり、
この世界や周りの人たちからの疎外感や自分がどうなって
しまうのだろうという不安の中で生きる母にとっては、
父の微笑みが唯一の救いだったと思う。  


父と母の二人の間に交わされる微笑みを見ていて、
人は幸せだから微笑むのではなく、微笑むからそこに
幸せが生まれるのだと思うようになった。


そして、そのことを詩に書いて、高校の友人の結婚式に
贈った。友人宅に行くと、この詩が額に入れて大切に
飾ってあった。


「夫婦喧嘩したときは壁に掛けたこの詩を読むんです」と
奥さん。微笑みながら言っていた。


高校生時代、私はその友人の笑顔にどれだけ救われた
ことか。その友人の笑顔を見ると、なぜかいつも私は
ホッとしていたのを覚えている。


元気な私でもこうなのだから、崩れていく自分を微笑み
ながら丸ごと受け入れてくれる人が側にいることは、
認知症の人にとってどれだけ幸せなことか。


「桜の花が微笑みはじめる」というように微笑むとは、
花が少し開くことをも意味する。


春を待ちわびる地方の人々にとっては、蕾が開くことは
その花が微笑んでいるように見えるのも至極当然のこと
である。


微笑みが、喜びや幸せと共にあることは、この言葉の
使われ方からも明らかである。


講演中にいつも感じることがある。それは、どんなに言葉で
面白いことを言っても、講演を聞いている人は笑わない時が
ある。


反対にどんなにつまらない話でも、私が微笑みながら話を
すると、聞いている人たちは微笑んで、時には声を出して
笑うときさえあるのだ。


まるで鏡を見てでもいるかのように、私が微笑んで話すと
講演を聞いている人たちも、微笑んで聞いていることが多い
ことに気がついたのだ。


人の微笑みの中に、人は喜びや幸せを見つけるのかも
しれない。笑ってもらおうと、いくら言葉巧みにやっても人は
微笑んではくれない。


自分が微笑まず、笑顔も作らずに人の微笑みや笑顔を
もらおうとしてもそう易々とは手に入らないのだ。


それは、とても「愛」に似ていると思う。愛をもらうために
必死になっても愛を手に入れるのは難しい。


それは、愛が与えるものだからだ。微笑みも愛と同じ与える
ものだと思う。  


父は気づいていたに違いない。幸せを求め続け、自分の
心以外のどこにも幸せは見つからず、幸せは自分の心に
生み出し、微笑みと共に与えるのだと気づいていたに
違いない。


だから、「お母さん、お母さん」と言いながら、父はいつも
優しい笑顔で母を見つめていたんだと思うのだ。


母が認知症になって母に寄り添う父はとても幸せそうだった。
幸せだから微笑むのではなく微笑むから幸せになっていく。


父の強さは いつも感じていた。「幸せとはどんな時にでも
微笑むことができる強い心だ。」


父を見ながら、よくこんな状況で母に微笑みかけられるなあと
思っていた。私がそう易々と幸せを手にできないのにはわけが
あるのを、私は知っている。


それは、まだ父の強さを持っていないからだ。
自らは心臓病を抱え、どんな過酷な状況でも母を介護し、
母に微笑みかけた父の強さが私にはまだないのだ。 ・・・・


・・・





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