妄想劇場・流れ雲のブログ

趣味の、自己満ブログです。人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない…掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。 迅速に対応させていただきます。

妄想劇場・森羅万象













教師という仕事の魅力、現場の先生方の日々の実践、
そのための努力について社会に伝えることが目的だそうです。



一つ目は「ワープロ贈収賄事件」、


関西のとある国立大学で起きた。業者が大学の事務長に
賄賂を渡してワープロの大量購入を持ちかけたのだ。


「予算は文部省が握っている」と事務長が言うと、業者は
文部省の担当課長にまで賄賂を渡して、そのプロジェクト
を成功させた。  


しかし、事件は発覚した。文部省、国立大学を巻き込んだ
大がかりなこの贈収賄事件をマスコミは大きく報じた。  


逮捕された文部省の課長はあっさりと200万円の収賄を
認めた。だが、少なく見積もっても1000万円は受け取って
いると確信していた大阪地検は、連日連夜、追及し続けた。  


2週間後、ついに課長は折れた。
「すべてをお話して、私は死にます」と。


課長の口が堅かったのはお金を若い男に貢いでいたから
だった。彼は同性愛者だった。当時は偏見の強い
時代だった。


「このことが裁判で公になると自分も家族も生きていけない」
と泣き崩れた。  


担当した田中検事は、「女性問題なら世間でよくある話だ」と、
彼と彼の家族を救うために「男」を「女」にすり替えた嘘の
供述書を作成し、裁判所に提出した。  


文部省官僚のカネと女のスキャンダルはマスコミの
恰好の標的になった。


二つ目は、1968年に東京・府中市で起きた「3億円事件」。


犯人は土地勘のある若い男と断定。警察は多摩地区在住の
20代男性、約20万人を1人ひとり調べた。  


1年後、「26歳の運転手Aが重要参考人として警察に拘束」
と報道された。  


その翌日、Aの逮捕を受けて、マスコミは「A」を「草野信弘」
と敬称なしの実名で報道した。顔写真も掲載された。


中学・高校時代、勤め先、近隣住民の声など、彼の過去と
現在が白日の下にさらされた。  


翌日、彼の事件当日のアリバイを証言する人が現れた。
誤認逮捕だった。  


本来ならここで「終わり」となるところだが、・・・・
3日間の報道で草野さんの人生は狂ってしまった。


会社は解雇、兄弟の縁談は破談、本人はうつ病になった。
「このままだと共倒れになる」と、妻と離婚した。その後、
元妻はくも膜下出血で死亡。


行方不明になっていた草野さんは2008年に遺体で
見つかった。自殺だった。


三つ目は、2005年の「姉歯事件」。


耐震強度を偽装したとして一級建築士の姉歯氏は連日
マスコミに叩かれていた。  


「国の基準自体が厳しいんです。計算上、震度7や8にも
十分耐えられるはずです」と姉歯氏は主張したが、それが
「開き直っている。


反省していない」とマスコミをさらに刺激し バッシング報道は
過熱した。  


また、「姉歯はカツラだ」「愛人にマンションを買い与えた」
「妻は高級ブランドを買い漁り、ホストクラブで豪遊している」
と言い出す マスコミも出てきた。  


結局、姉歯氏は逮捕。妻は自ら命を絶った。
実は、事件前から妻は精神科に通っていた。そして
、「カツラ」以外はすべて虚偽報道だったことも分かった。  


6年後、東日本大震災が関東圏を襲った。
そのとき、姉歯氏が設計したビルはすべてヒビ一つ入らず、
ビクともしなかった。そのことをマスコミは黙止した。 ・・・



あの文部省の課長にも、誤認逮捕された草野さんにも、
そして姉歯氏にも、当時小、中学生の子どもがいた。


だが、親は子どもを守れるような状況ではなかった。   


ここからは想像だが、あのとき、親に代わって事件の渦中
にいた子どもを必死に守った先生がいたのではないか。


休みの日も子どもの心に寄り添った担任の先生や、
学校をあげて子どもを守ろうと指揮を取った校長が
絶対いたと思う。  


家庭が、その機能を果たせなくなったとき、犠牲になるの
はいつの時代も子どもだ。


そういう子どもたちにこそ、本来の力を発揮する先生が
この国にはいる。そう信じたい。 ・・・・








コロナ禍により、街から人が消えた。だが、そんな中でも、
売上を倍増させた店や会社があった…・・・・


コロナ禍の中、顧客は「選別」を行っていた。


今までなんとなく惰性で行っていた店に行けなくなった結果、
「別にあの店に行く必要はない」という選択を行った。
あるいは「この商品は別になくても困らない」と考え、
行くのを、買うのをやめるという選択を行ったのだ。


その結果が、「いつまでたっても顧客が戻ってこない」の
正体ではないだろうか。


選別消費とは、「自分がコスト(お金、時間、労力など)をかける
べきもの、使うべき先をシビアに選択・選別する消費」のこと。


元々、増税や災害などの際にはこの選別消費の意識が
高くなるのだが、今回はまさに、コロナによってこの選別消費
の意識が大いに高まった。


自粛前にはよく行っていたのに、自粛期間が明けても
なんとなく足が遠のき、そのまま行くのをやめてしまった店は
ないだろうか。


その選別は意識的に行われたものとは限らない。
むしろ大半は、無意識のうちに頭の中から消えてしまった
のだろう。


人間は忘れる生き物だ。


意識的か無意識的かにかかわらず、あなたがその店に
行く必要がないと選択してしまえば、頭の中から忘れ
去られてしまう。


その商品を買う必要がないと選択してしまえば、それを使って
いたことすら忘れてしまう。


リアルからネットへという移行は、もうずっと前から進んで
いたことだ。 アマゾンも楽天もZOZOTOWNも、もうずいぶん
前からサービスを開始している。


ネットフリックスなどの新しいサービスもコロナ前からある。
「中途半端なものが売れなくなる」という現象もまた、
コロナ前から顕著だった。


コロナによって、それが明確になったに過ぎない。


選ばれなくなった店や商品にとっては、「顧客消滅」はすでに
現実のものとなっている。


つまり、今起きていることは「未来の前倒し」に過ぎない。
本来、来るべき未来がコロナショックによって一気に到来した。
それだけのことなのだ。


そして、コロナショックによって消えてしまった顧客は、
遅かれ早かれ、去っていく運命にあったのである。


外出を自粛する中で、こんな思いを持ったことは
ないだろうか。?


「コロナのせいでよく行っていたあの店に行けてないが、
なんとなく寂しい」 顧客にとっても、ワクワクできるような
場所や店は財産だ。


「心の時代」である今、人々は単なるモノではなく、
自分の心を充たしてくれるようなモノや場所を求めている。


そう考えたとき、実はコロナショックは、「心が豊かになる」
ビジネスを展開している会社にとっては、大きなチャンス
となり得ることがわかる。


人は何らかの愉しみがないと生きていけない。 ここでいう
「愉しみ」とは、人としてより良く生きるためのエネルギー
チャージだ。


だが、旅行もできなければアミューズメントパークにも
行けないのだ。 ならば、近所の個室で接客してくれる
あの飲食店に行こうか、感染対策がしっかりしている
あの美容室に行こうかなど、むしろお客さんには新たな、
無数の選択肢が生まれる機会となっているのが、


今だ。しかし、多くの会社ではそれに対して有効な手を
打てていない。 あるいは、顧客リストがないのでそれを
伝えるすべがない。


その結果、アマゾンプライムやネットフリックスに顧客を
奪われている。 さらに言えば、より奪われているのは
「顧客の時間」だ。


外に遊びに行けなくなったことに加え、在宅勤務などで
通勤の無駄な時間がなくなった。 そうして浮いた時間は
現在、ネットフリックスなどで映画を見たり、スマホで
ソーシャルゲームをいそしむのに使われている。


では、その時間をどうやったら自社や自店のサービスに
使ってもらえるか。 その発想が重要なのである。


「アフターコロナ」の時代に求められること


フロー型からストック型へのビジネスを変える「ファンダム」
を作り、育てていく感性と価値で市場を創る


◆「業種分類は消滅する」
たとえば美容院なら美容院、書店なら書店という縛りが
あいまいになっていく。 顧客はモノを買うことで「心が豊か
になる」体験を求めているからだ。


◆「多くは教育産業となる」
たとえば、酒屋さんがワイン教室を開く、というようなイメージ
をさらに進化したものだ。 注目の「サブスクリプションモデル」
も、その基本は同じだ。


◆「社交サロンが隆盛する」。
今後特に店舗は、モノを買うための場所ではなく、人々が
社交し、交流する場になっていく。


顧客は店と、あるいはその店に集う人と交流するために、
店に足を運ぶようになる。 コロナ禍が終わり、ワクチン接種
が進めば、また元のような日常が戻る、と思っている人は
多い。


しかし、一度体験してしまった便利さや、新たな愉しさを元に
戻すことはできない。 つまり、新たなステージに入ったと
いうことだ。


時代は進化し続ける。コロナ禍、顧客に選別されてしまうの
ではなく…新たな価値を創造し続ける人や店でありたい。・・・・






私の心に残った一言は、父が言った「幸せだな」
という言葉だ。


私が中学二年生の時、父は会社で事故に遭い、現在も
治療をしている。


父は大怪我をしてとても暗く、母は、仕事と父の世話でとても
大変だった。


だから私は兄と一緒に少しでも母の負担をかけないよう、
洗濯などの普段母に任せてばかりの仕事を分担して
行っていた。


前は、明るく四人で会話をしながらしていた食事も、
家族がばらばらの食事になってしまった。


一か月後、父は退院した。
私は父が退院できると聞いた時、いつもは、それほど
感情は表さないけれど、その時は素直にうれしく笑みが
こぼれた。


また以前の生活に戻ることができると思った。


ある日、家族四人で食事をしていた。すると父が突然、
「幸せだな」 と言った。


普段父は、そういう言葉は口に出さないのでとてもびっくりした。
その時私も父と同じように幸せだなと思った。


父の一言で、あたり前に過ごせることが、幸せであるという
ことに気がつくことができた。 ・・・・






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